ナント 歴史

ナント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/07 05:10 UTC 版)

歴史

古代

ナントの場所に最初に定住したのはケルト人であった。紀元前70年頃、ガリア人の一部族であるナムネティフランス語版人が町をつくった。この後の紀元前56年にユリウス・カエサルによって占領され、ポルトゥス・ナムネトゥスPortus Namnetus)と呼ばれた。

ガロ=ローマ時代

3世紀から4世紀にはロワール河口地方の主要な都市となり、周辺の集住地と同様にコンデウィクヌムCondevicnum)という旧称から一帯に住む人々の名を取った名称へ改称された。こうした地名の改変はローマ帝国の安定が崩壊しつつある時期に行なわれている。この時期の宗教的彫刻や奉納文の中には、土着の古いケルト神話の復興を示す記述が発見されている。地名の変更はおそらく、土着民のガリア的な民族性の復興という一連の現象の一部である。

280年頃、サクソン人海賊の襲撃から都市を守るためにローマ帝国は数多くの駐屯地を設置した。こうした駐屯部隊はおそらくブリテン島地域からやってきたと考えられている。エルドル川沿いにはブリトン由来の地名が残されており、ブリトン人たちはエルドル川流域へと分布を拡大したと考えられている。駐屯ブリトン人たちはロワール川沿いにブロワに至るまで配置されていた。

ナントがキリスト教化されたのは紀元3世紀である。285年にはサクソン人、500年頃にフランク人、6世紀から8世紀にかけてブリトン人、9世紀にはノルマン人の襲来を経験した。"ナントの町は何年もの間人の少なく荒れ果て、イバラやサンザシが生い茂っていた。"ナント年代記フランス語版は946年までのナントの様子を述べている。ブリトン王国最後の王であったアラン偉大王の孫にあたる、アラン捩髭公フランス語版(のちのブルターニュ公アラン2世)が祖父の敵であるノース人を追放し、ブルターニュ公国を建国した[6][7]

中世

ブルターニュ公コナン4世の時代、ナント伯オエルポルオエ子爵ウード2世(ブルターニュ女公ベルトの2度目の夫。コナン4世の継父)とブルターニュ公領を2人で分割する盟約を結ぶ。しかし、アンジュー伯ジョフロワ6世(イングランド王ヘンリー2世の実弟)が支援したナント領民の反乱に脅かされ、ウードンへの派兵ができず、ウード2世はナントを占領したコナン4世に捕らえられた。コナン4世は公国内で頻発する反乱を抑えることができず(イングランドが陰で反乱を支援していた)、イングランドに助けを求めた。その見返りとしてイングランドは政略結婚を求め、コナン4世の一人娘コンスタンスとヘンリー2世の四男ジェフリーを結婚させた。この後、ブルターニュ公国はイングランドの属国同様となる。

ジョフロワ2世の子アルテュールは、フランス王フィリップ2世を庇護者としていたことから、イングランドの王位継承権問題もからんでブルターニュはイングランド=フランス間の係争地となった。アルテュールが実の叔父であるジョン王に謀殺された後、ブルターニュ公位はアルテュールの異父妹アリックス・ド・トゥアールが継承した(アリックスが幼少であったため、フィリップ2世が摂政を務めた)。

ブルターニュ公爵城

カペー朝期のブルターニュ公時代、ナントはレンヌをしのぐ政治の中心地となった。それまでの公の本拠地ブーフェ城フランス語版の代わりにナントにブルターニュ公爵城が建てられた。

ブルターニュ継承戦争時、ナントはブルターニュ公ジャン3世の後継としてジャン・ド・モンフォール(のちのジャン4世)を受け入れ、1341年5月に彼は公国を継承した。2週間の包囲戦後の1341年11月21日に、ブルターニュ公位請求者シャルル・ド・ブロワがフランスの後押しを受けてナントを征服し、ジャン4世を捕虜とした。その後ナントはブロワ派側についた。

フランス併合

1488年、ブルターニュ公フランソワ2世の急死で公位についたのは、まだ11歳の一人娘アンヌ・ド・ブルターニュであった。幼いアンヌをもり立てていかねばならないところを、貴族らは支配権を巡って争いを続け、そこへブルターニュ公国領併合を目論むフランスが介入することになった。ナントはフランス軍に素早く包囲された。1487年の戦いと1491年の戦い(アルブレ領主アラン・ダルブレは、最後にルイ2世・ド・ラ・トレモイユへ城を差し出した)が知られている。
1491年にシャルル8世はナントへ入城した。後ろ盾のないアンヌは、シャルル8世と結婚する以外に公国を維持することができず、やむなく結婚に同意した。1498年に、子供がないままシャルルと死別。公国の独立のために、彼女はルイ12世と再婚した。

1487年から1491年まで続いた戦争で(狂った戦争、道化戦争フランス語版とも)、ブルターニュは敗退し、1532年のブルターニュ併合令フランス語版によってフランスへ併合された。独立ブルターニュ公国の最後の女公アンヌの2度のフランス王との結婚で、ブルターニュ領は将来の併合を予期していた。そして最終的に、アンヌの長女クロードとその夫フランソワ1世の時代に併合は完了した。

ルネサンス期のナント

ナントは、15世紀の終わりには人口約4万人に達していた。しかし、1501年に初めてペスト大流行がナントを襲い、犠牲者およそ4,000人を出す事態となった。その後の大流行は1522年、1523年、1529年にも起きた。

フォスの建設が1517年に始まった(後にフォス埠頭となる)。1543年、ジャン・ド・ブロスがブルターニュ総督となった。その代わりとして、彼はブルターニュ公位授爵を断念している。

ブルターニュ高等法院

多様な名前を持つブルターニュ高等法院フランス語版は、その発祥時からヴァンヌで開かれてきた。1553年から1561年までレンヌとナントが対立し、2都市の間で交互に高等法院が開会された。フランス王にしてブルターニュ公僭称者アンリ2世は1557年に、高等法院はナントでのみ開催されると決めた。

この決定に対するレンヌの抗議を前にして、摂政であり最後のブルターニュ公妃僭称者カトリーヌ・ド・メディシスは、1560年3月15日に少年王シャルル9世が出した勅令によってレンヌで高等法院が開催されることを定めた。

ナントは1790年まで、ブルターニュ会計局が置かれていた(1492年から1499年までヴァンヌにあった)。この会計局庁舎は現在ロワール=アトランティック県庁舎となっている。ナントは他に、フランソワ2世公によってつくられたブルターニュ唯一の大学(ナント大学)も保持していた。

ナントの勅令

メルクール公フィリップ=エマニュエルは、1582年9月5日にブルターニュ総督に任命され、ナントの街と居城が与えられた。彼の妻は、かつてブルターニュ公を出したパンティエーヴル家の女子相続人で、そのために彼はブルターニュ独立派に属していた。メルクール公は1584年以降、反プロテスタントカトリック同盟に加わり、プロテスタントの王アンリ4世に対抗した。メルクール公は王に対抗した最後のカトリック同盟者となり、1588年に縁戚関係にあった同盟の首領ギーズ公アンリ1世が暗殺された後もナントに籠城して抗争を続けた。1593年にアンリ4世が正式にカトリックへ改宗した後の1597年に彼は戦いをやめ、アンジェへ向かい王に帰順した。ナントはこの対立に大きな代価を払うことになり、16世紀半ばまではそれまでと比べて翳りのある時代を経験することとなった。ブルターニュがカトリック同盟の最後の州であったこと、中でもナントが同盟の最後の都市であったことから、アンリ4世は1598年に有名な勅令を宣言する都市としてナントを選び、宗教対立を終結させた。

1675年、ナントは印紙税一揆フランス語版の舞台となった。

三角貿易

フェイドー島フランス語版の奴隷船の繁栄によって建設された建物は支柱の上に建てられ壁が撓んでいる。

18世紀、ナントは地元船主の幸運でなされた三角貿易によって生じた、急激な経済発展で知られた。ナントはフランスの所有する奴隷船の母港であった。1674年以後、ナントとアンティル諸島との貿易の緊張関係が乱暴なまでに加速した。この年はフランス西インド会社の活動停止措置、そして1685年から1688年の間平均でさらに60の武装船が必要になった、セネガル会社フランス語版の創設がなされた年であった[8]。また、17世紀の名誉革命でイングランドを追われたジャコバイトたちがナントへ逃れて、共同体をつくった時期も重なった。以後彼らはボルドーラ・ロシェルイスパニョーラ島サン=ドマングにも共同体をつくった。

1669年から、ルイ14世はアンティル諸島への奴隷輸出認可を既存の会社に独占させず、国王自身で決めることとした。これがナントの船主たちに巨額の富をもたらした。黒人法英語版フランス語: Code Noir, フランス植民地帝国内での解放奴隷の活動を制限し、カトリック以外の宗教を禁じて、植民地からユダヤ人を追放した法律)が施行された1685年だけで、ナントは対アメリカ大陸用の船舶58隻を備えていた[9]。1686年以後、港には大西洋を横断できる50バレル以上の船舶84隻があった。これは1666年の3倍以上であった。1704年には、その6倍の151隻となった[10]

1688年から、ナントの船主たちはアメリカ大陸へ向けて大勢の黒人奴隷を輸送した。1427回もの遠征がナントで準備され、いずれもフランスのアフリカ奴隷貿易手形が42%を占めていた。ナントは三角貿易で富を築き、ヨーロッパ大陸初のアフリカ奴隷貿易の基地となった。ナントを本拠地とする大型奴隷船は、アフリカ大陸西岸へ向けて発った。そこで船長は、地元の首長から物々交換で男女の奴隷を買い付け、プランテーション農園での奴隷を必要とするアンティル諸島へ彼らを運んでいった。アンティルからナントへ戻る船には、奴隷を売った金で買い付けた、アンティルで採れる砂糖と香辛料が積まれていた。この貿易の内容を直接外部へ語ることは避けられ、ある者は「黒檀の航海」(Route du Bois d’Ébène)だと話した。

18世紀におけるフランス海港の競争フランス語版では、ナントは1720年以後に非常に明白な利点を持っていた。これはイングランド出身の貴族を受け入れたためであった。1652年、当時のイングランド護国卿オリバー・クロムウェルと対立したジャコバイトたちは、ナント市内に小さな共同体を築いていたのである。

1690年以降、イングランド移民たちは年長者にならって軍人となり、特に奴隷貿易船で主要な役割を担う大貿易商人となった。1720年、イスパニョーラ島南方の辺境へプランテーションが拡大したことで、サン=ドマングで砂糖が生産されなくなった時、18世紀の文書によればナントはフランス貿易全体の44%を占めていた。パリにある建物の値段が5万リーヴルした時代に、ナントは10人の百万長者がいる州唯一の都市であった。これらの大富豪のリーダーは、サン・マロ生まれのアントワーヌ・ワルシュであった。彼は、イングランド王ジェームズ2世がフランスへ亡命した際に同行し、サンマロに移住した貴族の子であった。ナントに根を下ろしたカトリックのジャコバイトたちは、数十年にわたってサン=ドマングにプランテーション農園を持ち、輸出分野でイングランドに追いつこうとしていたのであった。

18世紀半ば、ボルドーがナントを押さえてフランス貿易の40%を握るようになった。これは、ボルドー後背地のマザム地方、特にモントーバンの織物産業のためであった。織物を積んだボルドーから出た船は直接サン=ドマングへ向かい、帰りには砂糖を積んできた。対してナントは、対アンティル貿易に付加価値を付けられる製品に欠け、三角貿易のみに集中していた。奴隷船船長は、サン=ドマング南部に自身のプランテーション農園を持つことが許されていた。しかし、島で生産された莫大な量の砂糖を持ち帰るには船の容積トン数が不十分であった(イスパニョーラ島は、イギリス領ジャマイカバルバドスより先に世界初の砂糖輸出地域となっていた)。

ナント出身者が所有する西インド諸島の織物製造所が付加価値を生む製品を作って、18世紀半ばに上記の問題が解消したことで、スイス出身のプルターレス家が再び富を蓄えた。一方で綿花に関する再輸出はサン=ドマングで多様化し、遠く離れた、イギリスで綿織物産業が産声をあげたマンチェスター地方へも輸出が行われた。

アカディアアカディア人追放フランス語版によって追われたアカディア人たちが、1775年から1785年までナントのサンタンヌ区に難民として暮らしていた。

フランス革命

ナントの溺死刑を描いた絵

ヴァンデの反乱の最中にナントは、革命思想を受け入れたために、ジャック・カトリノーフランソワ・ド・シャレット率いるヴァンデ軍に1793年7月29日に攻撃されたが、防衛に成功した。これがナントの戦いフランス語版である。カトリノーはこの戦いで重傷を負い死亡、シャレットは、後に捕らえられ1796年3月29日に処刑された。

1793年から1794年の間、国民公会派遣議員ジャン=バティスト・カリエは、革命遂行のためナントへ赴き、略式裁判で大勢の捕虜を即決処刑させた(裁判はフランソワ・ビニョンが取り仕切った)。1793年12月末から1794年2月末までに、カリエは2600人もの捕虜を殺害させた[11]。またカリエは、ボートに乗せた捕虜たちをロワール川へ投げ込んで溺死させた、ナントの溺死フランス語版も指揮した。死刑囚たちは即決後裸にされ、男女1組に縄で縛られ、残酷に溺死させられた。カリエは、この処刑の様子を直立の国外追放と命名した。この処刑方法は「共和国の結婚」の名称で、著名になった。革命思想の急激な拡大をみたこの時代は、後に重い追悼を捧げられるものとなった[12]

近代・現代

19世紀に入り、ナントは工業都市へ変貌した。最初の鉄道は1851年に建設され、多くの工場がつくられた。1940年、ナントはナチス・ドイツに占領された。1941年、ドイツ軍士官フリッツ・ホッツの殺害事件が起こり、その報復として48人の市民が処刑された。1943年8月16日と23日の2度に渡って、イギリス空軍の激しい空爆が行われた。1944年、アメリカ軍がナントを解放した[13]

1970年代まで、ナント港はロワール川に浮かぶナント島にあった。その後の役割はロワール河口に近いサン=ナゼールへ移った。その後の20年間、多くの第三次産業がナント周辺へ組織を移してきたが、経済の難局がこれらの多くを閉鎖に追い込んだ。2001年、新たな市中心地とすべく島の再活性を目的とする、再開発計画が始まった[14]

2003年、フランスの週刊紙レクスプレスで、ナントはフランスで最も緑の多い都市に選ばれた。2003年と2004年には、週刊紙ル・ポワン紙上において最も暮らしやすい都市に選ばれた。2004年8月、タイム紙で『ヨーロッパで最も住みやすい都市』として企画された[15][16]


  1. ^ nantes.fr, relief
  2. ^ nantes.fr, géographie
  3. ^ Nantes métropole, le territoire
  4. ^ climat de Loire-Atlantique
  5. ^ nantes.fr Climat
  6. ^ David C Douglas, ed. English Historical Documents (Routledge, 1979) "Secular Narrative Sources" pp 345f.
  7. ^ Chronicle of Nantes English Historical Documents. Dorthy Whitelock, David Charles Douglas. Routledge, 1996 ISBN 0415143667 Retrieved on 30-10-07.
  8. ^ [1]
  9. ^ [2]
  10. ^ [3]
  11. ^ Roger Dupuy, Nouvelle histoire de la France contemporaine. La République jacobine, 2005, p.170
  12. ^ 日本語文献では、G・ルノートル『ナントの虐殺』幸田礼雅訳(新評論、1997年)に詳しい。
  13. ^ reception - tourisme/culture - France - Nantes - histoire page Archived 2008年8月28日, at the Wayback Machine.
  14. ^ Revit Metropolitan Development
  15. ^ As above
  16. ^ A recognized quality of life Business in Western France. Retrieved on 4 August 2007.
  17. ^ http://www.linternaute.com/nantes/magazine/histoire/pratique/tours-lu.shtml
  18. ^ Presentation of Nantes CRWFlags.com. Published on 28-04-07. Retrieved on 07-12-07.
  19. ^ Reviews of The Life and Science of Léon Foucault. The Man who Proved the Earth Rotates.
  20. ^ Loire-Atlantique guide Archived 2007年9月4日, at the Wayback Machine.
  21. ^ Does the Breton language have a future?”. Breizh.net (2004年5月). 2007年8月7日閲覧。
  22. ^ (フランス語) Ofis ar Brezhoneg: Enseignement bilingue
  23. ^ http://www.nantes-renaissance.org/img/PSS.jpg
  24. ^ http://www.nantes.fr/decouverte/ville-dart-et-histoire.html
  25. ^ http://www.seve.nantes.fr/patrimoine/sculpture/sculptureliste.asp
  26. ^ Nantes mechanical elephant - Elephant in Nantes - Les Machines de l'île” (英語). Les Machines de l’Île. 2023年10月7日閲覧。






ナントと同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ナント」の関連用語

ナントのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ナントのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのナント (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS