有田八郎 有田八郎の概要

有田八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/30 03:58 UTC 版)

ありた はちろう
有田 八郎
1936年 – 1940年(昭和11年 - 15年)頃
生年月日 (1884-09-12) 1884年9月12日
出生地 日本 新潟県佐渡郡真野村(現佐渡市真野)
没年月日 (1965-03-04) 1965年3月4日(80歳没)
死没地 日本 東京都
出身校 東京帝国大学法科大学独法科
前職 外交官
配偶者 ヤス
親族 山本悌二郎(兄)

第46・52・55代外務大臣
内閣 廣田内閣
第一次近衛改造内閣
平沼内閣
米内内閣
在任期間 1936年 - 1937年
1938年 - 1939年
1940年 - 1940年

その他の職歴
貴族院勅選議員
1938年2月10日 - 1946年2月16日[1]
衆議院議員
旧新潟1区
当選回数 1回
1953年4月13日 - 1955年2月27日
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来歴

新潟県佐渡郡真野村(現佐渡市真野)出身。山本家に生まれ、有田家の養子となった。早稲田中学校第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省入省[4][5]

外務省ではアジア局長、オーストリア公使、外務次官、ベルギー大使、中華民国大使などをつとめる[4]。1936年(昭和11年)、廣田内閣外務大臣[4]として初入閣。1938年(昭和13年)2月10日に貴族院議員に勅撰[2][6]。 同年9月10日、日中戦争への対処を行うために新設された外交顧問に佐藤尚武とともに就任するが、対中国機関問題が擱座したため同年9月29日に辞任[7]。 一方、同年9月に宇垣が辞職以降空席となっていた外相ポストに板垣陸相、米内海相の同意を得て有田が就任(第1次近衛改造内閣[8]。以降、1939年(昭和14年)の平沼内閣、1940年(昭和15年)の米内内閣でそれぞれ外相を務める[4]1939年7月から8月にかけて、駐日英国大使ロバート・クレイギーとの間で有田・クレイギー会談があり、天津事件における英仏租界封鎖問題などが討議されたが、イギリス側の妥協によって、イギリスは中国で日本軍を妨害しないという原則的取決めが成立した。

1940年(昭和15年)7月3日、有田はラジオ放送を通じて新外交方針を訴えたが、陸軍側が誤解を招く表現があるとして反発。有田は畑陸相を訪問して遺憾の意を伝え[9]、一度は外務省と陸軍との間で問題解決が図られたが、7月16日に畑陸相が辞表を提出。米内内閣が総辞職に追い込まれた[10]

1946年(昭和21年)に公職追放[11]。追放解除後の1953年(昭和28年)、第26回衆議院議員総選挙に際し故郷の旧新潟1区から革新系無所属として立候補し当選。のち、会派「小会派クラブ」に所属した[2]

1955年(昭和30年)、東京都知事選挙に革新統一候補(日本社会党推薦)として立候補したが落選。1959年(昭和34年)、都知事選に再び革新統一候補として挑戦するが落選。これを機に政界を引退した[2]

1961年(昭和36年)、自身の再婚と離婚(後述)の事情を誇張的に書き立てられ不安を覚えたとして、有田をモデルにしたとされる小説『宴のあと』を執筆した三島由紀夫および当時の単行本出版社を「プライバシー侵害」に当たるとして告訴(『宴のあと』裁判参照)したが、裁判中の1965年昭和40年)3月4日死去、80歳。死没日をもって銀杯一組を賜った[12]。訴訟は有田の死後に和解した。

昭和28年(1953年)の肖像

政策

戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、1936年(昭和11年)の広田内閣時代に何度も蔣介石の国民政府との防共協定を提案しており、近衛内閣時代に「東亜新秩序建設」を推進した[2]日独防共協定を締結した[2]が、日独伊三国同盟の締結には最後まで反対した[4]

追放解除後は革新陣営に属し、日本の再軍備に反対した。


  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、54頁。
  2. ^ a b c d e f g 有田八郎. コトバンクより2023年9月14日閲覧
    有田 八郎. コトバンクより2023年9月14日閲覧
  3. ^ a b 『人事興信録. 7版』(大正14年)あ三一
  4. ^ a b c d e f 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』30頁
  5. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』株式会社三省堂、2009年、63頁。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、46頁。
  7. ^ 両顧問が辞表、対中国中央機関問題で『東京日日新聞』(昭和13年9月30日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p66 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  8. ^ 専任外相に有田八郎、拓相は八田嘉明『東京朝日新聞』(昭和13年10月30日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p214
  9. ^ 外相が陸相に遺憾表明『東京日日新聞』(昭和15年7月4日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p772
  10. ^ 畑陸相が辞任、米内内閣総辞職『東京日日新聞』(昭和15年7月17日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p772
  11. ^ 『朝日新聞』1946年2月10日一面
  12. ^ 『官報』第16140号11-12頁 昭和40年3月8日号
  13. ^ 畔上輝井. コトバンクより2023年9月14日閲覧
  14. ^ 和田ゆたか『割烹料亭般若苑マダム物語』太陽出版社 1958年
  15. ^ 『官報』第1915号「叙任及辞令」1933年5月23日。
  16. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  17. ^ 『官報』第4038号「叙任及辞令」1926年2月12日。
  18. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  19. ^ 『官報』第4106号「叙任及辞令」1940年9月11日。
  20. ^ 第廿一版 人事興信録 』昭和36年(1961年)、あ一二四
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『人事興信録. 第14版』(1943年)上ア一四〇
  22. ^ 戦後日本外務省内の「政治力学」立命館大


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