1978年のテレビ (日本)
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その他テレビに関する話題
年間
1 - 6月
- 1月1日 - 日本テレビが開局25周年にあたり、社章を「NTV」を丸で囲ったものから、地球を模した「日」の字のものに変更。
- 4月 - フジテレビがイメージソング「愛のメッセージ」(阿久悠作詞、都倉俊一作曲)を制定、この月より放送などで使用開始。
- 4月8日 - 世界初の実験用放送衛星「ゆり1号」が打ち上げられる。
7 - 12月
- 7月1日 - 静岡県第3番目の民放局、静岡県民放送(通称:静岡けんみんテレビ・SKT、現:静岡朝日テレビ・SATV)開局[19]。当時は日本テレビとテレビ朝日のクロスネット局として開局。
- 8月26日 - 日本テレビ本社南本館(後の麹町分室)竣工(2019年解体)。
- 8月28日 - 日本テレビが開局25周年。社史「大衆と共に25年」を刊行。
- 9月28日 - 日本テレビが世界初の音声多重放送を開始したのを皮切りに、在京・在阪を始めとするNHK・民放各局等が、相次いでそれを開始(各局の開始日については、下記に記述)。それまでのテレビの音声はモノラルであったが、この開始により、音声のステレオ放送や2か国語放送が行われるようになる[20]。後に副音声による解説放送等も行われるようになった。又、この当時、当時の電電公社のテレビ用のマイクロ同時ネット回線がステレオに対応していなかったため、ネット受けは2か国語放送のみの対応だった(それのステレオ化整備完了は、東名阪及び北陸地域に於いては、翌年の8月8日だった。[21][22])。その為、ネット受け局でステレオで放送したい場合は、事前に別途ビデオ送りをして対応した[23][24][注釈 1]。
- 10月 - 岩手放送(現・IBC岩手放送、TBS系)が開局25周年事業として「岩手百科事典」を刊行。
- 12月28日 - 俳優の田宮二郎が猟銃で自殺(43歳没)。なお、田宮が当時主演していたフジテレビ系『白い巨塔』(土曜劇場)では12月30日放送(第30回)の冒頭と1979年1月6日放送(最終回)の最後に田宮を追悼するテロップが表示された。なお、同ドラマの収録は11月15日で全て終了しており、田宮の自殺前に最終回分までの編集・制作も既に完了していたため[25]、同ドラマの放送に支障が出る事は無かった。
- 12月31日 - NHK総合『第29回NHK紅白歌合戦』と日本テレビ系『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に於いて(共に生放送)、各々ネット受けをしていた大阪のテレビ局(NHK大阪放送局及び読売テレビ)が共に、テレビのネット受けでは初めてのステレオ放送を実施。[26][15]
注釈
- ^ 例として、日本テレビ系の10月1日放送の音声多重放送開始記念特番『これが音声多重放送だ!』の大阪の読売テレビでの放送や、TBS系の毎日放送『もうひとつの旅』の東京TBSテレビでの放送(12月10日から)が、これに該当する。
- ^ この番組は日本テレビ系の「木曜スペシャル」枠で全国ネットされたものの、この放送時は未だ、電電公社のテレビネット回線の音声多重化工事が完了していない為、ステレオは読売テレビのみだった。(朝日新聞 1978年12月7日 東京版朝刊 P.13 テレビ欄では、日本テレビではモノラル放送となっている(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)。
- ^ ちなみに、この年(第7回)の予選(12月5日放送)は、モノラル放送だった。(朝日新聞 1978年12月5日 朝刊 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧))
- ^ 例として、この年の10月11・18日の2週に渡り放送された映画『遠すぎた橋』は、日本語吹き替えによるステレオ放送だった。
- ^ 洋画でも、日本語吹き替えによるステレオ放送になる場合もあれば、同番組の特別企画で邦画が放送される際はモノラル放送が一般的になる。
出典
- ^ ただし21時枠は、通常のドラマ『さわやかな男』(関西テレビ制作)が編成されず、特別番組『アッ!はぷにんぐ・ニューイヤー』が編成された。
- ^ ミニアニメなら、1980年1月1日開始の5分アニメ『キリンあしたのカレンダー』(毎日放送)がある。
- ^ ちなみに記念すべき最初1曲目となったこの週の第10位は野口五郎の「風の駅」。また、この年の年間第1位獲得曲はツイストの「銃爪」であった。
- ^ 橋田壽賀子脚本によるテレビドラマ。宇津井健の代表作品。
- ^ 曲名は不明。後期はニューヤンキースから選ばれた3人で結成されたグループ「スリーヤンキース」が歌う「ザ・ベースボール」に変更された。なおいずれも、同枠で『欽ドン!』SPやプロ野球中継が放送された時は歌は無し。
- ^ 翌1979年まで務め、1980年からは『紅白水泳』のおりも政夫に交代した。
- ^ 『読売新聞』読売新聞社、1978年9月23日付朝刊・1978年9月28日付夕刊。
- ^ 『毎日新聞』毎日新聞社、1978年9月28日付朝刊・夕刊。
- ^ 『中日新聞』中日新聞社、1978年9月28日付夕刊。
- ^ 田宮司会の最終日となった第504回の映像は1986年3月27日の最終回や、2009年2月8日放送の特番『50時間テレビ・超大ヒット人気番組ぜ〜んぶ見せます!スペシャル』等でも放送された。
- ^ 『読売新聞 縮刷版』1978年10月1日付ラジオ・テレビ欄、読売新聞社頁。
- ^ 2022年現在はBSテレ東で復活版『BS演歌の花道』として放送中。
- ^ 初出演は1977年8月11日で、この時は2回目の出演だった。
- ^ それ以降は出演がなかったが、2021年12月28日の放送で約8年ぶりに年末出演した。
- ^ a b c NHKクロニクル「第29回NHK紅白歌合戦」(1978年12月31日)
- ^ “松岡修造 No.1くいしん坊に!歴代トップの出演回数達成!『くいしん坊!万才』”. とれたてフジテレビ (フジテレビ). (2016年2月8日)
- ^ 竜崎は6年後の1984年12月18日に死去。
- ^ 翌1979年春の調査で、1978年の年度視聴率においても、TBSは3冠王を達成したが、あくまでも在京民放局の中での首位であった(全日首位はNHKで、TBSはゴールデンタイムとプライムタイムの2冠であった)。
- ^ 日本民間放送連盟(編)「放送日誌(1978年7月)」『月刊民放』第8巻第10号、日本民間放送連盟、1978年10月1日、50頁、NDLJP:3470914/26。
- ^ 日本民間放送連盟(編)「放送日誌(1978年9月)」『月刊民放』第8巻第12号、日本民間放送連盟、1978年12月1日、50頁、NDLJP:3470916/26。
- ^ 日本民間放送連盟(編)「ズーム・アップ テレビ音声多重中継回線開通へ / K」『月刊民放』第9巻第8号、日本民間放送連盟、1979年8月1日、7頁、NDLJP:3470924/4。
- ^ “日本放送協会総合技術研究所『五十年史』(1981.03) | 渋沢社史データベース”. shashi.shibusawa.or.jp. 2023年12月17日閲覧。
- ^ a b よみうりテレビ開局20周年記念事業企画委員会 編『よみうりテレビの20年 : 写真と証言』讀賣テレビ放送株式会社、1979年7月、82頁。NDLJP:12276016/86。
- ^ 朝日新聞東京版1978年12月10日 朝刊P.13 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチで閲覧)
- ^ 自殺3日前の12月25日に田宮は妻の藤由紀子と共にFNSチャリティー募金に寄付するためフジテレビ本社を訪問しており、その際にフジテレビ幹部らの勧めで放送前だった『白い巨塔』第30回と最終回を夫婦で鑑賞している。
- ^ 朝日新聞大阪版 1978年12月31日 朝刊P.16 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチで閲覧)
- ^ 日本テレビ 会社概要 日本テレビ略史(日本テレビ公式ページ)(2023年12月17日閲覧)
- ^ 株式会社毎日放送 会社紹介 沿革(毎日放送公式ページ)(2023年12月17日閲覧)
- ^ 全国朝日放送株式会社総務局社史編纂部 編『テレビ朝日社史 : ファミリー視聴の25年』全国朝日放送、1984年2月1日、418頁。NDLJP:12276014/500。
- ^ テレビ朝日 会社情報 社史(テレビ朝日公式ページ)(2023年12月17日閲覧)
- ^ 北日本放送 沿革(北日本放送公式ページ)(2023年12月17日閲覧)
- ^ 『北日本新聞』1978年12月23日付朝刊11面『テレビに"多重放送時代" 多重放送 週に17時間放送「チャンネル1」など』より。
- ^ 『テレビ東京20年史』テレビ東京、1984年4月12日、100頁。NDLJP:12275747/55。
- ^ テレビ東京 会社案内 沿革(テレビ東京公式ページ)(2023年12月17日閲覧)
- ^ CBCテレビ版はこれよりも早く1962年12月3日に開始したため、1977年で15周年となった。
- ^ この年の8月20日 - 10月1日放送分では「15周年記念全国大会」と題した特別大会が行われた。なお、2012年4月28日に司会の小池清が80歳で死去し、翌日の「毎日新聞テレビ夕刊」(関西ローカルニュース)で小池の訃報を伝える際、決勝大会(10月1日放送)の映像が流れた。
- ^ 関西ローカル時代から通算して5周年。
- ^ 第1作『必殺仕掛人』から通算。
- ^ 当時の『ゴールデン洋画劇場』は金曜日に放送しており(1981年に土曜日へ移行)、また邦画を放送する際は特別企画としていた(2011年現在は土曜日に『土曜プレミアム』として放送)。
- ^ 『50周年記念「タツノコプロテン」』2012年
- ^ 日本テレビ最後の昼ドラ。
- ^ a b c 1978年6月23日(金) - プレイバック!TVガイド ~あのころのテレビはこうだった!~ - テレコ!
- ^ 日本民間放送連盟(編)「放送日誌(1978年10月)」『月刊民放』第9巻第1号、日本民間放送連盟、1979年2月1日、54頁、NDLJP:3470917/28。
- ^ 『読売新聞』(縮刷・関東版) 1978年(昭和53年)4月2日付朝刊、テレビ欄。
- ^ よみうりテレビ開局20周年記念事業企画委員会 編『よみうりテレビの20年 : 写真と証言』讀賣テレビ放送株式会社、1979年7月、143頁。NDLJP:12276016/147。
- ^ よみうりテレビ開局20周年記念事業企画委員会 編『よみうりテレビの20年 : 写真と証言』讀賣テレビ放送株式会社、1979年7月、82頁。NDLJP:12276016/87。
- ^ a b c d e 朝日新聞 1978年10月1日 朝刊 P.13 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
- ^ 朝日新聞 1978年11月12日 大阪版朝刊 P.13、11月13日のテレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
- ^ 朝日新聞 1978年12月7日 大阪版朝刊 P.24 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
- ^ 朝日新聞 1978年12月11日 大阪版朝刊 P.14 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
- ^ 朝日新聞 1978年12月19日 朝刊 P.11 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
- ^ a b 朝日新聞 1978年12月24日 朝刊 P.13 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
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