有田八郎 人物

有田八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 00:54 UTC 版)

人物

1953年(昭和28年)、有田は東京・白金台の料亭般若苑」の経営者・畔上輝井(あぜがみ てるい、1906年 – 1989年[13])と再婚。1959年(昭和34年)に有田が都知事選に出馬すると、畔上は料亭を閉めて有田を支援。料亭を担保に選挙資金を得ようと五島慶太との間で話がまとまりそうになったが、岸信介首相の圧力で白紙になった。落選後、選挙運動のために莫大な借金ができ、有田は椎名町の広大な土地と自宅を売却した。一方畔上が料亭再開のための資金援助を吉田茂に頼んだことで、夫婦は揉め[14]、1955年(昭和30年)に離婚した。

栄典

位階
勲章
外国勲章佩用允許

家族・親族

多磨霊園にある有田八郎の墓

山本家

新潟県佐渡郡真野村

有田家

東京都新宿区下落合[26]

  • 養父・有田真平 ‐ 新潟日日新聞に寄稿した「皇室の繁栄と人民の幸福とは両立せしめざるべからず」が官憲により不敬思想と告発され、新潟監獄で27歳で病死。同情した八郎の父が有田家に八郎を養子に出した。[27]
  • 前妻・ヤス(安子)[28](新潟県、佐藤嘉十郎養妹[28]
    1887年(明治20年)8月生[3] - 高血圧症で死去。
  • 後妻・畔上輝井(あぜがみ てるい、1906年 – 1989年) ‐ 般若苑経営者。1953年有田と結婚、1955年離婚(前妻の没後1944年より内妻となり、離婚後も関係は続き、1965年に有田の最期を看取った)[31]長野県中野市の貧農の生まれ。長野師範学校[2]。三度の離婚を経て赤坂で割烹旅館「三河屋」を創業、1946年より三田で料亭「桂」を経営し、1948年に料亭「般若苑」を買い取り、社長となる[31][32]。「桂」は昭和電工疑獄の舞台となり、畔上は証人として1949年の参議院法務委員会に喚問された[33]。有田の選挙資金のため「桂」を売却、「般若苑」も抵当に入れ休業、夫婦で約1億円の借金を作り、般若苑を再開したい畔上と売却して借金清算にあてたい有田と揉めて離婚、吉田茂佐藤栄作平林たい子井深大らの援助を受けて般若苑を再開[32]。日本初のプライバシー侵害訴訟として知られる三島由紀夫の小説『宴のあと』の登場人物・福沢かづのモデル[31][32]大宅壮一は「強女山脈の三奇峰」として平林たい子、婦人経済連盟理事長の竹内寿恵と並んで畔上を挙げている[34]

  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、54頁。
  2. ^ a b c d e f g h 有田八郎. コトバンクより2023年9月14日閲覧
    有田 八郎. コトバンクより2023年9月14日閲覧
  3. ^ a b 『人事興信録. 7版』(大正14年)あ三一
  4. ^ a b c d e f 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』30頁
  5. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』株式会社三省堂、2009年、63頁。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、46頁。
  7. ^ 両顧問が辞表、対中国中央機関問題で『東京日日新聞』(昭和13年9月30日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p66 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  8. ^ 専任外相に有田八郎、拓相は八田嘉明『東京朝日新聞』(昭和13年10月30日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p214
  9. ^ 外相が陸相に遺憾表明『東京日日新聞』(昭和15年7月4日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p772
  10. ^ 畑陸相が辞任、米内内閣総辞職『東京日日新聞』(昭和15年7月17日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p772
  11. ^ 『朝日新聞』1946年2月10日一面
  12. ^ 『官報』第16140号11-12頁 昭和40年3月8日号
  13. ^ 畔上輝井. コトバンクより2023年9月14日閲覧
  14. ^ 和田ゆたか『割烹料亭般若苑マダム物語』太陽出版社 1958年
  15. ^ 『官報』1925年09月16日「叙任及辞令」。
  16. ^ 『官報』第1915号「叙任及辞令」1933年5月23日。
  17. ^ 『官報』1940年7月11日「叙任及辞令」。
  18. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  19. ^ 『官報』第4038号「叙任及辞令」1926年2月12日。
  20. ^ 『官報』1936年5月12日「叙任及辞令」。
  21. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  22. ^ 『官報』1936年2月14日「叙任及辞令」。
  23. ^ 『官報』1937年11月26日「叙任及辞令」。
  24. ^ 『官報』第4106号「叙任及辞令」1940年9月11日。
  25. ^ 『官報』1943年8月16日「叙任及辞令」。
  26. ^ 第廿一版 人事興信録 』昭和36年(1961年)、あ一二四
  27. ^ 『越佐が生んだ日本的人物』 ‎ 新潟日報社 (1965/1/1)p59
  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『人事興信録. 第14版』(1943年)上ア一四〇
  29. ^ 『まこもの馬は天高く』(加藤春代、2020)の紹介文
  30. ^ 戦後日本外務省内の「政治力学」立命館大
  31. ^ a b c 畔上輝井コトバンク
  32. ^ a b c 有田八郎歴史が眠る多磨霊園
  33. ^ 昭電事件アフロ
  34. ^ 『日本新おんな系図』大宅壮一、中央公論社、1959


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