工藤公康 監督・指導者として

工藤公康

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監督・指導者として

在任7年間で978試合558勝378敗42分け(勝率.596)を記録。クライマックスシリーズの通算成績は24勝8敗で、敗退したのは日本ハムとの2016年ファイナルステージのみだった。日本シリーズは出場5度で20勝4敗1分で、全て日本一を手にした。日本シリーズは2018年第3戦から退任まで12連勝、ポストシーズン全体では2019年ファーストステージ第2戦から16連勝と短期決戦に無類の強さを誇った[179]。ソフトバンクを常勝球団として構築した一人と認められる[180]

ペナントレースでも3度のリーグ優勝を成し遂げたが、2016年北海道日本ハムファイターズに最大11.5ゲーム差を逆転されリーグ優勝を逃した。後に工藤は「自分の思っている野球だけでは勝つことはできないし、強いチームはできない。それからは選手にアドバイスする時も自分の話し方や言葉の使い方を変えながらやっていけるようになった。」と述べ、「自分にとっては転機になる1年だった。」と振り返っている[181]

翌年の2017年は正捕手の固定に向け、育成選手出身の甲斐拓也を抜擢。2018年からは甲斐が試合や練習で感じたことをその日のうちにつづり、工藤がチェックする「交換日記」を始めた。また、シーズン中には遠征先の部屋に甲斐を招いて3, 4時間ほど対話をすることもあった。甲斐は後にゴールデン・グラブ賞を5度獲得する球界屈指の捕手に育ち、「めちゃくちゃ厳しかったけど、その中に愛情があった。1人の人間、社会人、野球人としてたくさん教えてくれたのも、キャッチャー甲斐拓也をつくってくれたのも工藤監督だった」と感謝を口にしている[182]

2020年新型コロナウイルスの感染拡大によりシーズン開幕が延期される中、複数の開幕予定日を想定し、そこへ向けた選手の調整法を何通りにも渡って自宅でシミュレーションしていた。結果としてこの年は3年ぶりのリーグ制覇及び日本シリーズ4連覇を達成している[181]

キャンプでは「長く現役でやるのに必要なものを作り上げる為」におよそ10種類ほどのメニューを考案し、強化指定選手を指導[183]。メディアからは「工藤塾」と呼ばれた。 練習後には選手全員が悲鳴を上げながらその場に倒れこむほどハードな練習だったが、強化指定を受けた千賀滉大岩嵜翔東浜巨らはその後チームの主力として活躍している[184]。また、投手部門には巡回コーチを配置し、三軍を抱える大所帯の中でも選手に一貫した指導を行えるシステムを構築した[181]

自宅の仕事部屋には選手の成績、データ、コンディショニングの分析のほか、組織づくりや故障防止についての考えをまとめたファイルが並んでいる[181]。また、試合中にメモするノートとは別のノートに選手やコーチに伝える内容を整理するルーティーンを監督就任以降欠かさず続けていた[181]


注釈

  1. ^ a b 天白区(かつての愛知郡天白村)は1975年2月1日に昭和区から分区独立した[19]
  2. ^ 天白区で誕生したとする文献もある[1]
  3. ^ 工藤の父親は宮崎県延岡市出身[15]。2011年9月29日に延岡市内の病院で肺がんにより死去(76歳没)[16]
  4. ^ 公康の父親や、黒井克行 (2006) は「(公康は)5人兄弟の四男として生まれた」と述べている[14][17]
  5. ^ 『中日新聞』 (1981) は天白区高坂町出身と報道している[18]
  6. ^ 小中学校の1年先輩には佐藤啓中京テレビアナウンサー)が[20]、2年後輩には紀藤真琴中京高校から1983年のドラフト会議広島から3位指名 / 広島・中日楽天)がいる[21]
  7. ^ 『週刊朝日』 (2011) は「公康の父は、息子がプロ入りした際の契約金で名古屋に自宅を建てたが、後にその家を売り払って帰郷した」と述べている[24]
  8. ^ 公康は後年に「自分だけでなく、兄たちも父親に強制的に野球を教えられていたが、最終的には野球が嫌いになって辞めていった」と述べている[33]
  9. ^ 後に投球フォームは江夏豊を参考にしたと語っている[36]
  10. ^ 上2人の兄は私立高校に入学したが、公康の時点では公立高校でなければ経済的に進学は困難だった[42]。しかし公康は当時、公立高校へ進学できる程度の学力を有していなかった[42]
  11. ^ ベースボール・マガジン社 (1987) によれば、最初に享栄高校から勧誘され、次いで名古屋電気高校からも勧誘された[1]。また同じ名古屋市にあった中京高校(現:中京大中京高校)に兄が通学しており[34]、工藤自身は中京からの勧誘を待っていたが、結局は中京からは勧誘されなかった[1](工藤の父は、中京からの勧誘が来た時点では既に名電入学の話が進んでいたため断ったと述べている)[34]。工藤の父親によれば、工藤は自身とともにある高校の野球部監督と寿司屋で会合した際、監督から言われるがままに寿司を食べた(一時は遠慮したが「野球選手がたくさん食えんでどうする」とさらに勧められた)ところ、監督を「オレの前で寿司を食ったヤツは、オマエが初めてだ!」と憤慨させてしまい、その件が原因で同校への進学は見送ることになったと述べている[34]
  12. ^ 山本は中学時代から県下一の捕手として知られており、中村は山本を活かす投手を探していたところ、工藤に目をつけた[45]
  13. ^ 高校時代、槙原との直接対決はこれが唯一だった[48]
  14. ^ 選手権大会としては8年ぶり[53]
  15. ^ 当時、大会史上3位タイ[55]。このうち、9回までに奪った三振は16で、この試合で与えた四死球はゼロだった[53]
  16. ^ 同年のドラフト会議では社会人野球に好投手がいたため、(1巡目入札で)1位指名される可能性がある高校生はこの3人のみと予想されていた[58]
  17. ^ a b なお、槙原はドラフト会議前に「希望する球団は(地元の)中日、その次は在京のセ・リーグ球団。それ以外ならセ・リーグならどこでも」と表明していた[82]
  18. ^ 複数球団の競合が予想されていたが[62]、本人は広島入りを強く希望し、広島や大洋・阪神以外の球団への入団は拒否する意向を表明していた[63]。結局、広島が単独1位指名[64]
  19. ^ 工藤は同年の国体終了後に「セ・リーグに入りたい。できれば小さいころからファンだった巨人がいい」「パ・リーグに指名されたら熊谷組に就職する」と表明していた[55]
  20. ^ 実際に西武との入団交渉に入ったところ、工藤の父が態度を軟化させたことについては、「(西武が)他球団に指名させないために芝居を打たせた」と指摘する声が上がり、ヤクルトスワローズのスカウトは「バカバカしい」とコメントしていた[60]
  21. ^ 熊谷組は当時、「工藤は我が社に入社する約束をしており、二重契約ではないか」と反発していた[60]。また当時は「(工藤が西武に入団すると)父は名古屋市交通局に勤めづらくなるので、西武系企業に転職するのではないか」と噂されたり、「熊谷組に入社すれば3年後に中日に入団させる」という密約があったとまことしやかに伝えられたりしたことで、工藤家は地元ファンからの嫌がらせを受け、電話番号を変えることを余儀なくされた[69]
  22. ^ 名電高校の校長・後藤淳は野球部監督・中村豪とともに「学校に相談せず、熊谷組への就職を反故にして西武から契約金を受け取り、入団を決めた工藤の行動は遺憾だ。企業の信頼を裏切る結果になった」との態度を表明していたが、工藤のプロ入りについては「学校が決めるものではない」としていた[73]。結局、後藤校長は熊谷組から入社内定取り消しの連絡を受け、工藤の父に対し「名電OBとして、プロに入っても恥ずかしくないよう頑張るように」と答えたほか、この件で高校側から工藤にペナルティが課されることはなかった[74]。ただし、工藤は(この件とは別に)父親の意向で学校の許可なく指定外の自動車教習所に通っていたことが発覚し、校則違反のペナルティとして、停学と丸坊主にさせられた[60][75]
  23. ^ 最終的に入団拒否[86]。翌1982年度のドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団[87]
  24. ^ ただし、広岡は自著 (2016) で「工藤を『坊や』と呼んではいたが、特別扱いしたわけではなく、自分のそばに置いて私生活も野球も厳しく鍛えていた」と述べている[90]
  25. ^ 19歳でのプレーオフ勝利投手は2021年現在まで史上最年少
  26. ^ キップ・グロス(日本ハム)の17勝、西口文也(西武)の16勝に次ぐ[109]
  27. ^ この年は本来140試合制であり、工藤はそれに1⅓回不足していたが、プロ野球ストライキの影響で2試合が中止となり代替試合が行われないまま138試合でシーズンが終了したため、規定投球回に到達したことになる。ちなみに工藤にとってこの年が規定投球回に達した最後のシーズンとなった。
  28. ^ のちに最年長200勝を含めいずれも山本昌が記録を更新している。
  29. ^ 2018年上原浩治が43歳3ヶ月で更新。
  30. ^ 実働10年未満では一軍公式戦初登板時すでに45歳9ヶ月であった浜崎真二がいる(実働3年)。
  31. ^ プロ野球記録は1950年9月28日、阪急の浜崎真二が対大映戦で打った48歳9か月。
  32. ^ 工藤のほかにもプロゴルファーの片山晋呉のコンディショニングを担当したほか、2000年のシドニー五輪及び2004年のアテネ五輪ではシンクロナイズドスイミング日本代表のトレーナーとして帯同し、同代表の銀メダル獲得に貢献した実績を持つ[176]
  33. ^ 足を肩幅くらいに開いて立ち、一歩前に足を踏み出して膝を曲げ、腰を落とすトレーニング[177]
  34. ^ 足を軽く広げ、腰を少し上下させる運動[178]。白木はイチローがバッターボックスに入る前に行っていた動作はまさに腰割りであると述べている[177]
  35. ^ 厳しいことで知られていた広岡について「ウチのオヤジより優しそうな人です」と発言したり、栗橋茂(近鉄)に頭部死球を与えた際に「野球人生、いろいろありますから…デッドボールだって、与えますよ」と発言したりしており、後者の発言に対し栗橋は「高校生新人のくせに生意気だ」と憤慨していた[185]。また西武の厳しい練習については「これなら、中日に行っていたほうがましだった」と軽口を叩いていた[186]
  36. ^ 日本プロ野球名球会所属の投手では、工藤に先立ち小山正明が1958年から引退した1973年まで47を付けていた。小山は右腕投手である。また、現役最終年は横浜の前身に当たる大洋ホエールズに所属したため、工藤と同じチームで背番号47をつけた「先輩」でもある。

出典

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