学園前 (奈良市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/17 06:27 UTC 版)
街並み
学園前の宅地開発は国や自治体のニュータウン計画に沿った開発ではなく、民間主導で進められた開発であった。
1950年に近鉄が学園都市を目指して学園南地区の開発をはじめた[29]。その後、近鉄の計画に参加した住宅都市整備公団、奈良市住宅協会や、多数のデベロッパー(大和ネオポリス開発、恒和興業、日生不動産、野村不動産、住友不動産、伊藤忠不動産、東急土地開発、殖産住宅など)により、年次ごとにブロック単位の開発が進められ、宅地は駅を中心に丘陵地を南北へ延伸していった。その結果、学園前には10万人規模の街ができあがった[30][31]。
しかし、街がブロックの断片的な積み重ねでしかないため、各ブロックごとに街路の方位や街区が異なり、ブロック間の境界部分で交通体系上の齟齬が生じている[32]。これにより交通渋滞が頻発し、学園前は近鉄が当初目指した「良好な住環境を持つ学園都市」とは異なる姿へと発展を遂げることになる[33]。
ライフライン
電気
学園前では関西電力が電気の供給を行っており、関西電力奈良支店奈良営業所が管轄している。2021年現在、学園前周辺には一次変電所として新生駒変電所がある。新生駒変電所には500kVの送電線が4系統、275kVの送電線が2系統、154kVの送電線が3系統接続されている。500kV級の送電線のうち北河内線は西京都変電所に接続される大飯幹線などを経て、大飯発電所をはじめとする若狭湾周辺の原子力発電所に繋がる[34]。2005年12月22日、雪害のため大飯幹線、大飯第二幹線の両送電線からの送電が停止し、近畿地方の約70万世帯が停電した際には、学園前を含む、生駒市、平群町、東大阪市、木津町、加茂町などで停電が発生している[35]。 学園前に電気がやってきたのは1918年ごろである。1913年、大阪電気軌道は鉄道事業開業に先立ち電灯事業を開始した。1918年、大阪電気軌道は常用出力 1300kW の放出火力発電所を持ち、大阪市から 160kW を受電しながら、現在の学園前を含む生駒郡に電気を供給していた。しかし、大阪電気軌道は1930年、1938年には自力での発電を行わなくなり、全ての電力を受電に頼るようになっている。1931年の統計では、大阪電気軌道の電気供給事業は宇治川電気よりの受電が半分以上、他に大同電力、日本電力、合同電気からの受電で成り立っていた。学園前を含む地域への大阪電気軌道→関西急行鉄道による電気供給は1942年まで続いた。1941年に公布された配電統制令に従い、1942年に関西急行鉄道を含む関西大手電気供給事業会社14社は関西配電、現在の関西電力に統合され、現在に至る[36][37]。
ガス
学園北一丁目には大阪ガスの奈良事業所が存在する。奈良事業所は1963年に学園前へ移転した大阪瓦斯奈良営業所が前身で、奈良営業所は1910年に設立された奈良ガスが大阪瓦斯と合併することになった1945年に設置された営業所である。
学園前を縦断する形で近畿幹線第1東部ラインとよばれる高圧幹線が敷設されている。近畿幹線第1東部ラインは1967年に建設が開始された大阪ガス初の高圧幹線である。大阪東部、奈良地区で行われていた 6C によるガス供給を天然ガス 13A に移行するため、また、供給末端である京都、滋賀への大量のガスを輸送するために建設された。
近畿幹線第一東部ラインは泉北工場を基点とし、堺市、藤井寺市、大和郡山市、奈良市を経て枚方供給所に至る。総延長は 79km、管径は 600mm、最高圧力は 2.5MPa である。ガス管には API5LX42 と呼ばれるアメリカ石油協会ハイテストラインパイプ規格の管を用いている。奈良地区での建設反対運動を説得の上、1972年に完成した。1977年には泉北工場に泉北第二工場を増設している。学園前では1970年から1972年にかけて高圧幹線敷設を問題視し、大阪ガスと交渉を行ったと記録されている[38]。
上水道
この節の加筆が望まれています。 |
上水の不足としては1965年に学園前の北部周辺で大規模な断水が続き、大きな問題となった。富雄井戸(現廃止)、奈良市東部の須川ダム、大渕幹線、藤ノ木貯水池の完成により、1970年頃には上水の不足は解消している。
下水道
学園前の下水道は奈良市域、生駒市域とも最終的に県営下水道の大和川上流流域下水道第一処理区に接続されている。ただし、分水嶺を越えて淀川水系の流域に属する鹿ノ台は生駒市の単独公共下水道が整備されている。
大和川上流流域下水道第一処理区は大和川右岸の下水を処理し、大和川の水質を改善するため1970年に操業が開始された流域下水道である。奈良県で初めての流域下水道事業であった。供用開始は1974年である。学園前の下水は富雄川幹線(管径1800-1100mm, 延長約14km)をとおり、近鉄橿原線ファミリー公園前駅西側の終末処理場(浄化センター)で処理され、大和川に放流される。
ごみ処理
この節の加筆が望まれています。 |
- ^ 町村名は昭和の大合併前の自治体名を記した。
- ^ a b 住井編『学園前のあゆみ』34頁
- ^ 奈良県『奈良県宅地供給計画 学園前地区 策定報告書』
- ^ a b 奈良市 Webページ 『古今奈良の都市計画今昔物語 - 学園前の住宅開発経緯』
- ^ 朝日新聞社編『奈良新風土記 学園前』
- ^ 西田大智、実森出『ふるさとはニュータウン』
- ^ リクルート『住宅情報style. 関西版』
- ^ 朝日新聞社編「8. もっと奥も」『奈良新風土記 学園前』朝日新聞 奈良1P版 1982年9月9日 閲覧
- ^ 森田勝によると、1970年当時、百楽園の西部では富雄駅を最寄としていたという。1986年に学園前駅から百楽園へ向かうバスが大幅に増発されたため、2008年現在とは事情が異なる。
- ^ 参考文献に掲載されている図では二名町(真弓)と記載されている。
- ^ “北大和住宅地 財団住宅祭”. 2023年10月17日閲覧。
- ^ “北大和分譲住宅の購入・売却ならノムコム”. www.nomu.com. 2023年10月17日閲覧。
- ^ “- 3) けいはんな線沿線の開発状況 ②学研北生駒駅周辺,④バス路線の再編”. 内閣府. 2023年11月17日閲覧。
- ^ a b “学園前・生駒エリア|転勤者の方へ”. 奈良の賃貸 SANKO. 2021年2月16日閲覧。
- ^ a b “運行系統図 - 奈良バスなびweb”. 奈良交通. 2021年6月25日閲覧。
- ^ a b “近鉄奈良線「生駒駅~学園前駅エリア」(あの街プロフィール)”. 住友不動産販売. 2021年2月16日閲覧。
- ^ 奈良市『奈良市統計書』
- ^ 奈良市『統計なら』
- ^ a b 参考文献には8kmとあるが明らかに誤植である。国土地理院の5万分の1の地形図で、丘陵の北端である京田辺市の松井山手駅から大和郡山市の郡山城までの直線距離を実測したところ20kmであった。よって8kmではなく18kmの誤植であると考えられる。(執筆者註: 18kmを証明する参考文献を求む。)
- ^ a b c d e f g 参考文献『学園前のあゆみ』による。
- ^ 松川 『平城京跡の村 秋篠川流域』 132頁
- ^ 住井編『学園前のあゆみ』10頁
- ^ a b 奈良県史編集委員会編『奈良県史』236-237, 253頁
- ^ 登美ケ丘高等学校『創立十周年記念誌』
- ^ 登美ケ丘北中学校Webページを参考
- ^ a b 『ニュータウン 奈良学園前』より
- ^ 参考文献『産経新聞』より
- ^ 豊中市より
- ^ 近畿日本鉄道編『50年のあゆみ』
- ^ 奈良市『奈良市都市計画』
- ^ 近畿日本鉄道編『最近20年のあゆみ』
- ^ 高橋『ニュータウン - 奈良学園前 -』
- ^ 住井編『「学園前産土の森」あゆみ 続編』
- ^ 関西電力、2002年、1098頁
- ^ 産経新聞、2005年
- ^ 関西地方電気事業百年史編纂委員会、1987年、116頁、486頁
- ^ 関西電力、2002年、128頁
- ^ 学園南中自治会,
- ^ 近鉄系列の中華料理店。学園前店は閉店したが、2008年現在でも奈良県、大阪府、東京都などに店舗を持つ。
- ^ a b 『角川地名大事典 奈良県』より
- ^ a b 『富雄町史』より
- ^ 添御県坐神社 公式サイト
- ^ 添御縣坐神社 地域情報ネットワーク株式会社おすすめエリア
- ^ a b 参考文献『最近20年のあゆみ: 創業70周年記念』による。
- ^ 参考文献「ふるさとはニュータウン 大和の20世紀(連載全10回)」による。
- ^ 1973年に開校した2代目の二名小学校。奈良市立富雄北小学校の前身とは異なる。
- ^ 近鉄では2008年現在においても全ての駅に駅長を置かず、駅長配置駅の駅長が複数の駅を管轄する方式が採られている。
- ^ a b c d e f g h “町の区域及び名称の変更について”. 奈良市例規集(奈良県) (1990年10月19日). 2023年9月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “町の区域及び名称の変更について”. 奈良市例規集(奈良県) (1992年10月30日). 2023年9月13日閲覧。
- 学園前 (奈良市)のページへのリンク