本多正信 生涯

本多正信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 05:29 UTC 版)

生涯

反逆から流浪

天文7年(1538年)、本多俊正の次男として三河国で生まれ、徳川家康に仕えた[1]桶狭間の戦いの際には今川義元の命で丸根砦を攻める家康に従い、その合戦において膝に傷を負って以来足を引きずるようになったという(『佐久間軍記』)[注釈 3]。しかし永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟の正重と共に[3]家康に敵対[2]。一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して加賀国に住した[2]。『藩翰譜』によると、三河を出た後京へと向かい、その後加賀に赴いたとされる[注釈 4]。また加賀では一向一揆の将として迎えられたともいわれ[5]、そこで織田信長と戦ったともされる。

この後、大久保忠世のとりなしにより徳川氏に帰参することとなり、初め鷹匠として仕えたという[6]。帰参時期は諸説あって定かではない。早ければ元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃、最も遅くとも本能寺の変の少し前の頃には正式に帰参が叶っていたようである。天正10年(1582年)頃には、既に家康の信任を取り戻していたようであり、この頃以降、重臣として要職を歴任していくようになる。

表舞台へ

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こって信長が横死すると、当時、の町に滞在していた家康は伊賀越えを決意する。このとき、正信も伊賀越えに付き従ったともいわれる(『藩翰譜』[5]。但し判明している34名の伊賀越えに同行した供廻の中に正信の名はない)。その後、天正壬午の乱を征した家康が旧武田領を併合すると奉行に任じられ、甲斐信濃の実際の統治を担当した。武田家臣団を取り込むため、本領安堵と引き換えに徳川家臣団への参集を呼びかけた。

天正14年(1586年)家康が豊臣秀吉に服属すると、秀吉の推薦で家康の重臣達にも叙位・任官がなされ、正信も従五位下、佐渡守に叙位・任官された。天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が秀吉の命令で関東に移ると、相模国玉縄で1万石の所領を与えられて大名となる。その後、家康不在の江戸で普請の監督を行った一方、文禄2年(1593年)3月7日には母を亡くしている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い、信濃上田城真田昌幸の善戦及び川の増水に遭い、遅参している。この時、正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、容れられなかったと言われている。『大久保家留書』によると、関ヶ原の戦い以降の徳川家の軍議で、家康の後継者を巡って、井伊直政は娘婿の松平忠吉を、大久保忠隣は秀忠を支持することを表明した。それに対して正信は長男の正純とともに結城秀康を支持することを表明したと伝わる[7]

初期幕政

慶長6年(1601年)からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。更にこの頃、本願寺では前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立していたため、これを利用して本願寺の分裂を促すことを家康に献策。かつて自らも身を投じていた本願寺の勢力を弱めさせた。慶長8年(1603年)に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するようになった。慶長10年(1605年)に家康が隠居して大御所となり、秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠のもとで幕政に参画し、慶長12年(1607年)からは秀忠付の年寄(老中)になった。

慶長17年(1612年)には子の正純の家臣・岡本大八による朱印状偽造が発覚している(岡本大八事件)。なお、慶長18年(1613年)の大久保長安事件、慶長19年(1614年)の大久保忠隣失脚に関わったとされるが、正信主導をうかがわせる同時代の史料は確認できない。

慶長18年(1613年)、暇を許されて駿府から江戸に帰府する際、家康から万病円200粒と八味円100粒を与えられている(『駿府記』)[8]

最期

元和2年(1616年)4月、家康が死去すると家督を嫡男の正純に譲り隠居して一切の政務から離れ、6月7日に死去した。享年79。

『寛政重修諸家譜』によれば「本願寺」に葬られたとあるが、現在明確に「本多正信の墓」と言えるものの存在は確認できない[9][10]。墓所(埋葬墓)の所在が不明であることの背景として、真宗では他宗派と比較して墓所や遺骨へのこだわりが強くないこと(中世の真宗教団の中には墓塔の建立を積極的に否定する考え方もあった。近世以後は本山納骨などの納骨儀礼が盛んになる[11])を挙げる見解もある[10]

遺骨(の一部)は東京・浅草の徳本寺(東京都台東区)に納められているという[12]。また、ゆかりの本證寺(愛知県安城市)には江戸時代中期に建てられたとされる正信の供養塔があり[10]、これが「墓」と紹介されることがある[12]。東西本願寺の分立による弱体化を献策したともされる正信であるが、一方で実態としてすでに分裂していた教団の混乱を収拾し、本願寺を残すための措置との見解もある[10]。本證寺住職の小山興圓は「墓がないということが真宗門徒の正信らしい」とコメントしている[10]


注釈

  1. ^ 桑田忠親は天文8年(1539年)生まれと述べている[要出典]
  2. ^ 寛政譜などの系図には記載されていない。
  3. ^ ただし丸根砦攻めに加わった者たちの中に正信の名は見られない[2]
  4. ^ 『藩翰譜』には、京で正信を見た松永久秀による人物評が記載されるが、正信が久秀に仕えたかどうかは不明とも記される[4]

出典

  1. ^ a b c 寛政重脩諸家譜 1923, p. 707.
  2. ^ a b c 煎本 2015, p. 19.
  3. ^ 寛政重脩諸家譜 1923, pp. 707, 713.
  4. ^ 新井 1896, 11巻19丁表.
  5. ^ a b 新井 1896, 11巻19丁裏.
  6. ^ 三河物語 1974, p. 210.
  7. ^ 橋本正宣「結城秀康について」(『國學院雑誌』67巻4号、1966年)
  8. ^ 宮本義己 著「徳川家康と本草学」、笠谷和比古 編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年。 
  9. ^ @Honsyoji (2022年11月29日). "三河一向一揆で本願寺側にて功績あった【本多佐渡守正信公の墓所】を探しています。". X(旧Twitter)より2023年5月5日閲覧
  10. ^ a b c d e 西原祐治 (2023年2月9日). “本多正信の供養塔”. 仏教を楽しむ. 2023年5月5日閲覧。が引く「家康を支えた名参謀 本多正信 真宗門徒らしく供養塔のみ」『中外日報』(2023年2月1日号)。原記事は未確認。
  11. ^ 蒲池勢至「「無墓制」と真宗の墓制」『国立歴史民俗博物館研究報告』第49巻、1993年、226頁。 
  12. ^ a b あらためて本證寺の魅力体験ツアー”. 未来寺子屋4. 安城市教育委員会 (2020年). 2023年5月5日閲覧。
  13. ^ a b 藩翰譜
  14. ^ a b c 名将言行録
  15. ^ a b c d 朝倉治彦; 三浦一郎 編『世界人物逸話大事典』角川書店、1996年、916頁。 
  16. ^ 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月、14頁。 






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