磐城の戦い 磐城平城攻防戦

磐城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 16:15 UTC 版)

磐城平城攻防戦

第一次磐城平攻防戦

兵力 兵力
新政府軍 岡山藩 300 同盟軍 仙台藩 500?
佐土原藩 300 磐城平藩 200
米沢藩 130
磐城平の位置

6月29日、湯長谷を失った列藩同盟軍は、撤退の助けとするため湯本に放火し、合流した仙台藩兵や磐城平藩兵と共に浜街道の堀坂に陣をしいた。湯長谷を落とした岡山藩・佐土原藩ら新政府軍は、直ちに堀坂に向かったが火事で通れず、手間取りながらも東に迂回する。ようやく延焼する堀坂を回り込んでいくと、ちょうど同盟軍の側面をつく形となった。列藩同盟軍は虚を突かれて混乱し、被害を出しながら磐城平城付近まで退却する。

こうして時間を費やしながらも磐城平城を目前にした岡山藩・佐土原藩だったが、磐城平は奥羽越同盟軍にとって重要な拠点であり、磐城平藩と中村藩200[11]も戦意旺盛であるために頑強な抵抗に手を焼いた。また、列藩同盟軍に同日到着した米沢藩3小隊(130名ほど[12])が加わり、米沢藩・仙台藩・中村藩兵は稲荷台に砲陣をしいて砲撃を加えた。火縄銃が主体の列藩同盟軍であるが、米沢藩兵は元込銃で武装しており、猛射によって新政府軍の前進を食い止める。新政府軍は攻めあぐねたまま日没を迎えて、湯長谷に一時退却せざるを得なかった。この日、海側の薩摩藩と大村藩は小名浜に上陸したばかりの富田小五郎が率いる仙台藩の増援1大隊と富岡で遭遇していたために、岡山藩・佐土原藩の援軍に向かうことはできなかったが、仙台藩の1大隊を壊滅させることに成功した。

仙台富田隊の壊滅

泉領奪還へと向かう仙台藩富田小五郎の1大隊だったが、既に水田地帯を進軍中に新政府軍に捕捉されていた。当時の諸藩同様、冨田隊は密集陣形で前進しており、薩摩藩の最初の砲撃で多数の負傷者を生じる。その上、間髪を入れず薩摩藩が突撃を敢行し、大村藩は側面に回りこんでの一斉射撃を仙台藩富田隊に浴びせかけた。たちまち富田隊は総崩れとなり、輸送艦の停泊する小名浜方面へと撤退を始める。沖には太江丸と長崎丸が停泊しており、富田隊は海上での立て直しを図っていた。

だが、中ノ作から沖合いの輸送艦までは30人乗り程度の大きさの伝馬船にのって沖を目指さねばならず、数も足りないために数度の往復が必要となった。それでも負傷者から搬送させようと奮闘する富田らの尽力で輸送は進み、薩摩藩が殺到する直前に最後の30人が乗り込む。後は沖へと漕ぎ出すのみだったが、潮の流れは干潮となっていた結果、船は沖へ向かうどころか浜へと近づいていく。そして浜には薩摩藩兵らが銃を構えて待ち構えていた。仙台藩兵は為す術もなく銃撃を浴びることになり、この日仙台藩の戦死者は64人(一説には121人)、負傷者は22人[13]に及び、中には殿を務めた富田も含まれていた。一方の新政府軍の被害は、薩摩藩兵が戦死1人と負傷2人、大村藩兵が負傷1人を出したに過ぎなかった。[14] 海上に逃れた仙台兵も怪我人と士気の低下、隊長の戦死により大隊としての機能を喪失した[15]

第二次磐城平攻防戦

兵力 兵力
新政府軍 薩摩藩 400 同盟軍 仙台藩 500?
大村藩 300 磐城平藩 200
米沢藩 130

7月1日、今度は新政府軍の海岸側の部隊が磐城平城攻略に動いた。小名浜から出撃した薩摩藩・大村藩は山側の僚軍に一報を入れることなく磐城平城へ攻め寄る。両藩はこれまでと同様に一隊を分離して搦め手として城の東に向かわせたが、今回の列藩同盟軍は六斤砲を用意した上、稲荷台に小銃を装備した藩兵を配置して待ち受けていた。また、磐城平城に入っていた古田山三郎らは相次ぐ敗戦の雪辱に燃え、戦意高揚していた[16]

新政府軍は散開して城に近づくが、後装銃を含むこれまでにない銃撃を受けて前に進むことができず、午後になっても戦況は変化しなかった。期待した湯長谷からの増援も当初の連絡の不備により訪れず、弾薬の欠乏から勝機なしと見て薩摩藩は後退を始める。新政府軍は負傷者を出したが死者はなく、銃声を聞いてようやく出撃した岡山藩兵に迎えられて湯長谷にともに撤退した。一方の同盟軍は、防御側であるにも関わらず、この日の仙台藩兵の死者は30人と負傷者が20人、相馬中村藩兵の負傷者が2人と甚大な被害を出した。[17]

こうして2度に渡る新政府軍の攻撃を甚大な被害を出して辛うじて退けた列藩同盟軍であったが、戦況は日に日に悪化していた。白河口と棚倉城の失陥は周囲の藩に動揺を与え、棚倉に近い三春藩守山藩は独自に和平の道を模索し始めている。浜通りにしても湯長谷藩は既に本拠を奪われた上、四方が同盟に加わっているため止むを得ず従っているだけと新政府へ意を伝えていた[18]。中村藩にしても北に仙台藩と接し、逆らえば即座に侵攻される地理的理由があった。不在の藩主安藤信勇に代わり、隠居の安藤信正の佐幕思想によって列藩同盟軍に協力している磐城平藩であっても、藩論は一つでなかった。信勇は5月の時点で明確に新政府に恭順を誓っており、美濃別領で召集した兵力を新政府軍に派遣していた。仙台藩は本拠を失った泉藩・湯長谷藩の藩主を仙台に保護していたが、転戦を続ける泉藩・湯長谷藩兵にとってこれはまさに人質であった。

新政府軍への増援

新政府軍は一挙に戦局を優位に進めようと仙台への侵攻を計画し、磐城平城の占拠に本腰を入れつつあった。3日四条隆謌を仙台追討総督とし、平潟軍はようやく軍司令を擁することになる(四条総督が実際に平潟に到着するのは7月22日)。続々と援軍も到着し、第四陣として鳥取藩6小隊300人、岡山藩80名および後方支援担当の郡山藩70名が実戦指揮官の参謀河田景与(河田佐久馬から改名)と共に到着すると、9日には第五陣として砲兵を含む薩摩藩469名が加わり、12日には第六陣の鳥取藩700余名が到着。平潟新政府軍の陣容はほぼ倍となった上に、仙台藩侵攻を企図する新政府はなおも援軍の編成を進めていた。

兵力の集結の目的が仙台本藩への侵攻であることは、新政府軍が12日に公布した作戦方針[19]でも明らかとなっていた。仙台藩では藩主伊達慶邦が事故により動けなかったため、後継である伊達宗敦が国境の宇多郡駒ヶ嶺村に出陣し、中村藩でも藩主相馬誠胤が自ら兵を率いて前線を鼓舞した。しかし、磐城平城での2度の攻防戦で失われた兵力への補充は十分でなく、仙台藩石母田備後の援軍は四倉についたものの待ち伏せ奇襲によって被害を受け動けず[20]、磐城平城への援軍入城の記録はほとんど見受けられない[21]

第三次磐城平攻防戦

兵力 兵力
新政府軍 薩摩藩 876 同盟軍 仙台藩 500?
大村藩 300 磐城平藩 200
鳥取藩 300 中村藩 100-200[22]
岡山藩 380
佐土原藩 300
笠間藩 200

磐城平城が健在であることは白河方面軍にとって後背の不安要素であり、棚倉城を落とした棚倉支軍の行動にも掣肘を与えていた。11日、白河方面軍から棚倉支軍司令官の板垣退助と牧野群馬、中島茶太郎ら(その中には当時砲隊長だった大山巌も含まれていた)が督促のため来訪。平潟軍を率いていた木梨精一郎、渡辺清、そして先日の増援で新たに加わった河田景与との合議の結果、13日の夜明けに攻略を開始することを定めた。

磐城平城包囲

倍増した兵力を生かし、新政府軍は磐城平城包囲を目論む。13日午前5時、沼ノ内から出撃する右翼の薩摩藩3隊が東方面へ、小名浜からは薩摩藩、大村藩、鳥取藩が中央隊として渡辺清に率いられて磐城平城の南へ、湯長谷からは佐土原藩、岡山藩に鳥取藩の3小隊が加った左翼隊が磐城平城の西へ向けて進軍した。北方面についてはあえて兵をつけず逃走経路として残しており、これは新政府軍が殲滅ではなく拠点の確保を目的としていたためである[23]。後方の平潟には後方支援部隊の郡山藩兵が入ったため、それまで平潟守備についていた笠間藩200名は列藩同盟軍に占拠されていた自らの飛領神谷村へと向かった。神谷村は磐城平城から東6kmに位置し、その更に北東には中村藩、仙台藩、米沢藩の増援が陣を構えていた四倉があった。このため、笠間藩兵は同盟軍増援の真正面に立つことになる。

左翼隊は兵を三分し、先日の攻防戦で苦しめられた稲荷台陣地へと攻勢を強め、中央隊、右翼隊は稲荷台が混乱している隙に磐城平城下になだれ込む。左翼隊の奮闘によりついに稲荷台の同盟軍も撤退し、新政府軍はとうとう磐城平城の三面包囲を完成させた。折りしも当日の空模様は雷雨となっており、火縄銃主体の仙台藩、中村藩の火力は著しく減退していた。また先日の攻防戦において元込銃での防衛力を発揮した米沢藩3小隊は11日に四倉へ引き上げていて不在で、磐城平城に残された兵力については幕臣直参を中心とする渡辺綱之助率いる純義隊と、磐城平藩の一大隊が記録の残っているが、いずれにせよ城外に展開して陣地を取り戻す余力は残されていなかった。

磐城平城陥落

新政府軍の包囲を解くには、もはや四倉からの援軍による攻撃に頼るしかない状況だったが、仙台藩と中村藩は磐城平城周辺での戦闘で消耗しきっていた。特に弾薬の補給と部隊の再編成が急務であり、13日中の援軍出撃は不可能だった。一方、米沢藩兵は後装銃で武装する3小隊(1日の防衛戦で活躍した部隊)を磐城平城に駐屯させており、10日には3小隊を率いた大隊長江口縫殿右衛門が到着した。しかし、江口は磐城平城に入ることなく、逆に前述の通り11日には磐城平城の3小隊を四倉へと引き上げさせた。磐城平藩は江口に入城を求めるが、江口は「平城に砲声起こらば必ず救援すべし[24]」と言うばかりだった。

かくして新政府軍による磐城平城包囲が始まったが、米沢藩兵6小隊は出撃したものの神谷村で飛領に駐屯していた笠間藩兵と遭遇するなり、戦意を失って四倉へと戻った。仙台藩は後にこの米沢藩の行動を、同盟離反の最初の表れとして非難している[25]が、この時期の米沢藩は北越戦争では激戦を繰り広げていた為に、江口が自らの判断で兵力温存に徹したためという見方もされている[26]

以上の経緯から、戦況の甚だしく不利であることは篭城側の列藩同盟軍も把握しており、新政府軍も既に磐城平城の本丸外堀にまで達していた。藩主に変わって磐城平城主となっていた安藤信正は、家臣団に説得されて午後に脱出を決意し、新政府軍が故意に開けていた北へ向けて純義隊と共に河村村へ逃走する。仙台藩兵も仙台まで信正を護送する必要があることから退避する。かくして残されたのは磐城平藩兵とわずかな中村藩兵のみとなった。

だが、後に残された磐城平藩家老上坂助太夫と中村藩の相馬胤眞(将監)はなお戦意を失わず、城内の銃器を役目、身分を問わず配布、4小隊200名ほどを編成して装備も優れた3,000名の新政府軍と対峙する。新政府軍は門を破るべく砲撃を重ね、ついに山砲の一弾が内門に命中、衝撃で貫木をへし折るに至った。新政府軍は歩兵の突入によって一気の制圧をはかるが、砲兵と歩兵の連携が上手くいかず、駆けつけた守備側に米俵を積み上げられて門を封じられてしまう[27]。攻防は休息なく続き、次第に日が落ちていく。

磐城平城はついに午後の攻勢を凌ぎきって、13日の夜を迎えようとしていた。新政府軍参謀部では夜戦を避け、翌日攻撃を再開する決定を下し、宿営地までの引き上げを各藩に通達する。しかし、薩摩藩は命令を無視。東門にはりついたまま夜陰が下りても攻撃の手を休めることはなかった。磐城平城側は少数のため交代人員も立てられず、休む暇のない薩摩藩の猛攻に次第に限界が迫っていた。銃弾、兵糧はまだ余裕があったが、砲弾はすでに欠乏をきたして反撃もまばら。しかし補給しようにも薩摩藩が攻勢を止めないために外部から運びこむこともできず、継戦はもはや不可能な状況であった。上坂助太夫は城を枕に戦死する覚悟を定め、後は磐城平藩のみで守るので退去するよう相馬胤眞に促すが、胤眞はこの一敗をもって全ての敗北としてはならないと説得[28]、ついに上坂も退去する方針に改めた。深夜0時、城内に火を放って守備隊は全軍引き上げを開始する。火の手をみるや、薩摩藩兵はすぐさま城内に侵入し、磐城平城は焼け落ちた。

この戦闘における新政府軍の死者は16名。一方、守備方の死者は中村藩が25名、仙台藩が7名、磐城平藩は58名[29]を数えた。

磐城平落城後

13日深夜の磐城平落城の報を受け、四倉の列藩同盟軍は中村藩領での体勢立て直しを期して同地を去る。こうして、浜通りは中村藩を除き新政府軍の支配するところとなった。支配領域が広がったことから第七陣として後方支援を任務とする郡山兵120名が増員され、新政府軍は磐城平城周辺に展開して警備にあたった。22日、小名浜港に司令官である仙台追討総督の四条隆謌が到着。同時に長州藩の4個中隊、福岡藩の440名を中心とする広島藩久留米藩岩国藩らによって構成された第八陣が平潟軍に加わり、24日に第九陣として福岡藩442名と津藩95名、27日には第十陣として熊本藩489名が新たに加わった。

磐城平落城後の新政府軍進路

新政府軍としての今後の戦略は、白河口の部隊と連携して北上を続けることであり、そのためには白河口への増援を派遣する必要があった。そこで平潟軍を二分して一方を従来通り中村藩および仙台藩へ、もう一方を山間の道を抜けて白河口の部隊と共に三春藩方面を攻撃することに決定した。こうして、平潟軍は以下のとおり二分される。

  • 参謀渡辺清が率いる三春藩、二本松藩方面軍(薩摩藩、大村藩、岡山藩、柳河藩、佐土原藩)約2,000名
  • 総督四条隆謌が直接率いる中村藩、仙台藩方面軍(長州藩、福岡藩、津藩、広島藩、久留米藩、熊本藩、岩国藩、鳥取藩、郡山藩、笠間藩)約3,000名?

これにより、平潟軍をこれまで支えてきた薩摩藩らは分離し、24日に三春藩へ向けて出発した。その部隊は二本松藩、三春藩兵を撃破しつつ前進を続け、27日に三春に入り板垣隊と合流。棚倉支隊の稲垣と共に会津への足場を固めていく。その後、大総督府の命により正式に白河口軍に組み込まれた(8月13日)。

また、四条総督の軍は二分されて一時的に兵力が半減したが、新政府は平潟方面軍の目標を仙台藩侵攻と定めており、そのための援軍を編成中だった。だが、四条は援軍の到着を待たずに現有戦力での中村藩への北進を決断する。これは白河口方面軍と互いの側面を補い合う戦略をとっているために合わせて北上する必要があったことと、ここまでの戦勝で同盟軍に対して自信を深めていた[30]ことが理由に挙げられている。新政府軍の増援は平潟方面軍を追いかけるようになされ、対仙台藩の最終局面となる10月では平潟方面軍の兵力は10,000を数えるまでにいたった。

広野の戦い(第一次)

兵力 兵力
新政府軍 広島藩 400? 同盟軍 仙台藩 300
福岡藩 442 中村藩 200
陸軍隊 100[31]
広野の位置

磐城平城陥落に伴って、同盟軍は四倉を放棄。新政府軍の予測では、仙台藩、中村藩、人見の純義隊ら同盟軍は北へ遠く撤退しているものと見ていた[32]。そのため22日、四条は広島藩兵と鳥取藩兵を先に四倉へ派遣する。広島、鳥取両藩兵の任務は四倉の制圧であったが、同盟軍が遠く逃げ去って姿も見えないことから、両藩は北の久ノ浜まで前進。更に広島藩の1小隊を大きく前進させ、広野手前の末続村において哨戒に当たらせた。しかし、土地勘がなかったために成果は挙がらなかった上、夜半に入るなり中村藩2小隊の夜襲を受ける。広島藩1小隊は混乱に陥りつつ、辛うじて末続村南方3キロの久ノ浜に撤退した。襲撃の対象となった広島藩だが、これにより戦意を刺激される。

広島藩は鳥取藩に共同での攻撃前進を提案。鳥取藩はこれを容れ、久ノ浜周辺に鳥取藩3小隊を残して両藩は進軍を開始し、海岸線沿いに広島藩を先頭にして縦列となって進んだ。その途上で、同盟軍の一部が亀ヶ崎(久ノ浜から北西内陸に45km進んだ地点)にいるという情報を得て、鳥取藩は軍を分けて3隊に亀ヶ崎襲撃を命じる。果敢に三方から攻めあがる鳥取藩兵に対し、亀ヶ崎に駐屯していたのは中村藩1小隊のみであり、中村藩兵は取るものも取らず逃げ出していた。結果、鳥取藩兵は交戦することもなく放棄された亀ヶ崎を占拠する[33]

一方、本隊である海岸沿いを進む鳥取藩、広島藩は広野の南に流れる浅見川に到達した所で、向こう岸に陣を張る同盟軍を発見。直ちに攻撃に移っていた。その時の平潟方面軍はこれまでの経験から、同盟軍の本隊は遠く熊ノ町にまで撤退していると判断しており、向こう岸の同盟軍は少数の容易な相手と思い込んでいた[34]。実際にはこの同盟軍は仙台藩と中村藩の他に彰義隊に参加していた春日左衛門が陸軍隊を率いて参戦。士気を取り戻した同盟軍は、亀ヶ崎を落とした鳥取藩分隊が新たに新政府軍に加わっても動揺せず、川を利用した陣地で新政府軍の前進を阻んだ。やがて日が沈むが、新政府軍は相手の戦意を再び見誤り、夕方から明け方にいたるまでの戦闘の続行を決定した。翌日(24日)の午前8時、ようやく同盟軍は後退し始めるが、徹夜の戦闘で新政府軍は疲弊して追撃もできず、その日は広野にとどまる他はなかった。

広野の戦い(第二次および第三次)

浅見川を越えて広野を確保した広島、鳥取両藩兵であるが、夜を徹して戦闘を行ったために24日中は行動できる状態ではなかった。しかし川を背にして陣を張ることは防衛に難が生じ、後続の部隊も津藩からの援軍を迎えて編成中であるため、待たずに早々に2藩で前進することを決めていた。その進軍準備が終わろうとしていた25日、同盟軍から銃撃が加えられた。両藩に逆襲できるだけの兵力はなく、急ぎ陣地にこもると同盟軍もそれ以上の攻撃をしかけず撤退した。

兵力 兵力
新政府軍 広島藩 400? 同盟軍 仙台藩 300
福岡藩 442 中村藩 200
長州藩 800 陸軍隊 100
岩国藩 300?

26日の早朝、再び同盟軍が襲撃をしかけてきたが、今回の攻撃は両藩兵を浅見川に追い落とそうとする猛攻であり、両藩とも陣地にこもってひたすら救援を待つしかなかった。

正午、長州藩2中隊と岩国藩1中隊が到着。増援2藩は到着するなり猛攻を受けていた陣地から飛び出し、同盟軍陣地を強襲する。鳥取藩、広島藩も鬨(とき)の声を上げながらそれに続くと、勝ちつつあった同盟軍は逆襲に怯み、形成を逆転されるに至って恐慌の態で一斉に逃走した[35]。同盟軍諸兵の動揺は下北迫の自軍陣地に到達しても収まらず、なおも北へと走らせる。同盟軍の部隊長らは踏みとどまらせて新政府軍を迎え撃つようと命ずるが、長州藩の機動力を伴った追撃は藩兵をより恐慌へと駆り立てた。そのため、義務感から踏みとどまって防戦を行おうとした仙台藩参謀中村権十郎が戦死し、海岸線で奮闘した伊達藤五郎は負傷して退却[36]、中村藩の鬼将監こと相馬胤眞も重傷を負い、同日死亡した。

それらの相次ぐ死傷者の報に絶望を煽られた藩兵は、拠点の木戸駅を放火し、天然の要衝北繁岡にも目もくれず逃走する。夜ノ森をも通り越して中村藩領に入り、熊川に到達してようやく足を止めた。長州藩兵は木戸に復ってその地に宿営し、午前の交戦で負傷者の増えた鳥取藩兵と広島藩兵は広野に戻った。この戦いでの死者は新政府軍が12人、同盟軍は13人であるが、戦意を喪失した同盟軍が多くの拠点を奪われることになった。

熊川の位置

福岡藩1中隊が合流した新政府軍は、28日から北への急進を開始し、列藩同盟軍主力が引き上げた後の道筋を次々と攻略していった。夕方には長州藩兵らが夜ノ森付近の抵抗を死傷者を出しつつ撃破。仙台藩記は中村藩が先に打ち破られ、戦線が崩れたことを書き記しているが、同時に中村藩の新政府への寝返りを疑う藩内部の声が記録されている[37]。実際、京都から復ってきた中村藩家老の岡部正蔵が新政府への恭順を強く主張しており、密かに検討が重ねられていた[38]。新政府軍は列藩同盟軍拠点となっている熊川に向かったが、町は既に同盟軍によって放たれた火が燃え広がっていた。長州藩兵は町を遠回りに追撃したものの同盟軍は見えず、夕方になったため夜ノ森付近で宿営した。


  1. ^ 大山(1968: 500)
  2. ^ 大田(1980: 244)
  3. ^ 一老人の懐古談(大山 1968: 502)
  4. ^ 青木ほか(2000: 124)
  5. ^ 大山(1968: 502-503)
  6. ^ 大山(1968: 504)において、仙台藩記では「人見等裏崩れ致し敗走」と記述され、林忠崇私記には「仙兵裏崩れして、ついに敗走」と相反する記述がされていることを「面白いこと」として紹介している。
  7. ^ 星(2000: 189)
  8. ^ 大山(1968: 506)
  9. ^ 青木ほか(2000: 192)において「総州結城野州小山館林須坂両藩兵戦記」の陣羽織、鎖帷子、手槍の兵装を描写した記述を紹介している。
  10. ^ 星(2000: 190-191)
  11. ^ 石川(1989: 63)
  12. ^ 石川(1989: 62)
  13. ^ 大山(1968: 511)「「薩藩報」に「賊百二十一打ち取る」とあるから、仙兵が大きな死傷者を出したことは間違いない。」
  14. ^ 大山(1968: 511)
  15. ^ 星(2000: 190)
  16. ^ 星(2000: 191)
  17. ^ 大山(1968: 513)
  18. ^ 大山(1968: 514)
  19. ^ 「一団結にて仙台を討つべし」(大山 1968: 515)
  20. ^ 星(2000: 193)
  21. ^ 大山(1968: 516)
  22. ^ 「7月7日に5小隊を援軍に送り、何隊かは城内に入らず四ツ倉に残った。」(大山 1968: 516)
  23. ^ 大山(1968: 519-520)
  24. ^ 大山(1968: 521)
  25. ^ 大山(1968: 521)において、「この頃すでに態度を変ずるの準備ありしなり」との仙台戊辰史(620)の記述を紹介している。
  26. ^ 大山(1968: 521-522 著者私見)
  27. ^ 大山(1968: 520)
  28. ^ 青木ほか(2000: 52)
  29. ^ 大山(1968: 520)および星(2000: 210)
  30. ^ 大山(1968: 524)
  31. ^ 兵数については、石川(1989: 73-74)
  32. ^ 大山(1968: 525)
  33. ^ 大山(1968: 532)「遺棄せる器械、糧食、村中に狼藉たり」
  34. ^ 大山(1968: 526)
  35. ^ 大山(1968: 533)
  36. ^ 大田(1980: 250)
  37. ^ 大山(1968: 538)において、仙台藩記の「相馬すでに盟を破りて疑を西軍に通じ」との記述を、奥羽越同盟軍の信頼関係の薄らいだ証左として紹介している。
  38. ^ 星(2000: 239)
  39. ^ 大山(1968: 539)
  40. ^ 大山(1968: 542)
  41. ^ a b 大山(1968: 543)
  42. ^ a b 大田(1980: 251)
  43. ^ a b 星(2000: 240)
  44. ^ 「吉田屋覚日記」に列挙している分捕り品は、武器弾薬、米穀、主だった家財、金蔵、土蔵、金銭衣類、家具。他に毎日450俵の米と、味噌、薪、油、蝋燭が課せられた。農村からは人足の他、兵員2800名が徴された(星 2000: 241)。
  45. ^ 大田(1980: 254)
  46. ^ 大山(1968: 544)
  47. ^ 星(2005)
  48. ^ 青木ほか(2000:118)
  49. ^ 星(2000: 252)
  50. ^ 大田(1980: 303)
  51. ^ 大山(1968: 576)
  52. ^ 戊辰戦争によって焼失した磐城平城の跡地が切り売りされ、そこに民家が建てられた時期も、この明治政府占領下である。
  53. ^ 小林・山田(1970: 196)






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「磐城の戦い」の関連用語

磐城の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



磐城の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの磐城の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS