石坂洋次郎 石坂洋次郎の概要

石坂洋次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 23:51 UTC 版)

石坂 洋次郎
(いしざか ようじろう)
1956年
誕生 1900年1月25日
青森県弘前市
死没 (1986-10-07) 1986年10月7日(86歳没)
日本 静岡県伊東市吉田風越
墓地 多磨霊園
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 慶応義塾大学国文科
代表作若い人』(1933年 - 1937年)
『麦死なず』(1936年)
青い山脈』(1947年)
陽のあたる坂道』(1956年 - 1957年)
あいつと私』(1961年)
『光る海』(1963年)
主な受賞歴 三田文学賞(1935年)
菊池寛賞(1966年)
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来歴・人物

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に学び、慶應義塾大学文学部を卒業。大学時代、心酔していた郷里の作家葛西善蔵を鎌倉建長寺の境内の寓居に訪ねるも、酒に酔った葛西から故郷の踊りを強要され、さらに相撲で捻じ伏せられた上、長刀を頭の上で振り回されて幻滅と困惑を感じる。

1925年に青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。翌1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に勤務し[注釈 2]教職員生活を終える。

葛西文学への反撥から健全な文学を志し、1927年『海を見に行く』で注目され[2]、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体から圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となり、多くの作品が映画・ドラマ化された。 一方で『小説新潮』1948年10月号に掲載された『石中先生行状記』は、わいせつ文書に当たるとして一旦は書類送検されるも、同年10月28日、検事と編集部が談合して書類送検が取り消される出来事もあった[3]

戦前からよく訪れていた軽井沢別荘を建て[4]、以後毎夏数ヶ月滞在し、川口松太郎井上靖水上勉吉川英治柴田錬三郎などの文壇仲間とゴルフにも興じた。1966年、「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて第14回菊池寛賞を受ける。しかし石坂自身は「健全な作家」というレッテルに反撥し、受賞パーティの席上で「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない」と語った。

還暦を超えてなお人気作を量産していたが、1971年にうら夫人が亡くなったことがきっかけで執筆意欲を失いだし、当時連載していた作品を最後に執筆活動から遠ざかり、以後は自身の旧作の改訂や回顧録、随筆などを時折記す悠々自適の生活に入る。1976年に朝日新聞へ隔週連載された「老いらくの記」は往年の読者を中心に反響を呼び、健在ぶりを示す。翌1977年には戦時中に執筆しながら連載途中で中絶していたフィリピン従軍記「マヨンの煙」に未発表原稿を加え、綿密な校訂を経て出版。30余年ぶりに陽の目を浴びせた。

1978年頃から認知症の症状が徐々に出始め、1980年ごろには徘徊や親族の顔の認識すら出来ない状態になっていたという。さらには肥満が原因による心臓肥大高血圧の症状など体調は悪化の一途を辿り、1982年には医師から余命半年の宣告が下る。それを受けて、せめて僅かな月日を穏やかに過ごさせたいという家族の想いから、長年住み慣れた田園調布の地を離れ、伊東市へ転居する。移転費用や生活費は自宅の売却や印税収入で賄い、家族に金銭的な面倒は掛けたくないとする健康だった頃の本人の意思に沿う形となった。転居後は体調も安定し、時折詩を書くなど、家族の想いをまさに汲んだように穏やかな月日を送ったという。1986年に老衰硬膜下出血)のため伊東市の自宅で死去。死の直前には「これでよし」と呟いた、自他共に納得の大往生だった。戒名は一乗院隆誉洋潤居士[5]。墓所は多磨霊園(21区1種1側1番)。

石坂の老衰については、出版関係者内では密かに囁かれていたが、公にはなっていなかった。1982年にゴルフ仲間であった作家丹羽文雄が随筆に具体的なエピソードを交えて綴ったことで一般へも知られることとなった。

横手城址の文学碑には、横手中学(現横手高)の国語教師をしながら書き続けた『若い人』の一節、【小さな完成よりもあなたの孕んでいる未完成の方がはるかに大きなものがあることを忘れてはならないと思う】が刻まれている。

代表作

妻・うらとともに(1954年)

ほか[6] [7]


注釈

  1. ^ 戸籍のうえでは7月25日生まれになっているが、実際は1月15日生まれ。
  2. ^ 横手中学でのあだ名は、か細かったことから「夜蚊(ヨカ)」。3〜5年生時に石坂から国語と作文を教わったむのたけじは、石坂が醸し出す雰囲気について「教室で人を解放させるようなあたたかなムードを持ち、空気のように包まれる感じであった」と回想している。例えば、前から成績の悪い順に着席していた当時の教室で、授業中教師と目を合わせないようにうつむいていた前列の者たちが、石坂の授業においては「あててくれ」といわんばかりに顔を上げるようになり、教室の風通しがよくなったと感じたとのこと。また、英語の試験官をしていた石坂が、答のわからない生徒たちに聞かせるかのように窓の外に向かって解答をつぶやくのを数度目撃したそうである。(読売新聞秋田版、2008年9月10日、『あの日 X年前 - 82年前、1926年』)。

出典

  1. ^ 森英一石坂洋次郎」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館コトバンク。2022年5月11日閲覧。
  2. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、99頁。 
  3. ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、26頁。ISBN 9784309225043 
  4. ^ 石坂洋次郎 著、学習研究社 編『石坂洋次郎』三省堂、1973年、235頁。 
  5. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)29頁
  6. ^ Amazon.co/jp(石坂洋次郎)
  7. ^ 横手市観光ガイド(石坂洋次郎記念文学館)[リンク切れ]


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