玄倉川水難事故 事故の経過

玄倉川水難事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 07:13 UTC 版)

事故の経過

1999年8月13日

  • 15時ごろ:降水が始まる。当時隆盛しつつあった「オートキャンプ・ブーム」に加え、ペルセウス座流星群の極大、さらにお盆休みの時期にあたり、遭難した横浜市内の一行を含め、玄倉川ではこの日、キャンプ指定地外の6か所に50張ほどのテントが張られていた。
  • 15時20分ごろ:ダム管理職員が1回目の巡視を行い、ハンドマイクで行楽客に増水と水位上昇の危険性を警告し、退避を促したところ、大部分の行楽客はこの警告に従って水際から退避した。一方で、事故に遭った一行からの反応は冷ややかだった[10]
  • 16時50分:神奈川県に大雨洪水注意報が発表される。
  • 19時ごろ:一行25人のうち4人は日帰り参加のため、幕営地を離れて帰宅した。
  • 19時35分ごろ:雨足が激しくなり、事故現場の5キロ上流の玄倉ダムが放流予告のサイレンを鳴らす[10]
  • 19時50分ごろ:ダム管理職員が2回目の巡視を行い、一行に直接、中州から退避するよう勧告するが、拒否される[10]
  • 20時6分:ダム管理事務所は、これ以上は危険と判断し、警察官からも退去命令をしてもらうため、神奈川県松田警察署に通報した[10]
  • 20時20分:玄倉ダムが放流を開始。
  • 21時10分:ダム管理職員と警察官が退避勧告を行う[10]。中洲と岸辺の間の水流は勢いを増し、直接勧告することは不可能だった[10]。一行のうち、比較的年齢の高い社員とその妻ら3名が指示に応じて中洲を離れ、自動車に退避する。 拡声器を用い安否と人数を確認すると「大丈夫」という反応だった[10]。 警察官は、万一の場合は後方の山に避難するよう告げた[10]

1999年8月14日

  • 5時35分:降雨は激しさを増し、気象庁は神奈川県に大雨洪水警報を発表した。
  • 6時ごろ:前夜に撤収したメンバーが、川を渡って中州のテントに残っている仲間に中洲から避難するよう呼びかけるが、反応は無し。まだ水流は膝下ぐらいの深さで、辛うじて渡渉可能だった。
  • 6時35分:豪雨による増水に伴い、貯水機能のない玄倉ダムは本格的に放流を開始。
  • 7時30分ごろ:警察官が巡回し、テントまで2メートル付近まで近づく。幕営地点からの退避を呼びかけるが反応無し、警察官は現場から離れる。
  • 8時4分:熱帯低気圧の接近で本格的な暴風雨となり、前夜に岸に避難した社員から消防119番通報で救助要請が入る。
  • 8時30分ごろ:すぐ下流の立間堰堤の水深が普段より85センチ高い1メートル程度となり[6]、中州も水没する。膝越し以上の水位の渡渉は、通常の流れであってもザイルがないと大人でも危険であり、増水して急流となった現場は、自力での退避が不可能となった。既にテントは流され岸からの距離は80メートルほどになっており、中洲で野営した横浜市内の一行はパニック状態になった。
  • 9時7分:足柄上消防組合の本部から救助隊5人が通報を受けて現場に到着。渡渉による救助を試みるが、激しい水流のため断念する。リバー・レスキューの要員は配置されておらず、またお盆の土曜日で、組合本部は12人、2つの分署に各5人の当直体制だった。約20人に増えた時間は流失直前の11時半だった。一方、松田警察署も当直体制にあり、まず6人を送り、徐々に増員することとなった。
  • 10時ごろ:レスキュー隊員11名のうち2名が断崖伝いに対岸に到着。放送局テレビカメラも現地に到着し、取材を開始する。
  • 10時10分:救助ヘリコプターの出動が要請されるが、熱帯低気圧による強風と、複雑な谷合いに低く垂れた濃雲のため二次災害が懸念され、却下された。なお、報道用のヘリコプターも当日は現場に近づけず、上空からの映像は無かった。さらにははしご車による救出も路肩が弱く、安定が維持できないため不可能であり、ロープによる救出以外に方法はなかった。
  • 10時30分ごろ:レスキュー隊が対岸に救命索発射銃で救助用リードロープの発射を試みるが、対岸の樹木に引っ掛かった。15分後に再びロープが発射されるが、一射目のロープが絡まり、水圧と流木に妨げられてメインロープが遭難者に届かなかった。既にテントは流され、3本のビーチパラソルの支柱を中心に、男性たちが上流側で踏ん張って水流を和らげようとし、中央部に女性や子どもが寄り添って雨風を避け、下流側で乳幼児を抱いた男性が佇んでいる様子の映像がテレビで速報される。
  • 11時ごろ:玄倉ダムが警察からの要請を受け放流中止。しかし玄倉ダムは発電用ダムで貯水能力に乏しいため、すぐに満水となりダム崩壊の危機に直面した。やむなく崩壊防止のため5分で放流を再開[6]
  • 11時38分:水深が2メートル近くになった。水位は胸にまでも達し、救援隊や報道関係者の見守る前で18人全員がまとめて濁流に流された[6]。甥である1歳男児を抱いていた伯父が、咄嗟に子どもを岸に向かって放り投げ、別グループのキャンプ客(東京都鳶職の男性)が危険を顧みず救い上げる。この子どもの父親と姉を含む大人3名、子供1名も対岸に流れ着くが残りの13名はすぐ下流の立間堰堤から流れ落ち、以後は姿が確認できなくなる。
  • 12時14分:事故現場に現地本部が設置される。数名が泳いでいるとの誤情報に応じ、下流の丹沢湖では大雨のもとでボートによる捜索が開始された。
  • 17時:神奈川県の岡崎洋知事陸上自衛隊災害派遣を要請。
  • 19時ごろ:丹沢湖で女性2名の遺体を回収[11]

1999年8月15日

  • 7時ごろ:警察、消防、自衛隊の救助チームが対岸に流れ着いて夜を過ごした4名(31歳男性と5歳の娘、31歳男性と29歳男性の兄弟)の救助を開始。
  • 8時30分ごろ:救助チームが対岸の4名を救助[11]
  • 午後:丹沢湖で2遺体発見。翌日より警察、消防、自衛隊は340人体制で捜索を開始。大雨でダムまで流れ出した流木など浮遊物が多く、捜索は困難を極めた。藤沢市消防局横浜市消防局小田原市消防本部川崎市消防局等の水難救助隊や地元自治体も捜索活動に参加した他、近隣住民も活動支援し、飲料水需要の確保を目的に建設された三保ダムでは捜索協力のため、丹沢湖貯水の大量放水を実施した。その後の天候次第では、小田原市などへの水道水供給に大きく影響した可能性があった。

1999年8月29日

  • 自衛隊による捜索活動の打ち切り直前になって、最後まで行方不明だった1歳女児の遺体が発見された。これで13名全員の遺体は丹沢湖から収容された。

  1. ^ a b 気象災害報告 (1999-670-04)”. デジタル台風. 2013年6月20日閲覧。
  2. ^ 近藤悟 (2012年12月18日). “最近の洪水事例と対策等について - ヨーロッパの洪水災害情報を含めて” (PDF). 国土技術政策総合研究所. 2013年6月20日閲覧。
  3. ^ 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)- 諫早 (長崎県) (気象庁)
  4. ^ 1999年(平成11) 7月 諫早の大雨”. 長崎地方気象台. 2014年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月4日閲覧。
  5. ^ a b アメダスグラフ:丹沢湖(46076)”. デジタル台風. 2013年6月20日閲覧。
  6. ^ a b c d 安全な河川敷地利用のためのワーキング 水難事故事例2 玄倉川の場合”. 国土交通省 (2010年1月13日). 2013年6月20日閲覧。
  7. ^ アメダス集中豪雨:丹沢湖(46076)”. デジタル台風. 2013年6月20日閲覧。
  8. ^ 神奈川県. “玄倉ダム(くろくらダム)”. 神奈川県. 2022年10月30日閲覧。
  9. ^ 平成25年度神奈川県水防計画(案)の改訂概要 資料10 神奈川県玄倉ダム操作規程” (PDF). 神奈川県 県土整備局 河川下水道部 河川課 (2012年5月31日). 2013年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月14日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h 1999年8月16日 朝日新聞(夕刊)「再三の警告生かされず 10分足らずで胸まで水 目前…なすすべもなく」
  11. ^ a b 1999年8月16日 朝日新聞(夕刊)「不安の夜 励まし合い 玄倉川救助チーム「がんばれ」川辺で親子抱き合い」
  12. ^ 「今夏の水難事故 自治体費用・すべて公費で負担」 朝日新聞 1999年10月16日付朝刊
  13. ^ 藤田直央「課長になり高揚も束の間の防衛庁18年目 野中官房長官の叱責、初の臨界事故も起き…」『論座』、朝日新聞社、2021年3月11日、2023年1月30日閲覧 
  14. ^ 「危険が内在する河川の自然性を踏まえた河川利用及び安全確保のあり方に関する研究会」による提言について 〜恐さを知って川と親しむために〜”. 国土交通省 (2000年10月30日). 2013年7月20日閲覧。
  15. ^ 「危険が内在する河川の自然性を踏まえた河川利用及び安全確保のあり方に関する研究会」が開催されました。”. 国土交通省 (2001年7月4日). 2013年7月20日閲覧。
  16. ^ 2010 消防年報” (PDF). 足柄消防組合総務課 (2010年10月7日). 2013年7月30日閲覧。
  17. ^ 特殊な消防隊”. 東京消防庁 (2011年8月8日). 2013年7月30日閲覧。
  18. ^ 令和4年台風第15号は熱帯低気圧との境界線上の小規模な台風であったが、静岡市街地では半日で400mm以上の豪雨を観測している。
  19. ^ 災害列島1999 「弱い熱帯低気圧」による大雨”. 国土交通省 (2008年3月26日). 2013年7月20日閲覧。
  20. ^ 台風の強さ、大きさの階級分けの名称について(強い、非常に強い、猛烈な;大型、超大型)”. 国立天文台理科年表オフィシャルサイト (2012年11月22日). 2007年10月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月20日閲覧。


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