宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件 宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件の概要

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宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 13:17 UTC 版)

人物

宮澤弘幸

宮澤弘幸(みやざわ ひろゆき)は、1918年(大正7年)、東京府生まれ[1][要検証]。中学の学籍簿に「思想堅固」と記されるような愛国青年であった[1]

1937年(昭和12年)、北海道帝国大学(北大)予科に入学[1]1940年に修了し[2]、同大学工学部に進学[3]。外国人教師らと積極的に交流を持ち、英語ドイツ語フランス語を学ぶ[1]。さらに人類学者マライーニの一家と交際してイタリア語も習得したほか、マライーニとは自転車旅行で二風谷を訪れ、雪山登山にも挑戦している[1]

やがて宮澤は外地に関心を抱き、樺太での海軍工事に参加したり、オタスの杜を訪ねたりした[1]。また、執筆した「大陸一貫鉄道論」が入選して満州を旅行し、その報告記は北大学生新聞に連載された[1]習志野陸軍戦車学校での体験記「戦車を習ふ」を学生新聞に寄稿したこともあった[1]

レーン夫妻

ハロルド・レーンクエーカー教徒であり、第一次世界大戦の折は平和主義の信条に基づいて良心的兵役拒否の立場を貫いた[4]

1921年(大正10年)、北大予科の英語教師に採用されたハロルド[5]は、宣教師G・M・ローランドの自宅に逗留することとなった[4]。またローランドの娘ポーリンは、前夫が急逝したため、長女とともに実家で暮らしていた[4]。こうして出逢ったハロルドとポーリンは、翌1922年(大正11年)に結婚し、やがて5人の娘に恵まれた[4]

レーン家の娘たちは師範学校付属小学校、北星女学校へと通い、卒業後は順次アメリカに渡っていった[4]。年長の娘たちを送り出した夫妻は、一番下の双子の姉妹や、ハロルドの父ヘンリーとともに、北大の外国人教師官舎で暮らした[4]

心の会

1939年(昭和14年)6月、北大内にて心の会(ソシエテ・ド・クール)が発足した[1]。これは外国人教師や学生たちが外国語を使って議論し、交流するサークルで、主に参加者の家を会場として、週に1回ほど集会が開かれた[6]。レーン夫妻は会の発足時から参加しており、海外旅行と語学を好む宮澤も加わった[6]。またレーン夫妻は、金曜日の夜になると官舎を学生に開放して交流を図っており、宮澤はそちらにも積極的に顔を出していた[6]

しかし排外主義が横行する時節柄、彼らの活動は当局から目をつけられており、心の会の集まりのさなかに特別高等警察(特高)が訪ねてくることもあった[6]。レーン夫妻に対してはアメリカ本国からたびたび引き上げ勧告がなされており、また親しい日本人からも帰国を勧められていたが、北大との雇用契約期間がまだ残っていることと、同居している病身の父の容体が長旅に耐えられるほど芳しくないことを理由に、夫妻は札幌に残留していた[7]

事件当日

1941年(昭和16年)、宮澤は北大工学部電気工学科[8]に在籍する2年生となっていた[9]

12月8日の朝、太平洋戦争の開戦をラジオで知った宮澤は、円山の下宿からレーン夫妻の住まう官舎に駆けつけた[9]。おそらく宮澤は、いよいよ「敵国人」となったレーン夫妻のことが気がかりで、何か言葉をかけずにはいられなかったものと思われる[7]。夫妻と一言二言ばかりの短い会話をし、それから立ち去ろうとして歩き出した宮澤は、現れた数人の特高警察によって取り押さえられ、逮捕された[10]

レーン夫妻は大学に出勤したが、学長からは「もう教える必要はない」と告げられた[11][注 1]。帰宅後にハロルドは銀行に出かけ、ポーリンが義父のヘンリーと昼食をとっているときに特高が踏み込んできて、彼女を逮捕[11]。続けて官憲はハロルドと、女中の石上シゲをも検挙し、連行していった[13]。夫妻の娘である双子の姉妹は師範学校付属小学校に登校していたが、ヘンリーとともに天使病院の施設に収容された[11]

実は、かねてから治安当局は、敵国のスパイと思われる人物、およびスパイに利用される可能性のある人物をリストアップしており、対英米開戦と同時に彼らを一斉検挙して取り調べるという戦時特別措置を計画していたのである[13]。開戦当日に「外謀容疑者」として検挙された人物は、宮澤らを含めて126名にのぼった[13]。ただし巻き添えを食った形の石上シゲは、数か月後に嫌疑不十分で釈放されている[13]


注釈

  1. ^ 1942年3月31日付けで退職となっている[12]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 北大PG 2019, p. 48.
  2. ^ 『官報』第3983号、昭和15年4月18日、p.867.NDLJP:2960481/16
  3. ^ 『官報』第3982号、昭和15年4月17日、p.804.NDLJP:2960480/17
  4. ^ a b c d e f g h 北大PG 2019, p. 47.
  5. ^ 『北海道帝国大学一覧 自大正9年至大正11年』北海道帝国大学、1922年4月1日、215頁。NDLJP:940224/115 
  6. ^ a b c d 北大ACM 2019, p. 121.
  7. ^ a b c d 北大ACM 2019, p. 122.
  8. ^ 『北海道帝国大学一覧 昭和16年』北海道帝国大学、1941年11月20日、302頁。NDLJP:1460484/159 
  9. ^ a b 北大ACM 2019, p. 118.
  10. ^ 北大ACM 2019, pp. 118–120.
  11. ^ a b c d e f g h i j k 北大PG 2019, p. 49.
  12. ^ 『北海道帝国大学一覧 昭和17年』北海道帝国大学、1942年12月20日、351頁。NDLJP:1461414/183 
  13. ^ a b c d 北大ACM 2019, p. 120.
  14. ^ 法曹会 編『大審院刑事判例集』 22巻、11号、法曹会、1943年、177-187頁。NDLJP:2627870/156 
  15. ^ a b c d e f g h i 北大ACM 2019, p. 124.
  16. ^ a b c 北大ACM 2019, p. 126.
  17. ^ 内山 2021b.
  18. ^ a b c 北大ACM 2019, p. 125.
  19. ^ 北大ACM 2019, p. 129.
  20. ^ a b c d e f 北大PG 2019, p. 50.
  21. ^ a b c 北大ACM 2019, p. 128.
  22. ^ 北大ACM 2019, pp. 125–126.
  23. ^ a b c d 内山 2021a.


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