迎恩門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 05:09 UTC 版)
迎恩門 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 영은문 |
漢字: | 迎恩門 |
発音: | ヨンウン=ムン |
日本語読み: | げいおんもん |
文化観光部2000年式: 英語: |
Yeongeunmun Yeongeunmun Gate |
概要
この門は、漢城の西大門である敦義門のすぐ外、義州を経て北京に至る街道に建てられていた。中国の皇帝の臣下であり、冊封国であった朝鮮の歴代の王が、中国の皇帝の使者を迎えるための門であった。1407年には慕華楼という使臣のための建物が建てられていたが、1536年に金安老の建議でそのそばに「迎詔門」を立てた。しかし1539年に明の使臣で来た薛廷寵は、使臣は中国皇帝の詔書や勅書や下賜の品々を持ってくるのに、門の名前が「詔だけを迎える」ではおかしいと言いがかりをつけ、朝鮮側は名前を「迎恩門」に変えた。1606年に来た明の使臣朱之蕃が書いた門の扁額が国立古宮博物館にある[1]。
日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制から李氏朝鮮は離脱した。こうして大韓帝国が成立、独立協会は迎恩門を取り壊し、1897年に独立の記念として新たに独立門を同じ場所に建てた。また中国への隷属の象徴であった迎恩門を取り壊す際に、屈辱を忘れないために、2本の迎恩門柱礎だけを残した[2]。また迎恩門に隣接して建てられていた慕華館は独立門建立時に独立館に改名された。
崔基鎬によると、迎恩門は明代および清代に朝鮮国王が三跪九叩頭の礼によって使者を迎えた場所である[3]。
崔基鎬は、
1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。(中略)1897年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門[4]が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった。
と評している[5]。
朝鮮国王は、満洲人の使節が来ると、みずから高官を従えて迎恩門まで歓迎に赴き敬意を表し、宴会を催し、芸を披露して接待しなければならず、李氏朝鮮の太子は慕華館で満洲人の勅使に酌の礼をするのが最大の役目だった[6]。これは、現在行われているような、国賓を出迎えるため空港に儀仗隊を整列させるといった儀礼とはまったく異なる性質のものである[6]。
- 迎恩門のページへのリンク