ウィリアム・アイザック・トマス
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ウィリアム・アイザック・トマス | |
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生誕 |
William Isaac Thomas 1863年8月13日 アメリカ合衆国 バージニア州ラッセル郡 |
死没 |
1947年12月5日 (84歳) アメリカ合衆国 カリフォルニア州バークレー |
墓地 |
テネシー州ノックスビル オールド・グレイ墓地 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
研究分野 | 社会学 |
研究機関 |
テネシー大学 オーバリン大学 シカゴ大学 |
教育 |
テネシー大学 シカゴ大学 |
博士課程 指導教員 |
アルビオン・スモール Charles A. Henderson |
主な業績 | トマスの公理 |
影響を 受けた人物 | ガブリエル・タルド |
影響を 与えた人物 | ハーバート・ジョージ・ブルーマー |
主な受賞歴 | テネシー大学最高雄弁賞 (Highest oratory honors) |
プロジェクト:人物伝 |
経歴
トマスは、1863年8月13日に、バージニア州ラッセル郡のエルク・ガーデン (Elk Garden) 地区の農場で[3]、ペンシルベニア・ダッチの血統をひくメソジストの牧師であった父タデアス・ピーター・トマス (Thaddeus Peter Thomas) と母セイラ・プライス・トマス (Sarah Price Thomas) の間に生まれた[4]。トマスの少年期に、父親は子どもたちにより良い教育機会を与えようと考え、一家はテネシー大学の本拠地であるテネシー州ノックスビルに移り住んだ。
1880年から、トマスはテネシー大学で西洋古典学を学び、1884年にはB.A.を得て、英語と現代語の非常勤教員 (Adjunct Professor) となった。ノックスビルでは、ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、自然史を教授していた。同時に彼は、民族学や、ハーバート・スペンサーの『社会学原理 (Principles of Sociology)』を読んでからは社会科学にも関心を寄せた。
1888年、トマスは、ハリエット・パーク (Harriet Park) と、最初の結婚をした。同年から翌1889年にかけて、古典語や現代語学を学ぶため、ドイツのフンボルト大学ベルリンとゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンに留学した。ドイツ滞在中、ヴィルヘルム・ヴントらドイツの学者たちの影響を受け、民族学や社会学への関心をいよいよ高めた。
1889年に合衆国に帰国すると、トマスはオハイオ州オーバリンのオーバリン大学の教員となり、1895年まで英語と社会学の教授を務めた[5]。
1894年、トマスはシカゴ大学に招かれ、社会学の授業を担当した。翌年には、シカゴ大学に移籍することとなり、教えるかたわら、新設された社会学部の大学院で、社会学と人類学を学び、1896年に論文「On a Difference in the Metabolism of the Sexes」でPh.D.を取得した。シカゴ大学の社会学部は、アメリカ合衆国における社会学の創設地とされている[6]。その後、トマスは再びヨーロッパへ渡り、様々な民族、文化の問題についてフィールドワークに取り組み、ヨーロッパの諸国民の国民性についての比較研究の執筆に向けた準備をしようとしたが、この企ては完成することはなかった。
トマスは、続く25年間近くにわたってシカゴ大学で社会学と人類学を講じ、1895年にインストラクター (instructor)、1896年に助教授 (assistant professor)、1900年に准教授 (associate professor) となり、1910年に教授になった。1895年から1917年まで、『American Journal of Sociology』の共同編集者のひとりであった。
1907年には、トマスにとって最初の主要著作である『性と社会 (Sex and Society)』が出版された。「人類学者たちは ... 女性を子どもと成人男性の中間的存在とみなしている (Anthropologists ... regard women as intermediate between the child and the man)」といった記述など、その内容には、今日の観点からすれば多数者から性差別とみなされそうな生物学的バイアスが強くかかっているが、当時としては、進歩的な本であった。『性と社会』の中でトマスは、女性たちの男性に優る「狡猾さ (cunning)」や「辛抱強さ (endurance)」を踏まえれば、女性の知性は、実際には男性より優っているのではないか、とも推測している。
1927年、トマスはアメリカ社会学会の会長に選ばれた。トマスは、フランクリン・ヘンリー・ギディングス、エドワード・アルズワース・ロス、チャールズ・クーリー、エルスワース・ファリスとともに、社会学界における初期の心理学派のひとりとして言及されることがよくある。トマスは、その方面では著作を残さなかったが、講義資料には多用していた[7]。
トマスは、自身の関心領域について「様々な文化状況や歴史上の時代における、文化史の社会心理学的諸側面、あるいは、人種、国民性、階級、利害集団などとの関係から検討する社会心理学。次いで、通常の、あるいは犯罪的、精神病質的な個人の人格形成と、自伝、事例研究、継続的かつ組織的なインタビュー調査などから得られる彼らのライフ・ヒストリーから見える文化状況や特定の経験の積み重なりの関係。(私は既に術語として意味が固められている「精神分析」という表現は用いない。)」の記している。さらに、社会学者で誰から影響を受けたかという質問に対して、トマスは、「社会学を教わった教師たちから大きな影響を受けたという感じはしていない。私の関心は、既に述べたように、周縁的な領域にあり、スモール教授の歴史的、方法論的アプローチや、ヘンダーソン教授の治療的、矯正的関心のような、当時の社会学が組織化し、教えていた内容からは外れていた。」と答えている[8]。
ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民
1913年、ポーランドに出向いたトマスは、当時『Wychodźca polski』誌(「ポーランド移民」の意)を編集し、国外に出た移民たちの利益代表をする組織の役員をワルシャワでしていた、ポーランドの社会学者フロリアン・ズナニエツキと知り合った。ズナニエツキは、組織の研究をしていたトマスを支援し、貴重な資料を提供した。翌年、第一次世界大戦が勃発すると、ズナニエツキは周辺3カ国に分割されたポーランドが、その国々の戦争の戦場となる中、ポーランドを離れた。ズナニエツキは、シカゴへ渡ることを決意する。そしてトマスと再開するが、この時、トマスが正式にズナニエツキを呼び寄せたのかどうかは、判然としていない。いずれにせよトマスは、直ちにズナニエツキを研究助手として雇い入れた。やがてズナニエツキは、記念碑的な業績となった『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民 (The Polish Peasant in Europe and America)』(1918年–1919年)においてトマスの共著者となり[6]、ルイス・A・コーザーは同書を「アメリカ社会学研究における最初の重要なランドマーク」と呼んだ。同署においてトマスとズナニエツキは、一般的に文化を理解するために伝記記述的アプローチを用いた。さらにトマスとズナニエツキの業績は、特に民族性を理解するためのアプローチも編み出し、多くの点で同時代より抜き出ており、現代においても移民についてのトランスナショナリズム研究の文脈で再発見されている。
- ^ a b “William Thomas, Sociologist, Dies. Former Member of University of Chicago Faculty Lectured Here and at Harvard”. New York Times. (1947年12月7日)
- ^ Thomas, William I.; Thomas, Dorothy: The Child in America (Alfred Knopf, 1929, 2nd ed., p. 572)
- ^ “W. I. Thomas”. www.rootsweb.ancestry.com. 2016年10月19日閲覧。
- ^ Janowitz, Morris (1996). W.I. Thomas On Social Organization and Social Personality. Chicago: The University of Chicago Press. pp. XI
- ^ a b Sica, Alan. 2005. "W.I. Thomas" Pp.406-410 in "Social Thought: From the Enlightenment to the Present". Boston, MA: Pearson Education, Inc.
- ^ a b Lemert, C. 2010. “William I. Thomas and Florian Znaniecki (1918-1920)”. Pp.251-257 in “Social Theory: The Multicultural and Classical Readings”. 4th ed. Boulder, CO: Westview Press.
- ^ “William Isaac Thomas”. American Sociological Group. 2012年10月5日閲覧。
- ^ “William Isaac Thomas”. American Sociological Association. 2018年6月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Martin Bulmer (15 August 1986). The Chicago School of Sociology: Institutionalization, Diversity, and the Rise of Sociological Research. University of Chicago Press. pp. 59–60. ISBN 978-0-226-08005-5
- ^ a b c d e f Robert M. Crunden (1984). Ministers of Reform: The Progressives' Achievement in American Civilization, 1889-1920. University of Illinois Press. p. 86. ISBN 978-0-252-01167-2
- ^ a b c Mary Jo Deegan (1988). Jane Addams and the Men of the Chicago School, 1892-1918. Transaction Publishers. p. 140. ISBN 978-1-4128-2681-5
- ^ Mary Jo Deegan (1988). Jane Addams and the Men of the Chicago School, 1892-1918. Transaction Publishers. p. 184. ISBN 978-1-4128-2681-5
- ^ a b c Sands, Roberta G. 2014. “William I. Thomas, The unadjusted girl”. Qualitative Social Work, 13:725-728. Retrieved November 2, 2014 (http://qsw.sagepub.com/content/13/5/725).
- 1 ウィリアム・アイザック・トマスとは
- 2 ウィリアム・アイザック・トマスの概要
- 3 評価の失墜
- 4 後年
- 5 死去
- 6 関連文献
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