金融グローバル化の始動:1870-1914年
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世界は19世紀後半に大きく変わった。そのことが国際金融センターの増加と発展を促す環境を整えた。主な変化は、資本フローが空前の成長を遂げたこと、その結果として金融センターが急速に統合したこと、そして通信が加速したことであった。1870年以前に世界で目立った金融センターはロンドンとパリしかなかった:1。その後まもなくベルリンとニューヨークが自国の経済に金融サービスを提供する主要センターに成長した。アムステルダム、ブリュッセル、チューリッヒ、ジュネーブといった小さな国際金融センターが市場のニッチに存在意義を見出した。ロンドンは第一次世界大戦に至るまでの40年間、主導的な国際金融センターであり続けた:74–75:12–15。 1870年から1914年にかけて近代的な経済グローバル化が始まった。その特徴は、交通の拡大、記録的人数の移民、通信の拡充、貿易の拡大、そして資本移動の増加であった:75。19世紀半ばの時期に、欧州のパスポート制度は鉄道輸送が急速に拡大するにつれて解体した。パスポート発行国はパスポートの携行を求めず、人々はパスポートなしで自由に旅行できるようになった。国際パスポートは1980年に国連の国際民間航空機関の主導で標準化されるまで長らく標準化されなかった。1870年から1915年にかけて36百万人が欧州から移住した。そのうち約25百万人(70%)が米国に移住し、残りの多くはカナダ、オーストラリア、ブラジルに移住した。欧州自体にも外国人が流入し、欧州の外国人比率は1860年から1910年にかけて0.7%から1.8%に高まった。実効的なパスポート要件がないことは自由な旅行を可能にしたが、輸送の技術進歩がなければ大規模な移住は全く不可能であった。特に鉄道旅行の拡大と、伝統的な帆船より優れた蒸気船のおかげであった。世界の鉄道の走行距離は1870年の205千キロメートルから1906年の925千キロメートルに伸びた。一方、蒸気船の貨物トン数は1890年代にヨットを上回った。電話や無線電信(ラジオの前身)などの進歩は、瞬時の通信を提供して電気通信に革命をおこした。1866年にロンドンとニューヨークを結ぶ最初の大西洋横断ケーブルが海底に敷設された。欧州とアジアは新たに電話線で結ばれた:75–76:5。 経済グローバル化は自由貿易とともに進展した。その端緒は1860年に英国とフランスが締結した自由貿易協定・コブデン・シュヴァリエ条約(英語版)である。これによりグローバル化は黄金時代を迎えた。しかしこの黄金時代は中断し、1880年から1914年まで保護主義に戻った。1879年にドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが農産物と製造品に保護関税を導入した。これによりドイツは新たに保護貿易政策を定めた最初の国となった。1892年にフランスがメリーヌ関税メリーヌ関税(英語版)を導入し、農産物と製造品への関税を大幅に引き上げた。米国はおよそ19世紀を通じて強力な保護主義を維持して40~50%の関税を課した。こうした保護貿易政策にもかかわらず、国際貿易は減速することなく成長を続けた。逆説的であるが、外国貿易は、英国が始めた自由貿易期よりも、グローバル化当初の保護貿易期にずっと速く成長した:76–77。 1880年代から1900年代まで外国投資が空前の成長を遂げ金融グローバル化が大きく進んだ。全世界の海外投資総額は1913年に440億米ドルにのぼった(2012年の1兆2千億ドルに相当)。外国資産の保有国上位の割合は英国42%、フランス20%、ドイツ13%、米国8%であった。オランダ、ベルギー、スイスは合わせてドイツと同程度の約12%の外国投資を行った:77–78。
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