フランソワ・チェン
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文学
フランス文学
チェンが「文学に目覚めた」のは15歳のときであった[10]。幼い頃から中国文学(特に古典の王維、李白、現代文学の魯迅、茅盾、巴金)はもちろん、英米文学(キーツ、ワーズワース、シェリー、ロバート・ブラウニング、コンラッド、ジャック・ロンドン、トーマス・ハーディ、スタインベック)、ロシア文学(トルストイ、チェーホフ、ドストエフスキー)に親しんでいたが、とりわけ、フランス文学は、フー・ツォンの父で、文化大革命の犠牲となったフー・レイの翻訳でスタンダール、バルザック、ユーゴー、フローベール、ゾラ、アンリ・バルビュス、ポール・ヴァレリーなどを読み耽り、最も大きな影響を受けたのはロマン・ロランとアンドレ・ジッドであった[4][10]。
3人の恩人
移民としてフランスに暮らすチェンは、長い間、貧窮と孤独に苦しんだ[12]。かろうじて生計を立てながら、図書館に通い、ソルボンヌ大学やコレージュ・ド・フランスで講義を聴講した。コレージュ・ド・フランスの中国語・中国文学の教授ポール・ドミエヴィルと出会い、ドミエヴィルにフランスの国民教育省の高等教育部門の部長ガストン・ベルジェに紹介された。「未来研究センター」設立の準備を進めていたベルジェには、中国人の協力者が必要だったからである。だが、ベルジェは交通事故で不慮の死を遂げた。ベルジェの葬儀で、偶然にも東洋学者ポール・ペリオの弟子アレクシス・リガロフに出会った。彼は中国語センター(社会科学高等研究院の東アジア言語研究所の前身)の設立にあたり、チェンを採用した。1960年のことであり、渡仏12年目にしてようやく定職に就くことができた。彼は、他に多くの人に助けてもらったとしながらも、フランスで生きていく目途が立ったのはドミエヴィル、ベルジェ、リガロフの3人のお蔭であると語っている[10]。
研究の道
中国語センターで教鞭を執る傍ら、ボードレール、ランボー、ルネ・シャール、シュルレアリスムの詩人をはじめとするフランスの詩人の作品を中国語に翻訳し、台湾や香港で出版した。次に出会ったのはジャック・ラカンであった。彼もまた、難解な中国思想を理解するために、中国人の協力者を必要としていた。ラカンとは週に一回、彼の自宅で二人きりで老子や孟子をめぐる対話を重ねるようになった[2]。一方でまた、初唐の詩人、張若虚の研究で修士論文を執筆していた。「少なくとも20年間、私の生活を刻みつけたのは、矛盾と分裂にみちた激しい奮闘だった」(チェン『ディアローグ』)と語る彼は、渡仏20年目の1968年に「唐時代のある作家の詩作品の本格的分析 ― 張若虚」と題する論文を社会科学高等研究院に提出した。審査員は中国学者のジャック・ジェルネ、ロラン・バルトらであり、バルトはこの論文を高く評価した。もう一人、この論文を評価したのは、当時まだ20代のジュリア・クリステヴァであった。彼女は、修士論文のテーマを発展させて、より広く、漢詩の言語について研究するようチェンに勧めた。彼は、クリステヴァとの出会いは決定的であり、これが研究の道に進む契機になったと語っている[10]。こうして1977年、デリダ、バルト、クリステヴァらが関わっていた前衛文芸誌『テル・ケル』を刊行していたスイユ出版社から『漢詩のエクリチュール』が出版された。彼はさらにこのテーマを追究し、中国の宇宙論や主体と客体の相互関係において論じた論文を発表し、また、中国語の表意文字と絵画との共通性から、道教、陰陽五行説との関連における中国絵画について著書を発表し、アントニ・タピエスらの評価を得た[12]。特に『八大山人 ― 線描の天才』、『石濤 ― 救世主』は高い評価を得、後者はフランス文化省のアンドレ・マルロー賞を受けた。さらにこれとは逆に、香港、台湾で『フランス詩人7人』や『アンリ・ミショー ― 生涯と作品』などを出版し、フランスの詩人や画家の紹介に努めるなど、中国・フランス双方の文化理解に貢献している。
子ども時代に戦争の残虐性、死、暴力、飢え、「無条件の悪」を経験し、廬山の大自然に見出した美をその対極に位置づけるチェンは[10]、詩においてもこれを表現し、この頃、『木について、岩について』、『生き続ける四季』などの詩集を発表している。
教育活動
これらと並行して教育活動においても、1969年にパリ第7大学に講師として赴任し、1974年に助教授に昇任した。さらに、中国学者ニコル・ヴァンディエ=ニコラ、マリー=クレール・ベルジェールに勧められてフランス国立東洋言語文化研究所 (INALCO) の教授職に応募し、採用された。同学院には1996年の定年退官まで勤務した。
小説家として
渡仏からちょうど半世紀の1998年、70歳を間近に控えたチェンが初めて『ティエンイの物語』と題する小説を発表した。表意文字を使う中国語とは対照的に、フランス語はその「一語一語に、イメージを喚起するリズムがあり、旋律がある」とする彼は、フランス語で執筆活動を始めてから30年経って初めて自分の言葉として創作できると確信したという[10]。日中戦争、国共内戦、建国、中華人民共和国の大躍進政策、大飢饉、そして文化大革命の時代を生きた語り手のティエンイ(天一)、恋人のユーメイ(玉梅)、友人のハオラン(浩郎)の3人の若者を描くこの小説は、人間存在、人間の運命、死、愛、赦しをモチーフとする教養小説であり、歴史小説であり、恋愛小説でもある[8]。『ティエンイの物語』は、1998年フェミナ賞を受賞した[13]。
儒教の倫理・道徳、道教の宇宙観、仏教の慈悲を中心とするチェンの世界観は、キリスト教との出会いによって「矛盾と分裂」を生みながらももう一つの次元を得ることになった。きっかけは、キリスト教徒の妻ミシュリーヌとの出会いであった。彼の深い思索は『真の夜闇から生まれた真の光』、『死と生についての五つの瞑想』、『真の栄光がここにある』、『魂について』などの詩集、随筆として結実した[1][14]。
2002年6月13日、アジア系で初めて[2][1][15]アカデミー・フランセーズ会員に選出された(2003年6月19日就任)。席次34、ジャック・ド・ブルボン=ビュッセの後任である。会員が受ける個別仕様の佩剣には、中国の竹とフランスの百合、そして雁が彫られている[12]。
- ^ a b c “魂について”. 水声社. 2019年6月25日閲覧。
- ^ a b c “さまよう魂がめぐりあうとき”. www.msz.co.jp. みすず書房. 2019年6月25日閲覧。
- ^ “フランソワ・チェン”. コトバンク. 2019年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “Réponse au discours de réception de M. François Cheng” (フランス語). www.academie-francaise.fr. Académie française (2003年6月19日). 2019年6月25日閲覧。
- ^ “L'éternité n'est pas de trop - François Cheng” (フランス語). Albin Michel. 2019年6月14日閲覧。
- ^ “François Cheng: nous portons en chacun de nous un destin collectif” (フランス語). L'Humanité (1998年11月7日). 2019年6月25日閲覧。
- ^ “François Cheng” (フランス語). Revue Phoenix. 2019年6月25日閲覧。
- ^ a b Madeleine Bertaud. “L’itinéraire de François Cheng” (フランス語). www.francopolis.net. 2019年6月25日閲覧。
- ^ 2016年に来日し、日仏会館で「中国と日本のあいだの儒教・儒学の過去と現在」と題する講演を行っている。
- ^ a b c d e f g h “François Cheng en cinq entretiens” (フランス語). France Culture (2014年10月). 2019年6月25日閲覧。
- ^ “フランソワ・チェン『さまよう魂がめぐりあうとき』”. みすず書房. 2019年6月25日閲覧。
- ^ a b c “François CHENG | Académie française”. www.academie-francaise.fr. 2019年6月25日閲覧。
- ^ “François CHENG, prix Fémina 1998” (フランス語). Ina.fr. Institut National de l’Audiovisuel. 2019年6月25日閲覧。
- ^ “死と生についての五つの瞑想”. 水声社. 2019年6月25日閲覧。
- ^ “François Cheng” (フランス語). www.livredepoche.com (2019年6月25日). 2019年6月25日閲覧。
- ^ “François Cheng, L'Un vers l'autre” (フランス語). Albin Michel. 2019年6月24日閲覧。
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