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オットー・フォン・ビスマルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/26 12:04 UTC 版)
| オットー・フォン・ビスマルク
Otto von Bismarck
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| 生年月日 | 1815年4月1日 |
| 出生地 | ブランデンブルク県 シェーンハウゼン |
| 没年月日 | 1898年7月30日(満83歳没) |
| 死没地 | シュレースヴィヒ=ホルシュタイン県 フリードリヒスルー |
| 出身校 | ゲッティンゲン大学 ベルリン大学 |
| 称号 | 侯爵(Fürst) |
| 親族 | ヘルベルト・フォン・ビスマルク(長男・外相) |
| 配偶者 | ヨハンナ・フォン・ビスマルク(旧姓フォン・プットカマー) |
| サイン | |
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| 任期 | 1862年9月23日[1] - 1890年3月18日[1] (1872年12月21日から1873年11月9日にかけて離任[1]) |
| 国王 | ヴィルヘルム1世 フリードリヒ3世 ヴィルヘルム2世 |
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| 任期 | 1862年10月8日[2] - 1890年3月20日[2] |
| 国王 | ヴィルヘルム1世 フリードリヒ3世 ヴィルヘルム2世 |
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| 任期 | 1867年7月14日[3] - 1871年3月 |
| 連邦主席 | ヴィルヘルム1世 |
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| 任期 | 1871年3月21日[4] - 1890年3月20日[4] |
| 皇帝 | ヴィルヘルム1世 フリードリヒ3世 ヴィルヘルム2世 |
オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(独: Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen, 1815年4月1日 - 1898年7月30日)は、プロイセン及びドイツの政治家。プロイセン王国宰相(在任1862年 - 1890年)、ドイツ帝国初代帝国宰相(1871年 - 1890年)。ドイツ統一の立役者として知られ、「鉄血宰相」と呼ばれる。
概要
プロイセン王国東部の土地貴族であるユンカー階級の出身。1847年から代議士としてプロイセン政界入りした。代議士時代には正統主義に固執するプロイセン保守主義者として活動し、1848年革命で高まりを見せていた自由主義やナショナリズム運動、人民主権の憲法によるドイツ統一の動きを批判した。
1851年から外交官に転じ、ドイツ連邦最大の大国オーストリア帝国との利害対立の最前線に立つ中でオーストリアを排除した小ドイツ主義(プロイセン中心のドイツ)統一の必要性を痛感するようになり、オーストリアとの連携を重視する神聖同盟などの正統主義の立場から離れるようになる。保守主義者・君主主義者の矜持は保ちつつ、小ドイツ統一を目指す自由主義ナショナリズム勢力とも手を組む道を模索するようになった。
自由主義議員の憲法闘争で議会が紛糾する中の1862年にプロイセン王ヴィルヘルム1世からプロイセン宰相に任じられた。議会で鉄血演説を行ってドイツ統一戦争の意思を示し、対デンマーク戦争と普墺戦争の勝利によってドイツ統一を押し進めたことにより自由主義ナショナリストの支持を獲得していった。普墺戦争勝利後の1867年にオーストリアをドイツから排除した北ドイツ連邦を樹立したが、この時点ではフランス帝国の圧力もあり反プロイセン的な南ドイツ諸邦国は加盟しなかった。しかしフランスと対立を深めることで南ドイツ諸邦国のドイツ・ナショナリズムを高めて支持を取り付け、1871年の普仏戦争の勝利によって南ドイツ諸邦国も取り込んだドイツ帝国を樹立、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝として戴冠させ、ドイツ統一を達成した。
ドイツ帝国建国後は文化闘争や社会主義者鎮圧法などにより反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革や世界で初めて強制加入の社会保険制度を創出するなど社会政策を行った。また巧みな外交によって帝国主義の時代の19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築した。しかしヴィルヘルム2世がドイツ皇帝・プロイセン王に即位すると社会主義者鎮圧法や労働者保護立法をめぐって新皇帝と意見がかみ合わず、1890年3月に宰相を辞することとなった。
生涯
生誕とその時代背景
ビスマルクは1815年4月1日、プロイセン王国ブランデンブルク県に属するビスマルク家所有の土地シェーンハウゼンにおいて生まれた[5][6][7][8][9]。
父はフェルディナント・フォン・ビスマルク[10]。母はヴィルヘルミーネ・フォン・ビスマルク(旧姓メンケン)[11]。
ビスマルク家は14世紀に貴族に列した由緒あるユンカーの家系であり、16世紀にシェーンハウゼンに領地を移された[6]。父はビスマルク家の末子の生まれだが、長兄がユングリンゲンに領主屋敷を構え、他の兄二人は農場を相続せずに職業軍人の道を選んだので父がシェーンハウゼンの土地を継いでいた[12]。
母ヴィルヘルミーネの実家メンケン家は貴族ではないが、オルデンブルクの名門の商家の家柄であり、学者、詩人、歴史家なども多数輩出した[13][14]。ヴィルヘルミーネの父アナスタージウス・ルートヴィヒ・メンケンはフリードリヒ大王によって取り立てられ、プロイセン王国内閣秘書官(Kgl. preuß. Kabinettssekretär)を務めた[11][15]。しかし早死にしたこともあり特筆されるほどの業績は残していない[11]。
父と母は1806年に結婚した[11][16][17][6]。夫妻は6人の子供を儲け[17]、そのうちの第四子として生まれたのがビスマルクであった[16]。
ビスマルクが生まれた1815年という年はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが敗退し、正統主義[# 1]と勢力均衡を基調とした保守体制「ウィーン体制」が構築された年だった[19][20]。
ウィーン体制下のドイツ地方[# 2]にはオーストリア帝国やプロイセン王国、バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、ザクセン王国など39か国が独立して存在し、これらの国はドイツ連邦という緩やかな国家連合を形成していた[24][19]。連邦内の最大の大国であるオーストリアが連邦議会議長国であり、それに次ぐプロイセンがドイツの覇権を狙う挑戦者であった。またウィーン体制下ではロシア帝国の主導の下、オーストリアやプロイセンも参加して「神聖同盟」という正統主義と王権神授説の君主国家の国際協力体制が築かれていた[25][18]。
これらウィーン体制はナポレオン戦争の落とし子ともいうべき思想、すなわち立憲政治の確立を目指そうとする自由主義や民主主義、民族国家(国民国家)を作ろうとするナショナリズムを抑圧して王権を守るための共同体制であった[25][26]。しかしウィーン体制側の抑圧にもかかわらず、これらの思想は強まっていくばかりであり、対立は先鋭化していった[27]。
幼少・少年期
1816年にビスマルク一家はポンメルン地方に新たに得たクニープホフの農場へ引っ越した[28]。ビスマルクはここの牧歌的世界の中で幼少期を送った後、1822年に家族の下を離れて王都ベルリンのプラーマン学校に入学し、1827年秋まで在学した[29][30][31]。ビスマルク家はベルリンのベーレンシュトラーセにも住居を所有しており、冬はそこで過ごしたのでビスマルクにとってベルリンは見知らぬ土地ではなかった[32]。
プラーマン学校はヨハン・エルンスト・プラーマンが創始した全寮制の学校でペスタロッチの教育理念に根差した学校だった[29][33][34][17]。しかしビスマルクはプラーマン学校にいい思い出をもっていない。後年ビスマルクはプラーマン学校について「不自然なスパルタ教育」「まるで監獄だった」「この学校時代の事は面白くないことばかりだ」などと酷評した[29][35][36]。ビスマルクはこの学校でやらされる器械体操が嫌いだった[37]。またプラーマン学校は「万人平等」の理念を掲げていたのでビスマルクの姓に付いた貴族の称号「フォン」が煙たがられて仲間外れにされたとビスマルクは回顧している[38][39]。
プラーマン学校で6年間学んだあと、1827年から1830年までベルリンのフリードリヒシュトラーセにあるフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムに在学した[38][40][30][41]。ついで1830年から1832年まではクロスターシュトラーセにあるグラウエン・クロスター・ギムナジウムで学んだ[40][30]。両校ともヒューマニズムを理念としている名門校で多くの学者、官僚、医師を輩出していた[38]。
ビスマルクにとってギムナジウムはプラーマン学校と比べれば居心地が良かったようである。プラーマン学校の庶民的な器械体操から解放されて貴族的な乗馬に熱中することができた[42]。また両校は全寮制ではなかった。ビスマルクははじめベーレンシュトラーセのビスマルク家の自宅から登校したが、後にビスマルク家はこの自宅を手放したので以降は下宿先から登校するようになった[43]。17歳の時の成績表には「勤勉」の欄に「何事も継続せず。登校も精勤を欠く」と書かれている[42]。しかしビスマルクは歴史が得意であり[44][41]、また語学に才能を発揮した。ラテン語、フランス語、英語は特に得意であった[42]。国語(ドイツ語)も「表現力に優れる」という評価を受けている[45]。
ビスマルクは後年の回顧録の冒頭においてギムナジウム教育を終えた時の自身の精神についてこう述べている。「私は1832年に中等教育を終えたとき、共和主義者とまではいかないまでも共和国を最も理想的な国家形態だと確信する汎神論者になっていた」、「しかし多様な影響も君主主義を旨とする生まれ持ったプロイセン的感情を消し去るほど強くは無かった。歴史において私の共感は常に権威の側にあった」[46][47]。
大学時代
ユンカーの息子は実家の農業に奉仕しないのであればプロイセン王室に軍人か文官として仕えるのが普通であり、ビスマルクもその道を選んだ[48]。しかしビスマルクは軍人にはなりたがらず、文官になる道を目指した[49][50]。当時のプロイセンにおいて文官になるためには大学で法律を学ぶ必要があった[51][52]。
1832年5月、当時イギリスと同君連合を結んでいたハノーファー王国ゲッティンゲンにあるゲッティンゲン大学に入学した[51][53][44][54]。ここに入学したのは同大学が当時中欧で最先端の大学と言われており、母親が入学を薦めたからであった[30]。当時のドイツの大学では学生団体としてランツマンシャフト(同郷学生会)とブルシェンシャフトの二流があった[51]。ブルシェンシャフトは自由主義とナショナリズムの傾向があった[51]。代議士時代にビスマルクは自由主義・ナショナリズム思想と徹底的に戦う事になるが、ビスマルクの回顧録によると学生時代には彼は「ドイツ国民意識が強かった」といい、初めはブルシェンシャフトに近づいたという[# 3]。しかし所属する学生たちが決闘を拒否していることや礼儀作法に欠けていることからビスマルクの肌に合わなかったといい[51][56]、結局ビスマルクはランツマンシャフトに加入し、ゲッティンゲン大学在籍の1年半の間に25回も決闘をしている[57][58]。法律の学業はかなり疎かになっていたようである[59][60]。不良行為を理由に罰金を科されたり、大学の牢獄に投獄されたこともあった[61][62]。しかしビスマルクは後年「ゲッティンゲン時代はこの上なく幸せだった。私の黄金時代だった」と語っている[63]。
1833年9月にゲッティンゲンを離れてベルリンに戻り、1834年5月からベルリン大学に入学した[64][65][66][44][67]。この転校は借金が原因であったと思われる[68][64]。ベルリン大学でも勉学に熱心ではなく、ベルリンの貴族社交界で活動することに熱心だった[69]。ビスマルクの学業怠慢を心配した母ヴィルヘルミーネは文官ではなく軍人を目指してはどうかと勧めたが、ビスマルクには軍人になる気は全く無かった[70]。腕力には自信があったが、この頃の彼は軍隊的な規律が嫌いだった[71]。
ビスマルクは体系的な学問は続かなかったが、議論好きだったので教養を付けるのは好きだった[64]。世界観の問題、特に宗教の問題をよく討議した。この場合ビスマルクは常に不信仰の側に立ち、宗教に懐疑的だったという[72]。読書を好み、シェイクスピアやバイロンを読んで英語力を高めた[72]。
自堕落な官吏試補
1835年3月にベルリン大学を去り、5月に高等裁判所の司法試験に合格した[73]。司法官試補としてベルリンの裁判所に勤務した[74][75][76][77][44][78]。
1836年6月末までに司法官から行政官に転じる試験に合格[75][79]。アーヘンの県庁で行政官試補として勤務した[70][76][80][78]。
ビスマルクは更に外交官に転じたがっていたが、外務省からも県知事からも認められなかった[76]。またこの頃、アーヘンの社交界で知り合ったイギリス人女性たちと付き合う様になり、仕事への熱意がほとんどなくなった[76]。ビスマルクは社交界の交際費を稼ぐためルーレット賭博に手を出して借金を背負ってしまった[81][82]。英国国教主任牧師のイギリス地方貴族の娘との交際のためにビスマルクは勝手に休暇を取り、ヴィースバーデンへ移っている[83]。しかし結局経済的な問題から結婚することはできなかった[84]。
失恋に終わったビスマルクはいい加減な理由をでっちあげて更に休暇を伸ばそうとしたが、アーヘン県知事から却下された。しかし「社交界での活動が忙しいなら別の県庁に転勤するのは承認する」とされ、1837年9月からビスマルクはポツダムの県庁に転勤することになった[84][79]。
ポツダムで数か月勤務した後、1年の兵役を終わらせてしまうことに決め、嫌々ながら1838年3月末にポツダムの近衛狙撃部隊に入隊した[84][85]。ついでグライフスヴァルトのポメルン狙撃部隊に入営して兵役を終えた[86][87]。相変わらず将校になる意思は無かったので兵役を終えるとすぐに軍隊を離れた[88]。
ビスマルクは兵役後にも県庁の仕事に全く興味が持てず、ユンカーとして農業経営に携わる決意を固めた[85]。ポツダムの県庁に戻らず何カ月も休暇を取って欠勤し、1839年10月には正式に退官した[88][89][90]。
農場経営
1839年の復活祭にポンメルンのクニープホーフの農場に戻った[91][77]。兄ベルンハルトと共に農場の管理にあたった[92]。1841年に兄がナウガルト群長に選出されると兄弟間で仮の所有分割が行われ、クニープホーフとキュルツの農場をビスマルクが監督することとなった[90]。ナウガルト群長である兄の代理もしばしば務めた[91]。
1845年11月22日に父が死去すると、クニープホーフとキュルツの農場は兄に戻されたが、代わりにビスマルクはシェーンハウゼンの農場を相続した[93][94][95]。1846年2月にシェーンハウゼンに移住した[96]。
ビスマルクはポンメルンのユンカーの敬虔主義者サークルに出入りするようになり、友人であるモーリッツ・フォン・ブランケンブルクの婚約者マリー・フォン・タッデンと宗教論争を巡って親しくなっていた(マリーは信仰熱心だったが、ビスマルクは相変わらずキリスト教に懐疑的だった。マリーはビスマルクを説得することに熱中していた)[97][98][99]。そのマリーを通じてビスマルクの妻となるヨハンナ・フォン・プットカマーと知り合った[100]。ヨハンナはポンメルンの敬虔主義のユンカーの家の生まれであった[101]。1846年にマリーが催した仲間たちを集めてのハルツ山地旅行にビスマルクも参加し、ヨハンナと親密な関係になった[100][102]。そして1847年7月28日にビスマルクとヨハンナはラインフェルトで挙式した[103][104][105]。彼女との間に三子を儲ける[106]。宗教に懐疑的だったビスマルクもヨハンナの影響で信仰の道に戻り、熱心に祈祷を行うようになったという[107]。
代議士
連合州議会議員
1848年革命の前夜の1845年と1847年、ヨーロッパは不作と金融危機に襲われた。ベルリンはじめ各都市では市民暴動が多発するようになった(じゃがいも革命)[108]。折しもドイツでは自由主義者の活動が活発になっていたが、この経済危機の中でそれは増幅された[109]。こうした中、1847年2月に第6代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は勅令を出して第一回プロイセン連合州議会(de)を召集することとなった[110][87][111]。これは各領邦の三身分会(騎士・都市・地方自治体の代表者)と領主会(王族、侯爵、伯爵の代表者)をベルリンへ集めた身分制議会であった[112][113]。
ビスマルクは5月に欠員が生じたマグデブルクの身分制議会の議員となったため、プロイセン連合州議会の議員となった[114]。ビスマルクがこの地位を得たのはシェーンハウゼン騎士領地主の身分によるものであり、ビスマルク個人の努力の要素はない[114]。しかしながらこれがビスマルクが政治の世界に飛び込むきっかけとなった[114]。ビスマルクはベルリンへ赴くとマリー・フォン・タッデンを通じて1845年に知り合ったエルンスト・フォン・ゲルラッハとその兄で国王の寵臣であるレオポルト・フォン・ゲルラッハの率いる正統主義・敬虔主義の強硬保守宮廷グループに入って政治活動を開始した[115][116][117]。このゲルラッハ兄弟はあらゆる革命的政策を「悪魔の業」と看做していた[118]。
第一回連邦州議会においてビスマルクもただちに強硬保守主義者として活動した。「神の恩寵を受けた」プロイセン王権による君主主義を擁護し[119][120]、自由主義的憲法の導入を主張する反政府派の議員を罵った[121]。「キリスト教国家」を擁護し、ユダヤ人を罵った[122][123]。農民を苦しめていた地主貴族の狩猟権(野鳥獣に農作物が荒れる)を擁護し、農民の立場に立ってその撤廃を求める議員を「共産主義に導こうとしている」として批判した[124]。当時多くの貴族議員たちさえも時代錯誤として反対していたユンカーの領主裁判権をなおも擁護した[125]。
1848年革命をめぐって
1848年2月にフランス王国で民衆革命が発生しルイ・フィリップの王政が打倒され、共和政が樹立された。革命はドイツ連邦諸邦にも飛び火した[120][126]。プロイセン首都ベルリンでは連日のように民権拡大を求める自由主義者・民主主義者・ナショナリストたちの民衆集会が開かれたが、3月18日に国王軍が市民に向かって発砲したことで市民軍と国王軍が衝突した(3月革命)[127]。国王は王権の延命のために革命勢力と手を結ぶ道を選び、3月19日に市内から国王軍を撤収させて自ら市民軍の管理下に入り、宮殿中庭に安置された革命の死者の前で脱帽し、自由主義者による内閣を構成すると約束し、革命を示す黒赤金[# 4]の腕章をつけて市内を行進した[129][130]。
ビスマルクはこの革命が発生した時シェーンハウゼンの自邸にいた[120]。後のビスマルク自身の報告によると3月20日にタンゲルミュンデ(de)からの使者がシェーンハウゼンにやって来て黒赤金の革命旗を掲げるよう命じたという[131]。これに対してビスマルクはシェーンハウゼンの教会の旗にプロイセン王権を示す黒十字を掲げさせて返事とし、窮地の国王を革命勢力から救いださんと村民たちに村中の猟銃をかき集めさせ、ベルリン進軍の準備を開始させたという[131][132][133][134]。その後単身ポツダムやベルリンへ赴き、自らの勤王の志を伝えるとともに農民軍を率いて参じる用意がある事を政府に告げたが、すでに国王は軍隊を撤収させているとして政府から止められた[135][136][137]。ビスマルクは王弟カール王子の名前を使って王位継承権者である王弟ヴィルヘルム王子(後の第7代プロイセン王・初代ドイツ皇帝)の妃アウグスタと会見してヴィルヘルム王子の名で国王の決定を取り消す許可を得ようとしたが、アウグスタに拒否されたという[138]。このアウグスタは自由主義的な思想の持ち主で生涯を通してビスマルクに敵対した[139]。
ドイツ各邦国の自由主義ナショナリストたちはドイツ統一の道を模索するため、人民主権のドイツ憲法とそれを制定するためのドイツ国民議会の設置を要求した[140]。帝国自由都市フランクフルト・アム・マインに設置されているドイツ連邦議会(de)も3月革命によって各邦国の代表の顔ぶれが変わったことでこれを認めた[140]。
プロイセンではルドルフ・カンプハウゼンを宰相とする自由主義政府が誕生したが[141]、カンプハウゼンはドイツ国民議会とは別にプロイセンにも独自のプロイセン国民議会を設置することを決め、その招集までの過渡期的議会として1848年4月2日から10日にかけて第二回プロイセン連合州議会を召集した[142][143]。
召集された連合州議会においてビスマルクは現在の自由主義内閣を「秩序を保った合法的状態を維持できる唯一の政府」と認めつつ[144][143]、「過去は葬り去られてしまった。国王自らが過去の棺に土をかけた今、過去を復古させることはもはや誰にもできまい。私はこの事を他のどの議員よりも悲しく思っている」と演説した[144][145]。しかしゲルラッハ兄弟はこのビスマルクの演説を「酷く無気力」「退却だ」と批判している[144][146]。
議員失職期
1848年5月はじめ、プロイセンでドイツ国民議会とプロイセン国民議会の選挙(普通選挙・間接選挙)が行われ、ビスマルクもその議員となることを希望していたが、当選の見込みがなく諦めた[147][148]。ビスマルクのような明確な反革命分子に投票する有権者はほとんどおらず、ビスマルクの居住地シェーンハウゼンの選挙区さえも彼を落選させた[149]。一時的に議員の地位を失ったビスマルクだったが、これは彼の政治キャリアの終了を意味する物ではなかった[150]。
1848年夏になると保守主義者が攻勢を強めるようになった[151]。ビスマルクはプロイセンの世論形成に大きな役割を果たした保守系新聞『新プロイセン新聞(Neue Preußische Zeitung)』(鉄十字章を紙面に使っていたことから『十字章新聞(Kreuzzeitung)』と呼ばれた)の発行に協力した[152][153][154][155]。第2回連邦州議会以来疎遠になっていたゲルラッハ兄弟との関係も修復し、ゲルラッハ兄弟を通じて国王やロシア大使、イギリス大使などと接触した[156]。
1848年5月18日からフランクフルトにおいてドイツ憲法制定のためのドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)が開催されたが、ロシアやイギリスなどから反革命干渉を受け、さらにオーストリアも革命弾圧後にフランクフルト国民議会の使節を処刑するなどして反革命姿勢を露骨にした[157]。こうした情勢の中で国民議会は指導力を発揮できなかった。1848年11月にフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルクがプロイセン宰相に就任するとプロイセンでも革命の弾圧が本格的に開始された[158]。ベルリンは再び軍によって占領され、プロイセン国民議会は休会させられた[159][158]。
一方で国王は自由主義者の反発を抑えるためのガス抜きで1848年12月5日に自由主義的なプロイセン欽定憲法を制定した[160]。この憲法はフランクフルト国民議会が決議したドイツ憲法ほぼそのままであった。プロイセンに上下院の議会が創設されることとなり[155]、原則として下院選挙は普通選挙と間接選挙によって行われることとなった[161][162]。
プロイセン下院議員
1849年1月22日に行われたプロイセン議会下院議員選挙の中間選挙人選挙は保守派にとって有利な結果になったとは言えなかったが[163]、ビスマルクはブランデンブルク選挙区から下院議員選挙に出馬することにした[164][165]。2月5日の中間選挙人による選挙の結果、僅差ながらビスマルクが当選した。中間選挙人たちに個人的影響力があったためである[166]。
一方ドイツ国民議会もフランクフルトにいまだ存在していたが、オーストリア皇帝が自国の領土を単一不可分な物とする欽定憲法を採択し、ドイツ民族以外の他民族を大量に抱えているオーストリア帝国の現状を変える気がない事を示したことに失望していた。ドイツ国民議会としてはプロイセンにドイツ民族の指導を期待せざるを得なかった[167]。国民議会は1849年3月27日にドイツ帝国憲法(フランクフルト憲法)を決議した。同憲法は連邦制、軍事と外交は中央政府に委ねること、世襲皇帝制、立憲主義内閣、二院制議会(下院は普通・直接・秘密選挙で選出)などを定めていた。さらにその翌日ドイツ国民議会はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝に選出した[168][169][170]。
1849年2月26日からプロイセン議会が招集された[171]。ビスマルクはドイツ国民議会が定めた憲法や帝冠に反対した[172][173]。人民主権を基礎とするドイツ帝国憲法は各邦国の君主の王権をだまし取っており、そのような憲法の下にドイツ統一すべきではなく、プロイセン人はプロイセン人に留まるべきであると述べた[174]。加えてこの憲法が普通選挙と議会の年次予算承認権を認めている点も批判した。ビスマルクによれば普通選挙は「各階級の政治的教養の低下と反比例して影響力を増大させる」ものであり、また議会の年次予算承認権は「普通選挙という博打で選ばれた多数派がいつでも国家機能を停止できてしまう」ものであるという[175][176]。帝冠に反対したのは王権は「神の恩寵」で与えられたものであり、国民や議会に与えられるものではないと考えていたためである[177][176]。
国王も人民主権を嫌って帝冠も憲法も拒否した[178]。しかしプロイセン下院においては左右両派がほぼ拮抗しており、右派の中にも中道立憲主義者がかなりいた[179]。そのため4月21日に下院はドイツ帝国憲法を合法とする決議を行った[171]。これに対抗して国王は同日中に下院を解散した[171]。この解散総選挙にあたって国王はプロイセン憲法の選挙制度の条項に重大な修正を加えた。普通選挙は廃され、納税額に応じた三等級選挙権制度(de)が導入された[180][181][182]。これにより2月のプロイセン下院選挙では53議席だった保守派の議席は7月の選挙では約三分の一を占める114議席に躍進した[182]。ビスマルクも再選を果たした[165]。しかしビスマルクはかなり不人気な候補であり、この選挙制度の下であっても僅差での当選だった[183]。
国王にとって人民主権を基礎とした「下からのドイツ統一」は論外だったが、プロイセンを中心に君主主義を基礎とした「上からのドイツ統一」には捨てがたい思いがあり、5月26日にはザクセン王、ハノーファー王とともに三王同盟(de)を結んで、小ドイツ主義(プロイセン中心のドイツ)の「ドイツ連合」と「ドイツ連合憲法」を創設することを取りきめた。しかしこの路線は既存のドイツ連邦の議長国であり、大ドイツ主義(オーストリア中心のドイツ)の「七千万人帝国」構想を推進するオーストリア帝国との対立を深めることになった[184][185][186]。ドイツ連合憲法はかなりの部分がドイツ帝国憲法に沿っていたため、自由主義右派が支持していた[187][188]。
1849年8月に召集されたプロイセン下院において国王は各議員にドイツ連合やドイツ連合憲法に対する態度を表明することを求めた[189]。正統主義・神聖同盟の立場に立つ強硬保守はオーストリアとの関係を悪化させるドイツ連合には否定的だった[188]。ビスマルクも9月6日の下院演説で自由主義者がフランクフルトでの失敗に懲りずに再びドイツ憲法によって各領邦の君主から主権を奪おうとしているとして、将来ドイツ憲法を承認する際にはプロイセン議会はそれを審理する権利を留保すべきであると主張した[190]。またフリードリヒ大王だったならばオーストリアと反革命の保守的連携を組んで革命と戦ったであろうと述べた[191][192][193]。さらに演説の最後には「我々はプロイセン人であり、プロイセン人に留まりたいと思う」と締めくくり、ドイツ連合を拒否する態度を示した[194]。
1850年3月20日から4月29日にかけて三王同盟三国によるエルフルト連合議会(de)が召集され、ビスマルクもその議員となった[195]。ここでもビスマルクはナショナリズム派と自分の相違点を強調し、連合憲法の大幅な修正を求めた[196]。
プロイセン軍が国民の憲法闘争を鎮圧した結果、各領邦は革命の不安から解放され、プロイセン中心のドイツ連合に参加せねばならない事情もなくなった。オーストリアはドイツ連邦規約に反するとしてプロイセン中心のドイツ連合の切り崩しを図り、三王同盟もやがて崩壊した[188][197]。ロシアの支持を取り付けたオーストリアの威圧を受けて1850年11月29日にプロイセンはオルミュッツ協定を結ばされ、プロイセン中心のドイツ連合建設の動きはとん挫した[198][199]。
プロイセンがオルミュッツ協定に反発しようとするならば再び国内の自由主義・民主主義・ナショナリズム運動を高揚させねばならなかった[200]。ビスマルクはこれを何より嫌ったため、1850年12月3日の下院においてプロイセンに屈辱的なオルミュッツ協定に賛成する演説を行った[201][202]。その中で「君主の助言役は敵(オーストリア・ロシア)よりも危険な同盟者(国内の自由主義者・民主主義者)から君主を守らねばならない。プロイセンがヨーロッパが追放した者の集合場所になってはならない。」とする演説を行った[203]。
外交官
連邦議会プロイセン公使
オルミュッツ協定で取りきめられた自由会議がドレスデンで開催されたが、オーストリアはドイツ連邦指導権をプロイセンに認めず、プロイセン側もオーストリア全領土をドイツへ加えることに反対した。話はまとまらず、1848年革命で停止されていたドイツ連邦議会をフランクフルトで再開することのみを決定して終わった[204][205]。
連邦議会に派遣するプロイセン全権公使にはプロイセンの利害をしっかりと主張しつつ、反革命を共通項にしてオーストリアと連携できる人物がよいと考えられた[206][207]。その中で国王は侍従武官長レオポルト・フォン・ゲルラッハの推挙でオルミュッツ協定の擁護者であり、熱狂的な君主主義者のビスマルクを連邦議会公使にすることを決めた。ビスマルクは1851年5月8日に国王に召集されてその旨を告げられ、さしあたって枢密参事官に任命された[204][208]。
この抜擢によりこれまであまり目立たない存在だったビスマルクに本格的にスポットライトがあたるようになった[209]。しかし反発も多く、王弟ヴィルヘルム王子は「在郷軍(de)少尉が連邦議会公使になるというのか」と不満の声を漏らしている[210][211]。宰相オットー・テオドール・フォン・マントイフェルは国王の信任厚き侍従武官長の意に表だって逆らおうとは思わなかったが、行政試補の公務員経歴しかないビスマルクの重要な外交官ポストへの任用に疑問を感じていた[212]。
ビスマルクは5月11日に過渡期的な全権公使だったテオドール・フォン・ロッヒョウ中将に随行してフランクフルトへ着任した[213]。7月15日にはロッヒョウから受け継いで正式に連邦議会プロイセン全権公使となった[213][209][214]。しかしオーストリアと保守的連携を取ることは難しかった。オーストリアは革命以上にプロイセンのドイツ連邦破壊の傾向を危険視していた[215]。ビスマルクは連邦議会議長を務めるオーストリア公使とドイツ艦隊の資金拠出問題、ドイツ連邦出版法制定問題、ドイツ関税同盟問題などをめぐって鋭く対立した[216][44]。特に関税同盟の問題は保護貿易を推進したいオーストリアと自由貿易を推進したいプロイセンで対立が深まり、両国がそれぞれ関税同盟を作って対抗する事態となった[217][218]。議論は白熱し、オーストリア公使ベルンハルト・フォン・レヒベルク伯爵(後のオーストリア宰相)とビスマルクの間で決闘が約束される騒ぎまで起こった(後にレヒベルクが非を認めたので行われなかったが)[219][220]。
フランクフルト時代を通じてビスマルクは神聖同盟など正統主義から離れ、プロイセン強化のためにはオーストリアと対決することも辞さない立場へ変更していった[134][221]。ビスマルクはかつてあれほど憎んだブルジョワ自由主義者の小ドイツ主義ナショナリズムや経済思想が反オーストリアやプロイセン大国化に役立つと評価するようにもなった。フランクフルトというヨーロッパ金融の一大拠点で生活するようになって自分のような土地貴族とブルジョワの間には共通する利害も多いと感じるようになったのである[222]。
クリミア戦争をめぐって
1853年7月にバルカン半島と近東に勢力を広げんとしたロシア帝国がドナウ川沿岸のオスマン帝国領、ワラキア公国、モルダヴィア公国(現在のルーマニアにあたる地域)を占領した[223]。しかしオスマンの背後には英仏がおり、この両国が1854年3月にロシアに宣戦布告してクリミア戦争がはじまった[224]。オーストリアは中立を宣言しながらルーマニアへ進軍するなど実質的に反ロシアでクリミア戦争に介入した[225]。
プロイセンでもどちらに付くべきか議論が起こり、「自由主義秘密顧問団」と呼ばれた「週報党」[# 5]が自由主義の立場から親英を主張[227][228]、一方ビスマルクの政治的同志たちは神聖同盟擁護の立場から親露を主張した[228]。しかしビスマルクは自らが政治的に孤立する危険を冒してもプロイセン宰相マントイフェルに反オーストリア的な中立を具申した[229]。ビスマルクの政治的立場からいって週報党や親英は支持できなかったが、実質的には彼らに近い立場をとった[228]。英仏の支持をプロイセンに取り付けてオーストリアの外交的地位を弱めることが最も重要と考えていたのである[228]。
しかし国王とマントイフェル宰相は事を荒立てまいと週報党の面々を官職から解雇しつつ、財政的に単独での出兵が難しくなったオーストリアの強要に応じる形で1854年4月に普墺攻守同盟を締結した[230]。ビスマルクはこの同盟を「我が国の美しく精強なフリゲート艦を虫食いだらけのオーストリアの軍船に繋ぎとめる物」として批判した[228]。オーストリアは1855年1月にもドイツ連邦議会においてドイツ連邦軍の兵力の半分をクリミア戦争に動員することを求めたが、ビスマルクはこれを巧みに拒否した[231]。
クリミア戦争がいまだ終結していない1855年8月にパリ万国博覧会に出席し、そこでフランス皇帝ナポレオン3世と面会した[232][233][234]。正統主義者のレオポルト・フォン・ゲルラッハはナポレオン3世を初代ナポレオンと同様にフランス革命の流れを汲む人物と看做して嫌っていたので、ビスマルクの訪仏を快く思わなかった[235]。ビスマルクはゲルラッハにナポレオン3世やボナパルティズムに共感など全く感じてない旨の申し開きをしている[236]。しかしビスマルクはこの1855年の時点で内心ではナポレオン3世が将来プロイセンの同盟者になりうると考えていたという[237]。
クリミア戦争はロシアの敗北に終わり、1856年2月3月のパリ講和会議の結果ロシアは弱体化して影響力を弱め、逆にフランスが影響力を増大させた。バルカン半島をめぐってオーストリアとロシアの対立は強まり神聖同盟は事実上崩壊した[238][239]。
パリ講和会議後にビスマルクは「フランスは今や自由に同盟国を選べる立場だが、ロシアと手を組む可能性が高い」「我が国とオーストリアは利害対立が多すぎて同盟関係の構築は不可能であり、対決は避けられない」「我が国がドイツ内で強化されるにはドイツ外の協力が必要であり、フランスとロシアの同盟の中に入るべきだ」という趣旨の主張を行った[240][241]。これに反発したゲルラッハとの間で1857年春から夏にかけて書簡の往復が行われた[242]。反ボナパルティズムにこだわるゲルラッハとの意見統一は見ず、二人の距離感は広がった[243][244]。
駐ロシア大使
1858年10月7日、精神疾患の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に代わって政務を執るため王弟ヴィルヘルム王子が摂政に就任した[245][246]。ヴィルヘルム王子は1848年革命の憲法闘争の鎮圧軍の指揮をとった人物で自由主義・民主主義者たちから「反動の首領」と看做されていたが、后のアウグスタの影響でその後自由主義に理解を示すようになりマントイフェル宰相の親露外交や官僚政治を批判するようになっていた[247]。ヴィルヘルムの摂政就任後マントイフェル内閣は更迭され、プロイセン王家ホーエンツォレルン家の分家であるジグマリンゲン家のカール・アントン侯を宰相、ルドルフ・フォン・アウアースヴァルト(de)を副宰相とする穏健自由主義者の貴族による内閣が誕生した(この体制は「新時代(de)」と呼ばれた)[246][248]。強硬保守の侍従武官長レオポルト・フォン・ゲルラッハもこの際に更迭された[249]。
ビスマルクもベルリンの新政権に嫌われて1859年1月29日に駐ロシア全権大使に左遷されることとなった[250][251][252][253]。同年2月末にフランクフルトを出て3月にロシア帝国首都サンクト・ペテルブルクに着任した。4月1日にロシア皇帝アレクサンドル2世に信任状を奉呈した[254]。
左遷のストレスでビスマルクはペテルブルクでよく病になった[250][255]。しかしロシアで高まる反オーストリアの機運の中、ビスマルクは自分の反オーストリア的立場がロシア皇帝やロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフなどから歓迎されていると感じた[256]。特にゴルチャコフとは親しくなり、二人は毎日のように政治談議にふけった[257]。
イタリア統一戦争をめぐって
イタリア問題をめぐってフランスとオーストリアの対立が強まる中、反ボナパルティズムとオーストリア支持を表明したゲルラッハ勢力とは一段と距離が開いた[258]。1859年4月29日にオーストリアがサルデーニャ王国へ侵攻を開始し、フランスがサルデーニャを支援した。ビスマルクはロシア外相ゴルチャコフと協力してロシアがフランス側で参戦するかもしれないという印象をベルリンに送ることで政府に反オーストリア的中立の立場をとらせることに尽力した[259]。
摂政ヴィルヘルムは自分にドイツ連邦軍の指揮権が認められる場合に限り、オーストリア側で参戦すると宣言した[260]。ビスマルクはこれに不快を感じたが、要求に応じなかったオーストリアとプロイセンの対立が深まっていったので結局ビスマルクの思惑どおりになった[261]。ビスマルクは1859年5月12日の書簡の中で「私の見る限りドイツ連邦の現状がプロイセンの欠陥であり、早急に治療できなければ我々は遅かれ早かれ鉄と火によって治療せねばならなくなるだろう」と書いている[262][263][264]。隣国を弱体化した状態に置いておくためフランスはイタリアの完全な統一は望んでおらず、また連邦軍指揮権の要求など好戦的な姿勢を強めるプロイセンの動きを警戒して1859年7月11日にオーストリアとフランスはサルデーニャに独断で休戦協定を締結した[260][265]。
イタリア統一戦争終結後の1859年9月15日にフランクフルトでドイツ国民協会(de)が組織された[266]。この組織はサルデーニャ政府に協力してイタリア統一に尽力したイタリア国民協会に触発された各ドイツ諸邦の自由主義者や民主主義者によって結成された組織であり、自由主義ナショナリズム、小ドイツ主義統一を推進した[267]。ビスマルクはどの保守政治家よりもこのドイツ国民協会に接近した[268]。彼は1860年頃には自由主義者・民主主義者の「下からのナショナリズム」をマキャヴェリズム的に小ドイツ主義統一に利用することを本格的に計画するようになった[269][270]。
宰相内定
1861年1月2日に国王が崩御し、その弟である摂政ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世として新しいプロイセン王に即位した[271][268][272]。1861年12月のプロイセン下院選挙で自由主義左派政党ドイツ進歩党(de)が109議席、自由主義右派が95議席、カトリック派が54議席、自由主義中央左派が52議席を獲得した。一方保守派はわずか15議席に落ちぶれた[273][274][275]。
最大勢力の進歩党は小ドイツ主義統一、自由主義的法治国家の樹立、立憲政治の確立、軍事費を含めた予算の公表などを求めた[273][276]。国王は警戒を強め、1862年3月に議会を解散するとともに穏健自由主義内閣を更迭したが[273][119]、ビスマルクは進歩党の小ドイツ主義統一論に着目し、これを利用すれば味方に引き入れられると考えていた[276]。
次の宰相にビスマルクが候補に挙がったが、王妃アウグスタはビスマルクを「彼は何の原則もない男です。どんなことでもやりかねず、万人の恐怖の的になっています」と評して宰相に任命することに強く反対した[277][278]。アウグスタは宮廷内自由主義者の中心人物だったが、ビスマルクを激しく憎み、ビスマルクの敵になる者ならばどのような政治傾向の者でも支援した[279]。
結局は反自由主義者の貴族院議長アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲンが宰相に任命された(実質的な内閣の指導者は蔵相アウグスト・フォン・デア・ハイト男爵(de))[280][281]。しかし1862年4月28日と5月6日の解散総選挙の結果は政府にとってさらに壊滅的だった。保守派の議席は更に減って11議席になり、閣僚も全て落選した。政府に協力的な態度をとった自由主義右派とカトリック派も大きく議席を落とした。一方で進歩党が135議席、中央左派が96議席を獲得して躍進した[282][283]。政府と議会の協調は一層難しくなった。プロイセン王権の支柱は陸軍のみとなり、陸相アルブレヒト・フォン・ローンが政府の中心となった[284]。
陸軍は議会に対するクーデタも計画していたが、ローンはクーデタに慎重であり、小ドイツ主義とプロイセン王権維持を同時に遂行できる者としてビスマルクを宰相にしたいと考えた[285]。ビスマルクは国王の召集を受けて1862年5月10日にベルリンに到着した。ヴィルヘルム1世と長時間に及ぶ会談を行い、ここでビスマルクの宰相任用が内定した[277]。しかしさしあたって下院の自由主義者たちの出方を見る必要があり、また普仏通商条約が普墺協定に違反するとしてオーストリアと外交問題になっていた時期であったので現時点での宰相交代は時期尚早として、ひとまずビスマルクは駐フランス全権大使に任命され、パリで研鑽を積むこととなった[286][287]。
駐フランス大使
フランス皇帝ナポレオン3世は新たにやってきた大使が近いうちにプロイセン宰相になる可能性が高いと知っていたので、たびたび召集して会見を行った[288]。ビスマルクはナポレオン3世との会談について国王や外相に報告書を送ったが、それを自らの意見表明に利用した。その中で彼は「フランス皇帝は小ドイツ主義、反オーストリア、親プロイセンの立場をとることに前向きである」という印象を書き送っている[289][290]。
1862年7月初めにはロンドン万国博覧会に出席するためロンドンに赴いた。英国首相のパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルと外相の初代ラッセル伯ジョン・ラッセルと会談した。この会談に関するヴィルヘルム1世への報告書で彼は「イギリスはわが国の現状をよく知らず、小ドイツ主義統一への協力も得られないだろう」という印象を送っている。旧週報党やバーデン大公など自由主義君主グループが以前から親英を主張していたのでこれを牽制する意味があったと思われる[291]。
ビスマルクの報告書を見た王妃アウグスタは「ビスマルクは連邦議会で親プロイセン国に不信感を持たせ、反プロイセン国には『ドイツの中のプロイセン』ではなく『危険な大国プロイセン』の印象だけを残した人物である」とする書簡を出して再びビスマルク批判を行った[279]。とはいえビスマルクの宰相任用は今や王権の唯一の支柱である陸軍が希望することであり、彼女にできたことはせいぜいビスマルクのベルリン召集を一度延期させたことだけだった[292]。
プロイセン宰相
宰相任命
1862年9月11日から18日のプロイセン議会は国王が推し進めようとした軍制改革[# 6]を盛り込んだ予算案を拒否する態度をとり紛糾した。一部の反政府派議員が妥協案[# 7]を提出したが、ヴィルヘルム1世はこれを王の統帥権に対する挑戦と看做して応じようとしなかった[295][296]。この国王の非妥協的な態度に議会は憤慨して妥協案は否決された。政府内でも意見が分かれて分裂し、王弟カール王子や国王副官グスタフ・フォン・アルヴェンスレーベン(de)中将、軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェル(de)中将らが議会に対するクーデタを主張し[297]、一方蔵相フォン・デア・ハイト男爵や外相アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ伯爵(de)らは議会の承認した予算無しで統治を行おうとする政府には所属できないとして辞表を提出した[298][299]。
議会と妥協する意思もクーデタの意思もなかった国王は退位を決意したが、王位継承権者の王太子フリードリヒ(後の第8代プロイセン王、第2代ドイツ皇帝)はこのような時局に王位を継ぎたがらず父王の退位を諌止した[300][301]。この混迷した事態にローンは自分には収集不可能と判断してパリのビスマルクに「遅延は危険(Periculum in mora)。急がれよ(Dépêchez-vous)」という電報を送った[294][302][299]。
1862年9月22日にビスマルクはベルリンとポツダムの間にあるバーベルスベルク離宮においてヴィルヘルム1世と会見した[303][304]。ヴィルヘルム1世は軍制改革を断行する勇気ある大臣が現れないなら退位するという意思を伝えたが、これに対してビスマルクは自分は王権を守ることに尽くす忠臣であり、また現状でも入閣する用意があり、議会の多数派に反してでも軍制改革を断行し、辞職者が出ても怯まないことを伝えた[305][306]。これを聞いたヴィルヘルム1世は「それならば貴下とともに闘う事が私の義務だ。私は退位しない。」と述べた[307][308]。
しかしてビスマルクはプロイセン王国宰相に任じられた。またベルンシュトルフ辞職後に外相を兼務した[309]。最後までビスマルクの宰相就任に反対した王妃アウグスタに対してヴィルヘルム1世は9月23日の手紙で「軍隊再編を取り消させようとする下院はもはや軍と国に破滅を命じているに等しい。こういう鉄面皮に対抗するために同じ鉄面皮を登用することを私は躊躇わないし、躊躇ってはならないのだ」と述べている[310][311]。
ビスマルクはヴィルヘルム1世に「主君であるブランデンブルク選帝侯の危機を目の当たりにした臣下と同じ気持ちです。私の成しうる限りを陛下にお捧げいたします」と述べ、「立憲大臣」としてではなく「王朝の大臣」として国王に仕える心情を示した[305][312][313]。このビスマルクの古い君主主義の心情は18歳年長の主君ヴィルヘルム1世の心情と合致し、二人の親密さは年を経るごとに強まっていくことになる[314]。国王はビスマルク以上に正統主義や国王の威厳に固執したのでビスマルクと衝突することも少なくはなかったが、ビスマルクの幾度もの辞職願いに対して「宰相は余人をもって代えがたい」と述べて慰留し続けた[315]。
ビスマルクは後年ヴィルヘルム1世について「御老体の腰をあげさせるのは難しいことだったが、一度彼から支持を得れば彼はそれを守り通した。誠実で正直で信頼のできる人物だった。」と語っている[314]。
鉄血演説
下院の反政府派議員たちは国民の支持を背景に強気を崩さなかった。国王や貴族院が受け入れないことを承知の上で9月23日の下院で1862年度予算から軍隊再編に必要な経費を全て排除することを採択した。プロイセン憲法では予算の成立は議会と国王の一致を必要としたので議会との交渉のために9月29日にビスマルクは1863年度予算を撤回せざるをえなくなった[311][316]。下院は政府との交渉を予算委員会に委ねた[317]。
9月30日に下院予算委員会に立ったビスマルクは、委員をなだめるため、軍制改革において重要なのは国内問題の観点ではなく、対外問題、すなわちドイツ問題で有利に立つためにプロイセン軍事力を増強することであることを理解させようとし、鉄血演説を行った[317]。
全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンは好きに自由主義をやっていればいい。これらの諸国にプロイセンと同じ役割を期待する者は誰もいないだろう。プロイセンはすでに何度か逃してしまったチャンスの到来に備えて力を蓄えておかねばならない。ウィーン条約後のプロイセンの国境は健全な国家運営に好都合とはいえない。現在の問題は演説や多数決-これが1848年から1849年の大きな過ちであったが-によってではなく、鉄と血によってのみ解決される[318][319]。
— 1862年9月30日プロイセン下院予算委員会での演説
あまりにも性急に戦争の意思を露わにした演説だった[320]。確かに小ドイツ主義統一はプロイセン自由主義者のテーゼであり、下院の最大勢力である進歩党は綱領でそのためには戦争も辞さない立場を表明していた[321]。しかしこの演説は反発を招いただけだった。予算委員の一人で進歩党スポークスマンであるベルリン大学病理学者ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーは「内政問題の解決のために戦争を開始するつもりか」と批判的に述べた[322][321]。後にビスマルク崇拝者となるハインリッヒ・フォン・トライチケも「私はプロイセンを愛しているが、ビスマルクごとき浅薄なユンカーが『鉄と血』でドイツを征服するなどと大言壮語しているとただ滑稽なだけだ」と評した[323]。ビスマルクの一番の同志である陸相ローンさえ「機知にとんだ無駄話」と評した[320][323]。
この演説でビスマルクは「鉄血宰相」の異名を得た[324][318]。
自由主義者との対立
下院との協議は失敗に終わり、10月13日に議会は停会した。ビスマルクはこの際に国王を通じて当面は議会の予算決議なしの歳出で政治を行うことを宣言した[325][326]。これにより1866年まで政府と自由主義者の間で憲法闘争(de)が巻き起こった[327]。
1863年1月に再び議会が招集されるとビスマルクは「憲法には国王と議会が予算で妥協できなかった場合の規定がない。しかし国家運営は一瞬たりとも停止するわけにはいかないのでその場合政府は議会から承認を受けた予算がなくても政治を行えるべき」という空隙説(de)を説いて正当化を図った[325][328][329][330]。ウィルヒョーはこれを違憲であるとする非難動議を提出し、下院はこれを圧倒的多数で可決した[325][331]。
折しもロシア帝国支配下ポーランドでは1863年1月からロシアの支配に抵抗するポーランド人の蜂起が発生しており、ヨーロッパ中の自由主義者はこれを民族自決運動と看做して共感を寄せていた。しかしビスマルクはプロイセンのポーランド支配地域への波及阻止や露仏の接近阻止という観点から国王副官アルヴェンスレーベン将軍をペテルブルクへ派遣し、2月8日に普露両国が蜂起鎮圧の追撃にあたってお互い国境越境を許し合うというアルヴェンスレーベン協定(de)を締結させた[332][333]。これによりビスマルクは国内外の自由主義者から更に激しい反発を受けた[334]。
ビスマルクは下院で自由主義議員と論争しつつ、下々の自由主義者の弾圧に乗り出した。「公務員の身分を政府の見解に反する政治運動に利用してはならない」として保守思想を持たない公務員の追放を開始した。群長一人一人の免職についてを閣議にあげる徹底ぶりだったという[335]。さらに自由主義・民主主義ジャーナリズムへの弾圧を行うべく、1863年6月1日には「新聞並びに雑誌の禁止に関する勅令」(Verordnung betreffend das Verbot von Zeitungen und Zeitschriften)を出した。しかしこの命令は憲法違反であるとして下院から承認を拒否され、王太子フリードリヒからも抗議の書簡を送られる事態となり、11月には命令が取り消されることとなった[336][337][338]。
1863年5月に下院がビスマルク内閣への協力を拒否する議決をしたのを機にビスマルクは国王に下院を解散させた。10月に行われた選挙の結果、保守派が38議席まで持ち直したものの、進歩党が143議席、中央左派が101議席を確保し、自由主義陣営の圧勝に終わった[339]。結局ビスマルクはこの後4年にわたって議会の承認した予算なしで軍制改革を強行した[328][327]。ビスマルクはそれによって生じた憲法闘争という国内の亀裂を三度の対外戦争によって修復することになる[340][341]。
ラッサールとの接触と労働者保護政策
進歩党などの自由主義議員たちは三等級選挙制度で選ばれたブルジョワであった。三等級選挙制度はもともと保守派貴族を有利にすべく制定されたが、実際には自由主義ブルジョワを利するばかりだった。プロイセンで多数を占める農業労働者は地主に強く従属していたので、むしろ普通選挙の方が保守派貴族に有利と考えられるようになった[342]。
そのため自由主義者との対立の流れの中でビスマルクは1863年から1864年にかけて全ドイツ労働者同盟(de)指導者で社会主義者のフェルディナント・ラッサールと接触した。彼は普通選挙論者であり、自由主義の革命遂行能力の欠如と夜警国家論を嫌って進歩党を攻撃していた。また彼が求める社会政策についてビスマルクは賃金労働者を親王室にする手段と考えて前向きだったので二人はすっかり意気投合した[343]。二人は会談の中で進歩党を共通の敵とすることを確認しあったと見られる[344]。
この会談は秘密裏に行われたが、会談直後から噂として広まっていた[345]。さらに1864年3月にラッサールは反逆罪に問われた法廷において「ビスマルク氏はロバート・ピールの役割を果たし普通選挙を導入するだろう」と公然と演説した[346]。進歩党にビスマルク政府と社会主義者に挟撃されるという危機感を与え、進歩党は社会主義者を「ビスマルクの公然たる雇われ人」と呼ぶようになった[345][343]。
ビスマルクの政敵である進歩党議員レオノール・ライヘンハイム(de)が所有するヴェステギアースドルフ(de)の工場で労働者の不満の声が高まると、ビスマルクはその工場で働く織り工の代表者3名が1864年5月6日に国王ヴィルヘルム1世の引見を受けられるよう手はずを整えた。織り工たちは国王に「生存が不可能なレベルにまで賃金が切り下げられている」と訴え、それに対して国王は可能な限りの法的救済を講じることを約した[347]。5月9日にはビスマルク自身も織り工たちと会見し、彼らに金を渡す代わりに労働者の仲間内で進歩党やその指導者である工場主をもっと攻撃するよう仕向けたものと思われる[348]。
ライヘンハイムは賃金値上げ要求や国王への直訴に関与した織り工ら13名を解雇した[349]。これに対してビスマルクは解雇された13名の織り工を保護し、彼らにヴェステギアースドルフ生産組合を結成させた。労働者の生産組合はラッサールがかねてから提唱していた制度であり、労働者の自由な同盟と国家の援助によって労働者階級を企業体(生産組合)にし、生産を掌握させ、労働者が賃金のみならず、営業収益ももらえるようにする制度だった[350][# 8]。ビスマルクにとってこれはいわば実験であったが、生産組合を監督していた群長と織り工たちの対立、商業的観点の無さなどにより失敗に終わった[352]。
生産組合を諦めたビスマルクはついで労働者の団結権の保護に乗り出した。1866年2月に団結権を禁じる規定の一部廃止を盛り込んだ法案を議会に出したが、下院の反発に遭い、普墺戦争の勃発による議会の審議中断で流産した。最終的にこの法案はビスマルクが議会を掌握した普墺戦争後の1869年に成立している[353]。
デンマーク戦争
北ドイツのシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国とラウエンブルク公国の三公国はデンマーク王が同君連合で統治していたが、住民の大多数がドイツ系であったためデンマーク王国からの分離独立運動が発生していた(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題)[341]。1848年革命でナショナリズムが高まる中、ドイツ連邦と三公国のドイツ人はクリスチャン・アウグスト2世をアウグステンブルク公として大公に擁立して1851年までデンマーク軍と戦ったが、英仏露三国の軍事恫喝を受けて撤退した(第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(de))[354][355]。この際にロンドン議定書が締結され、次のデンマーク王が即位したらシュレースヴィヒとホルシュタインは統一して独立国家とし、デンマーク王がその君主と決められた[355][356]。
1863年11月にデンマーク王に即位したクリスチャン9世はロンドン議定書に違反してシュレースヴィヒ公国へのデンマーク憲法の適用を強行して同国を分離・併合した[357][358][359][360]。これに対抗して三公国のドイツ人たちはアウグステンブルク公フリードリヒを大公に擁立してデンマークに対して蜂起した[359][361][362][358]。
ドイツ連邦諸邦国で自由主義ナショナリズムが高まり、蜂起を支援すべしとする声が強まった。特に中小邦国の君主たちはこの地にアウグステンブルク公統治の自由主義・反プロイセン的な独立公国を作りたがっていた[361]。プロイセンでも国王や下院がナショナリズムからアウグステンブルク公の独立公国を支持したが、ビスマルクは「自由主義者のたまり場」がプロイセン北方に誕生することを嫌がっており、独立国ではなく三公国をプロイセンに併合することを企図していた[363]。しかし国内外の反発を避けるためその意図を隠してロンドン議定書を支持しそれをデンマークに守らせるという立場をとり、ロンドン議定書の署名国でありドイツ中小邦国の自由主義化を恐れていたオーストリア宰相レヒベルク伯爵と連携した[364][365]。12月7日に普墺の主導でドイツ連邦議会はロンドン議定書を守らせるためデンマークに対して実力行使を行うと決議した[366][367]。
こうして普墺両国は1864年2月1日より第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(de)を開始した[368][359]。参謀総長モルトケの見事な作戦によりプロイセン軍は勝利をおさめた[358][369]。イギリスはシーレーン防衛の観点から親デンマークであり、デンマークもイギリス参戦を期待して強気に出ていたが[370]、ビスマルクはフランスに接近してイギリスを牽制した[368][371]。イギリスの支援が期待できないと悟ったデンマークは普墺との間に1864年8月1日に仮講和条約、10月30日にウィーン講和条約を結び、三公国に対する権利をすべて放棄した[368][372][359][373]。三公国は普墺の共同統治下に置かれることとなったが[358][374]、普墺ともにアウグステンブルク公の統治は認めなかった[368]。
国内的立場の強化
デンマーク戦はビスマルクの国内的立場の強化にも資した。自由主義者たちはアウグステンブルク公統治の自由主義的な独立公国の誕生を望んでいたので、それが実現しないことに不満もあったが、それよりも両公国をデンマークから解放するという民族の悲願を達成したことへの評価の方が大きかった[375]。自由主義右派の新聞『ナツィオナールツァイトゥング』紙は「ビスマルクはプロイセンをピエモンテ(イタリア統一の中心となったサルデーニャ王国)たらしめた」と評価した[376]。ビスマルクが成功させつつあるドイツ問題の解決を憲法闘争より優先すべきという意見がプロイセン自由主義者の間で強まった[377]。
憲法闘争を軍事クーデタで解決すべしと主張していた政府内の強硬保守派の発言力も弱まり、政府内におけるビスマルクの地位は不動のものとなった[358]。軍事内局局長マントイフェル中将はなおも議会に対するクーデタにこだわり、また親墺の立場からビスマルクの反墺政策に反対する姿勢を示していたが、彼はビスマルクとローンの策動で1865年6月にシュレースヴィヒ総督に「栄転」させられて中央から追い出された[378][379]。反ビスマルク派の王妃の腹心である宮内相フォン・シュライニッツはこうした状況を「人々は成功を収めた暴力行為の前に屈服してしまった」と苦々しげに語った[377]。
プロイセン議会は1864年1月に閉会されてから憲法闘争を激化させまいとしたビスマルクの遅滞戦術によって丸々1年召集されなかったが、この戦勝の後ならば反政府派も政府と協調するだろうと考えてビスマルクは1865年1月にふたたび議会を招集した[380]。しかし期待に反してこの段階でも議会は憲法闘争における政府の屈服を求め、再び軍事予算の減額を要求して国王の統帥権を侵犯しようとした[381]。ビスマルクが議会に提出した予算案や兵役法案は成立することなく6月に議会は閉会し、無予算統治が継続された[382][383]。この状況を打破すべくビスマルクはオーストリアを追い詰めることによって更なる小ドイツ主義統一を推し進めていく。
オーストリアとの対立
オーストリアを追い込む
1864年頃プロイセンを中心とした自由貿易主義の関税同盟がオーストリアを中心とした保護貿易主義の関税連合構想に対して勝利を収めようとしていた[384][# 9]。このこともプロイセン内外の自由主義ブルジョワジーの支持をビスマルクに引き付けるのに役立った[382]。
ビスマルクは三公国をプロイセンに引き渡すようオーストリアに財政をはじめとしてあらゆる圧力をかけた。オーストリアはこの圧力に抗い難い財政破綻状態にあったが、ドイツ連邦議長国の威信を損なわぬため、アウグステンブルク公の統治による三公国の独立を提案してドイツ連邦中小邦国や自由主義者を味方に引き入れようとした[386]。しかしプロイセンはこの提案を拒否、オーストリアに圧力をかけて1865年8月にシューレスヴィヒをプロイセン、ホルシュタインをオーストリアが統治し、ラウエンブルクに関するオーストリアの権利をプロイセンに売却するというガスタイン条約(de)を締結させた[387][388][389]。この条約によりアウグステンブルク公の統治が最終的に否定され、オーストリアは自由主義者や中小邦国から「裏切り者」と看做されて威信を大きく損なった[390][391]。
1866年1月23日にオーストリア政府の許可の下、アルトナでアウグステンブルク公派の集会が行われた[392][382]。ビスマルクはこれをガスタイン条約違反として追及し、ホルシュタイン公国の引き渡しを求めたが、オーストリアはこれを拒否した[382]。
2月28日プロイセン国王の御前会議(クローンラート)はオーストリアとの開戦やむなしとの結論を出した[390][393][382]。ヴィルヘルム1世はビスマルクに吹き込まれ「プロイセンが両公国民から好感を得るのを妨害するのがオーストリアの狙いだ」と主張した[394]。ビスマルクはこの席上で「プロイセンこそが旧ドイツ帝国の廃墟の中から生まれ出た唯一の生存能力を持った政治的創造物である。プロイセンがドイツの頂点に立つ権利を有しているのはそのためである。しかるにオーストリアはプロイセンに嫉妬し、プロイセンの努力を昔から妨害してきた。指導能力などないくせにドイツ指導権をプロイセンに渡すまいとしてきた」「ドイツ連邦はフランスからドイツ国土を防衛するために結成されたにすぎない存在だった。真に民族的な意味を持ったことなど一度もなかった。連邦をそうした方向へ向かわせようとするプロイセンの試みは全てオーストリアによって潰されてきた。1848年はプロイセンにとってチャンスの年であった。もし当時プロイセンが演説ではなく剣でもって運動を指導していたならば恐らくはもっと良い結果が達成できていただろう」と語り、改めてナショナリズム運動と手を組んでオーストリアを打倒する意思を示した[395]。
財政的困窮と保守大国との戦争によって自らの君主政体にも危険が及ぶという懸念からプロイセンとの開戦をためらっていたオーストリアも1866年4月末には開戦を決定した[396]。
外交工作
オーストリアは軍事に関しても緊縮財政を取らざるを得ないほどの財政困窮状態にあったが、それでもオーストリアは依然として中欧の大国であり、少なくともプロイセンと同レベルの軍事力を保持していると考えられていた[400]。そのためビスマルクは外交工作に尽力した。
イタリア統一戦争以来オーストリアと対立しているイタリア王国をヴェネト州の領有権を認めることを条件に味方に引き入れ、1866年4月8日の普伊秘密協定でイタリア参戦の約束を取りつけた[401][402][403][404]。
ビスマルクはドイツ中の自由主義・民主主義・ナショナリズムの支持を得るべく、1866年4月9日にドイツ連邦議会に対して普通・直接・平等選挙によるドイツ国民議会を創設することを提案した[405][406]。ドイツ連邦を根本から改革する提案に等しく、オーストリアがこれに反対するのは分かりきっていたので、それによって「民族に背を向けるオーストリア」「民族のために戦うプロイセン」を自由主義者に印象付けようとした[407][408]。
ロシアはバルカン半島においてオーストリアと対立関係があるため、どのみちプロイセン寄りの態度を取るのは明らかだったが、フランスは一筋縄ではいかなかった。フランスの希望は「敗者のための仲裁人」となり、その見返りにライン川西岸をもらい受けることであった。ビスマルクとしてはフランスと対立したくなかったが、ドイツ領土割譲を許してドイツ・ナショナリズムと対立するわけにもいかなかった[409]。1865年10月にビスマルクはビアリッツでナポレオン3世と会見し、ビアリッツの密約を結んだ。これは普墺戦争中フランスは中立を守り、またプロイセン勝利の場合にはフランスはマイン川以北の小ドイツ主義統一を認めるが、マイン川以南は独立国として存続させることを約定し、またライン川左岸のフランスへの割譲を認めるかのような内容だった[410][411]。ビスマルクに割譲の意思はなかったが、ナポレオン3世には漠然とそのような希望を抱かせておくことにしたのである[409][411][# 10]。
1866年5月7日にビスマルクは革命家カール・ブリント(de)の養子でテューリンゲン大学学生フェルディナント・コーエン=ブリント(de)に狙撃される暗殺未遂を受けた[413]。逮捕されたコーエン=ブリントは警察の取り調べ中に自殺したため、犯行の動機は不明だった[399]。プロイセンと敵対する南ドイツの新聞は暗殺未遂犯を好意的に報道した[414][399]。ビスマルクはこの暗殺未遂事件をもロシアの取り込みに利用し、自分は革命勢力から命を狙われるほどの熱心な君主主義者であることをロシア皇帝の耳に入るようにするよう駐ロシア大使ハインリヒ・フォン・レーデルン伯爵に命じている[415]。
普墺戦争
オーストリアの敗北
1866年6月1日にオーストリアがガスタイン条約を破棄してシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題の裁決を連邦議会に委ねたことで普墺両国は最終的に決裂した[416][390]。6月9日にプロイセン軍がオーストリア統治下のホルシュタインへ進駐した[390][417][418]。これに対抗してオーストリアは6月11日の連邦議会でプロイセン軍を除外したドイツ連邦軍を動員することを提案した。6月14日の採決でバイエルンの折衷案(オーストリアとプロイセンをともに除外したドイツ連邦軍の動員)が中小邦国の支持を集めて決議された[419][418]。オーストリアには「侵略国プロイセン」と同列に扱われていることに不満もあったが、これ以上の動員案を決議させるのは難しそうだったのでオーストリアもこの折衷案を支持した[420]。一方連邦議会プロイセン公使はビスマルクの事前の指示通り、「この動議は宣戦布告に等しく、連邦規約違反である。したがってプロイセンは連邦条約はすでに効力が消滅しており、拘束力も失われているものと解する。プロイセンは自らが提案した改革に基づき、プロイセンに協力する意志のある他のドイツ諸邦とともに新しい連邦を立ち上げる用意がある」と宣言して連邦議会を去った[421]。
ビスマルクはドイツ諸邦を一国でも多くプロイセン陣営ないし中立の立場にすべく小ドイツ主義支持を求める外交工作を行っていたが、失敗した。バイエルン、ヴュルテンベルク、ザクセン、ハノーファーなど中邦国の多くは連邦議会議長国オーストリアに付き、プロイセン側についたのは北ドイツや中部ドイツの小邦国のみだった[413]。
6月15日にプロイセン軍がザクセン・ハノーファー・ヘッセン選帝侯国に侵攻を開始し[422]、16日に連邦議会がプロイセンに対する制裁を決議[390]、18日にオーストリアがプロイセンに宣戦布告して普墺戦争がはじまった[423]。緒戦はプロイセン軍に不利な情勢だったが、その後はモルトケの作戦が次々と的中し、7月3日のケーニヒグレーツの戦い(de)においてプロイセン軍がオーストリア軍とザクセン軍の連合軍に対して決定的な勝利を収めた[424][425]。ビスマルクはこの戦場に居合わせ、国王の侍従武官から「閣下、閣下は今や偉大な人物になられました。もし王太子殿下の軍の到着が遅すぎたら、閣下は最大の悪人になるところでした」という戦勝報告を受けた[426]。自由主義者である王太子フリードリヒはこの戦争に反対していたが、一たび開戦した後は軍司令官の役割をしっかり果たした。ビスマルクも戦勝後に真っ先に王太子と会見して彼を称えた。二人は生涯を通じて仲が悪かったが、この戦争中には稀に見る友好的な雰囲気だった[427]。
強硬派の中にはウィーン進軍を主張する者もあったが、占領地域の拡大によりプロイセン軍ははやくも補給不足に陥っており、モルトケと陸軍大臣ローンは早期に休戦協定に入る事を進言した[428]。
休戦協定:「調停者」との協議
オーストリアから打診を受けたのを機に7月5日からフランス皇帝ナポレオン3世が「調停者」になると申し出ていたので、ビスマルクは休戦協定にあたって彼と協議せねばならなかった[429][430]。ナポレオン3世としてはプロイセンの一方的勝利を避け、出来る限りドイツを分裂状態のままにしておきたかった[430]。そのためビアリッツ密約ではマイン川以北の小ドイツ主義統一を認めるとしていたが、ザクセン王国は例外として併合せず存続させるよう要求した[431]。フランスはライン川左岸の割譲も要求したが、これについてはビスマルクも拒否した。ドイツ国土の割譲を要求するつもりならばドイツ・ナショナリズムが高まるので、全ドイツで結束して前線の軍をすべてフランスとの戦いに回すと脅しつけた[432][433]。ビスマルクはフランス軍もメキシコ出兵で疲労しているので攻めてくる余裕はないことを看破していた[434]。実際にライン川岸にフランス軍は配置されていなかった。フランス外相ドルーアン・ド・リュイスは監視部隊だけでもライン川岸に配置すべきという提案をナポレオン3世に行っていたが、反オーストリア派の皇太子ナポレオン4世や国務大臣ルエールが武力による威嚇は止めるべきと提言したため中止されたのだった[435]。
ロシア外相ゴルチャコフもドイツ統一を妨げようと介入を図ってきたが、こちらはビスマルクがハンガリーに革命政権を作る(ビスマルクは戦争中オーストリア支配下のハンガリーの独立運動家と接触して支援していた)と脅迫することで阻止できた(ロシアは隣国に革命政権を作られて自国の農奴解放運動と結び付く事を恐れた)[436]。フランスも自国以外の介入は望んでいなかったのでロシアの介入阻止を図った[431]。
休戦協定:国王との協議
主君である国王ヴィルヘルム1世の説得にも苦労した。国王はオーストリア帝国とザクセン王国(最も強力にオーストリアを支持した)がこの戦争の主犯と考え、この二国の領土を削減したがっていた[437][438]。一方ビスマルクはフランスやオーストリアからの要請に従ってこの二国の領土には手出しすべきではないと主張した[439]。代わりにフランスが小ドイツ主義統一を行うことを許可していた北ドイツ敵国(ザクセン以外)に対して過酷な処置を行うべきであると主張し、ハノーファー王家やヘッセン選帝侯家などの君主家を廃絶しプロイセンに併合すべきと主張した[439]。しかし国王は正統主義の立場から君主家の廃絶を嫌がり[440][441][429]、またオーストリアやザクセンのような「主犯格」が「無罪放免」にされてハノーファー王国やヘッセン選帝侯国(de)だけが併合されることに納得しなかった[429]。これに対してビスマルクはオーストリアが納得できる条件でなければ第三国の介入なしには戦争を終結させられなくなると反論した[429]。この論争は王太子がビスマルクを支持する介入をしたことで7月25日になってようやく国王が折れて終結した[442][443][444][445]。
休戦協定締結
オーストリア側もオーストリアとザクセンの領土保全のみを条件としたのでプロイセンの休戦協定案を呑んだ[428]。7月26日にニコルスブルク仮条約が締結され、さらに8月23日にはプラハ本条約が締結された[425][446]。賠償金はわずかで領土割譲もない歴史上稀に見る寛大な休戦協定となった[447]。ただしこの条約によりオーストリアが議長国を務める既存のドイツ連邦は解体され、オーストリアは今後ドイツ統一に不干渉の立場をとることが決められた[448]。
ドイツから追放されたオーストリアはこの後東方帝国の性格を強め、ハンガリー民族運動との妥協が図られ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国と改名することとなった[449]。
南ドイツ諸邦国にも賠償金や領土割譲はなく、代わりにプロイセンと攻守同盟を結ぶことのみ要求された。南ドイツ諸邦国は胸を撫で下ろして要求に応じた[450]。
議会掌握
普墺戦争によってビスマルクのプロイセン国内における地位も大幅に強化された。ビスマルクの1866年の国家運営は自他ともに「上からの革命」と評された[451]。
ビスマルクは戦争中に総選挙を行えば有利な国内状況を作れると踏んで1866年5月9日にプロイセン議会を解散させていたが[413]、ケーニヒグレーツの戦いがあった日に行われた下院総選挙で進歩党など反政府派は議席を落とし、政府支持を訴える保守派が大躍進した[425][452][453][454]。政府支持派は中道諸派を合わせると過半数の議席を獲得した[455]。保守派の中でも正統主義に固執する強硬保守勢力は勢力を弱め、ビスマルクを支持する自由保守党(de)が最有力勢力となった[425]。この選挙結果を受けてビスマルクは1862年以来の無予算統治に事後承認を与える事後承認法(免責法とも訳される)(de)を議会に議決させ、憲法闘争を終結させた[425][456][457][454][458]。この事後承認法に賛成するか否かをめぐって進歩党は分裂し、賛成する議員たちは進歩党を出て国民自由党を結党した[425]。自由保守党と国民自由党は北ドイツ連邦国会でも多数派を占め、ビスマルクにとって重要な与党勢力となった[459]。
普墺戦争以降プロイセン自由主義者の主流派はビスマルク政府を支持して政治より経済の自由を追求する勢力になっていく[460]。
北ドイツ連邦樹立
1866年8月18日にプロイセンと北ドイツ諸邦の間で結ばれた協定によりプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦が創設された[461]。フランスの要求通り、マイン川以南のバイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国の3国、およびヘッセン大公国のオーバーヘッセン州以外の地域は北ドイツ連邦に参加しないこととなった[461]。前述したようにこれらの国々とは個別に秘密攻守条約を結び、有事の際にはプロイセン王の指揮下に軍隊を提供することを約定させた[462][449]。南ドイツは引き続き反プロイセン的な論調が支配的だったが、フランスに対する危機感はプロイセンと共有していたのである[463]。
解体されたドイツ連邦が独立国家の連合に過ぎなかったのに対して、北ドイツ連邦は盟主であるプロイセンの権力が圧倒的に強く連邦国家に近い物であった[464]。プロイセン国王が兼務する連邦主席(Bundespräsidium)がトップだが、連邦主席の国事行為には連邦主席に任じられた連邦宰相の副署が必要とされていたため[464]、連邦宰相となったビスマルクに強大な権限が与えられる政治体制であった[465]。立法府として帝国議会(Reichstag)と連邦参議院(Bundesrat)が置かれた。帝国議会は全ドイツ国民から普通選挙で選出された議員から構成され、その選挙方法は当時最も民主的だったと言えるが、帝国議会の力自体は極めて弱かった。議会に対して責任を負う内閣が存在せず、また議会は予算審議権も持っていなかったからである[466]。多くの立法が委任されはするが、加盟邦国の代表から成る連邦参議院の賛成がなければ法律は通らなかった[466]。
ビスマルクの次なる課題はプロイセン一国覇権の下に南ドイツ諸邦国を北ドイツ連邦と統一することであったが、それには南ドイツの反プロイセン感情とフランスのドイツ分断政策への対処が必要であった[467]。南ドイツの反プロイセン感情は彼らの主流の宗教たるカトリック(プロイセンはプロテスタントが主流)とプロイセンの権威主義的・官憲絶対的な体質に対する民主主義者の反発に根ざしていた[468]。1868年2月から3月に行われたドイツ関税議会選挙において南ドイツ諸邦国では独立派が圧勝し、小ドイツ主義統一を拒否する国民世論がはっきり示された[468]。ビスマルクとしてはこの南ドイツの空気を変えるためにフランスとの対立を煽ってドイツ・ナショナリズムを高める必要があった[468]。
フランスとの対立
ルクセンブルク問題
メキシコ出兵に失敗してフランス国内で批判を集めていたナポレオン3世は名誉挽回の領土拡張政策としてルクセンブルク大公国を同国の同君連合の君主オランダ国王ウィレム3世から買収することを考えた[469][470]。ルクセンブルクはウィーン会議によりオランダ国王の所有地となっていたが、オランダと国法上のつながりはなく、旧ドイツ連邦やドイツ関税同盟に加盟しており、その沿革でプロイセン軍が駐屯していた[471][472][473]。
ウィレム3世はナポレオン3世の提案に乗り気だったが、ドイツ・ナショナリズムの強い反発を招いた[469][474]。ビスマルクは南ドイツと北ドイツ連邦の関係改善のチャンスとみて駐ベルリン・フランス大使ヴァンサン・ベネデッティ(fr)との交渉に曖昧な態度を取ってこの問題を長引かせようとした[475]。南ドイツ諸邦との秘密攻守同盟の存在を公表し[476]、さらに直接にはフランス批判をせずに国民自由党党首ルドルフ・フォン・ベニヒゼン(de)に北ドイツ連邦議会においてフランス批判演説を行わせ[477][478][479]、この演説を大々的に報道させることでドイツ諸邦国で反フランス機運を高めさせた[480][481]。
結局ルクセンブルク問題は列強が介入し、1867年5月7日から11日にかけてロンドン会議(en)が開催された結果、ルクセンブルクは永世中立国となり、プロイセン軍は同国から撤収することで決着した[482][483]。しかしこの問題で普仏関係は険悪となり、特にフランス国内には対プロイセン主戦派が形成されるようになった[484]。
スペイン王位継承問題
1868年9月にスペイン女王イザベル2世がフアン・プリム将軍らスペイン軍部のクーデタによりパリへ追われた[485][486][487]。プリム将軍は共和政より立憲君主制を志向し、1869年春頃にホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール・アントン侯(「新時代」期のプロイセン宰相)の息子レオポルトが新スペイン王候補として浮上した[487][488][489][490]。
ヴィルヘルム1世はフランスとの対立を恐れて乗り気でなかったが、フランスと対立したいビスマルクは乗り気であり[491]、名門王家が継いできたスペイン王冠を継げば(王家としては比較的歴史の浅い)ホーエンツォレルン家の名声が高まること、またスペインに共和政体を置く危険性を説いて国王の説得にあたった[492]。1870年6月半ばにレオポルトもヴィルヘルム1世もレオポルトがスペイン王位継承候補者となることを承諾した[493]。
ビスマルクとプリムの当初の計画ではフランスには既成事実だけ突き付けるためレオポルトの立候補から議会での国王選出までの期間を出来る限り短くする予定だったが、スペイン側の手違いでこの期間が長くなり、7月2日にはフランスの知るところとなった[494][495]。対プロイセン強硬派のフランス外相アジェノール・ド・グラモン(fr)伯爵はフランス下院でいかなる手段を持ってもこれを阻止することを宣言した[496]。フランスの強硬姿勢を危惧したヴィルヘルム1世はビスマルクに独断でカール・アントン侯に「息子はスペイン王位継承を断念した」旨を発表させた[497][498]。しかしフランス国内、特に右派政治家とジャーナリズムはそれだけでは収まらなかった[499]。
グラモン伯爵の命を受けたベネデッティ大使が7月13日にバート・エムスへ派遣され、同地に滞在中だったヴィルヘルム1世からフランス国民に対する弁明とホーエンツォレルン家からスペイン王を出さない旨の確約を得ようとしたが、これについてはヴィルヘルム1世も拒否した。現時点の情報でベネデッティ個人に話す事はないとしてこれ以上の謁見を拒否した。そしてこの経緯を電報でビスマルクに伝え、公表を許した[500][501]。ビスマルクはフランス大使の要求をそのまま掲載しつつ「それに対して陛下はフランス大使に謁見されることを拒否され、これ以上話すことはないと通達された」と改竄して発表した。「話すことはない」の説明を省く事で「交渉の余地はない」という意味かのようにすり替えたのである[501][502]。ビスマルクの発表した電報をみたヴィルヘルム1世は「これでは戦争になるぞ」と叫んだという[502]。さらにビスマルクはフランスにいかなる平和的な逃げ道も与えぬようドイツ諸邦だけではなく諸外国にも電報をばらまいた。フランスがこの電報を入手したのもスイスのベルンを通じてだった[503]。
このエムス電報事件によりナポレオン3世は自らの国内的地位を守るためプロイセンに宣戦布告しないわけにはいかなくなった[504][505]。またこの電報でフランスの横暴な要求を知ったドイツ諸邦は南北問わずフランスに対する反感を爆発させ、プロイセンを支持する世論で埋め尽くされた[506][507]。
普仏戦争
フランス政府は7月14日に動員を決定し、7月19日にプロイセンに宣戦布告した[504][506]。プロイセン側も7月15日に御前会議で動員を決定[508]。南ドイツ諸邦国も一部の反プロイセン分邦主義者の反対に遭いながらも全体としては反仏で固まり、プロイセンとの攻守同盟に基づいて動員準備に入り、軍をプロイセン軍の指揮下に送った[509][510]。
国際情勢はドイツに有利に傾いていた[511]。エムス電報を読んだ国際世論はフランスの横暴な要求と宣戦布告がこの戦争の原因と分析した[512][513]。ロシアはドイツ側に好意的な中立をとり、特にオーストリアが動かないよう牽制してくれた[514]。フランスが敗れればロシアはクリミア戦争の敗戦で結ばされた講和条約の黒海での艦隊保有禁止条項を撤廃できるからである[511]。イギリスも植民地競争の相手であるフランスの弱体化を望んでおり、ナポレオン3世のために干渉する気はなかった[511]。フランスは比較的親仏のイタリアとオーストリアの二国と同盟関係を結ぼうと図ったが、オーストリアもドイツ語圏なのでフランスに怒りを感じる者も多く、またロシアに牽制されていた事もあって結局動かなかった。またフランスはローマ教皇庁と手を切ろうとしなかったため、イタリア統一をめぐって教皇領と対立していたイタリアの協力も得られなかった[511]。
戦闘は緒戦からドイツ軍優位に進み、9月1日から2日にかけてセダン郊外でフランス皇帝ナポレオン3世率いるフランス軍を下し、ナポレオン3世を捕虜にした(セダンの戦い)[510]。9月2日朝にビスマルクは失意のナポレオン3世と会談したが、皇太子ナポレオン4世の身を案じている様子だったのでビスマルクは「なるべく早くご家族に会えるよう取り計らいます」と応じたという[515]。
ナポレオン3世が捕虜になったことでパリでは第二帝政が崩壊してルイ・ジュール・トロシュ(fr)の臨時政府が誕生し、プロイセンに和平交渉を要求した。しかしビスマルクの反応は冷ややかであり妻ヨハンナへの手紙の中で「パリに共和政ができた。くだらないことだ。我々はそこへ向かって進軍する」と書いている[516]。ドイツ国内ではナショナリズムが高揚しきっており、この声にこたえるためビスマルクはアルザス=ロレーヌ地方のドイツへの割譲を要求し、フランス政府がそれを拒んだ結果セダンの戦いの後も戦闘は継続された[517][518]。1871年1月28日に開城されるまでドイツ軍はパリ包囲を続けた[519]。
ビスマルクは普仏戦争中ヴィルヘルム1世に随伴して戦地にあったが、彼の軍事介入は国王や将軍たちから疎まれた。国王は軍事は自分の管轄と考えていたし、モルトケ以下将軍たちも政治家の軍事への干渉を嫌った[520]。しかもビスマルクは軍人たちよりも苛烈な意見の持ち主だった[521]。たとえばパリ包囲でモルトケは兵糧攻めを主張したが、中立国の介入を恐れるビスマルクは早期終結のためとしてパリ砲撃を主張し、陸相ローンの支持を得てモルトケに譲歩させてパリ砲撃を強行した[522]。また気球でパリから脱出したフランス内相レオン・ガンベッタが南フランスで組織したゲリラ部隊[523]に対してビスマルクは容赦ない取り扱いを主張し、「ゲリラ兵をただちに銃殺している」バイエルン軍を褒め称えた[524]。またフランス植民地アルジェリアの兵を「撃ち殺さねばならない害獣」と評した[524]。占領地の民間人にも冷酷であり、「戦争の苦しみが和平を促す」「恐怖を与えて屈服させる」と称して住民に「耐えがたい重圧」を与えることを主張した[524]。
1871年1月にフランスにアドルフ・ティエール首相の政府が誕生した。ティエール政府はアルザス=ロレーヌ地域の割譲と50億フランの賠償金支払いの条件を受諾して2月26日にヴェルサイユで仮講和条約、5月10日にフランクフルトで平和条約を締結した。これに反発したパリ市民がパリ・コミューン政府を樹立して抵抗するもドイツ軍とティエール政府によって鎮圧された[525]。
ドイツ統一
1870年10月から11月にかけてヴェルサイユにおいて南ドイツ4邦国と交渉を行い、11月に全ドイツ連邦創設のための条約の締結にこぎつけた[526][527]。ついで新たな国名は「連邦」ではなく「ドイツ帝国(Deutsches Reich)」、またその盟主は「連邦主席(Bundespräsidium)」ではなく「ドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)」とすることが決まった[526][528]。
出征軍統領選出制度[# 11]などの先例に倣って敵地のヴェルサイユにおいてプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位することとなったが、南ドイツ諸邦国、特にバイエルン王国にはドイツ帝国に加盟してもらう代償として他の邦国には認められていない厚い自治権を保証せねばならなかった[530]。また正統主義に固執するヴィルヘルム1世に配慮してバイエルン王ルートヴィヒ2世を推戴者にしたが、そのためのビスマルクとバイエルン主馬頭マクシミリアン・カール・テオドール・フォン・ホルンシュタイン(de)伯爵の交渉においてプロイセンはバイエルンに巨額の資金を支出せざるを得なかった[531][532][533]。ビスマルクは1870年12月12日の妻への手紙の中で「諸侯がそれぞれ勝手に動き、私を苦しめる。私の国王さえも細かい問題を持ち出して私を苦しめる」と愚痴をこぼしている[534]。
1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿鏡の間においてヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が挙行された[535]。ビスマルクは純白の将官制服で出席し[536]、「(ヴィルヘルム1世は)連合したドイツ諸侯と自由都市の要請によってドイツの帝位につく」と宣言した[537]。
1871年4月16日にドイツ帝国憲法が発布されて新帝国の体制が最終的に定まった[538]。同憲法は北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦国の連合の形式をとる北ドイツ連邦憲法の延長であった[539]。
ドイツ帝国宰相
自由主義改革
1871年から1877年頃にかけてビスマルクは自由主義勢力と共同して様々な改革をおこなった[540]。ルドルフ・フォン・デルブリュック(de)を帝国宰相府長官に任じ、帝国議会多数派の指導者ルートヴィヒ・バンベルガー(de)との協力の上で自由主義改革の陣頭指揮をとらせた[541][542]。
貨幣の統一、様々な関税の引き下げ、中央銀行の創設、法律と裁判制度の統一化、郡条例(Kreisordnung)制定によるユンカーの領主裁判権・警察権の廃止、州条例(provinzialordnung)改正による地方自治の一定の実現など多くの自由主義化・民主主義化・近代化がこの時期に推し進められた[543][540][542]。後述する文化闘争もこの流れの一つであった[540]。
しかしビスマルクのこうした行動は1866年以来彼を支持していたプロイセン保守主義者たちの不満を招いた。特に郡条例に反対するプロイセン貴族院を押し切るために同法案に賛成する新議員を増やす「貴族院議員製造措置」をとった1872年にそれは最高潮に達した[544]。この強引な措置は陸相ローンさえも反対している[545][546]。
そのような時期の1872年12月20日にビスマルクは突然プロイセン宰相職をローンに譲るという行動に出て世間を騒がせた[547]。これは軍務経験しかない高齢者で宰相の職務に堪えないであろうローンをわざとプロイセン宰相に就任させることで自分が欠けたらいかに政治的空白が生じるかを示し、不服従な保守派や閣僚の支持を取り戻す意図だったと考えられている[547][546]。結局ローンは、鉄道協会設立の経費をめぐる疑惑を追及されて1873年11月に全ての役職を辞し[548]。、ビスマルクがプロイセン首相に復した[549]。
文化闘争
1871年3月30日に行われた初めての帝国議会選挙でカトリック政党の中央党が投票総数の5分の1の得票を得て国民自由党に次ぐ第二党になった[550]。カトリックは南ドイツに多いので反プロイセン分邦主義と結びつくことが多く、またカトリックの多いオーストリアやフランスと結び付く恐れもあり、ドイツ統一にとって脅威であった[551][552]。カトリックの長たるローマ教皇ピウス9世はイタリアとドイツの統一を「自由主義的」と見て嫌悪していたし[553]、また自由主義勢力の側もピウス9世の誤謬表や教皇不可謬説といった反近代的な宗教思想を嫌悪していた[554]。ビスマルクとしてはカトリックを弾圧すればいまだ彼を不信の目で見ている市民的自由主義運動の支持の獲得が期待できた[555]。
かくしてビスマルクは1871年からカトリック抑圧政策「文化闘争」を行った[556]。「文化闘争」という名称は、1873年に自由主義左派のプロイセン下院議員ウィルヒョーが「(ドイツ国民を反近代へ後退させようとするカトリック教会から)文化を守るための闘争」と定義したことに因む[556]。まず1871年6月に政府内でカトリックの代弁していた文部省カトリック局を解散させ[553][557][558]、つづいて11月には帝国法で刑法に「教壇条項」を追加し、聖職者が教壇から煽って公共の安寧を脅かす行為を禁止した[553][559]。1872年1月23日には反カトリックの自由主義右派のアダルベルト・ファルク(de)を文相に任命し、カトリックの教育への介入を排除した学校教育法を制定させた[553][560][561][562]。
1871年秋には新しい駐バチカン公使としてピウス9世の誤謬表と教皇不可謬説に反対する枢機卿グスタフ・アドルフ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストを任じ、ピウス9世を公然と挑発した[563][564]。1872年5月に教皇庁がこの人事を拒んだことに対して帝国議会の国民自由党議員たちがカトリック批判の声をあげる中、ビスマルクはこれに応える形で「今や中央党は国家に焦点を合わせた砲弾である。中央党の背後にいる教皇も糾弾せねばならない。我々はカノッサへは行かない。身体的な意味でも精神的な意味でもだ。」と演説しカトリックに対する自由主義者の憎悪を煽った[565][566][567]。
1872年7月にカトリックの中でも強力に布教を行うイエズス会を帝国法によって禁止処分にした[568][569][570][571]。さらに1873年から1875年にかけて毎年5月にカトリック抑圧のプロイセン法を制定していき(これらは「5月法(de)」と呼ばれた)[569][572]、これによってカトリック聖職者の育成・任命にプロイセン政府が介入できるようにし[570][573]、聖職者の居住地制限や国外追放も行えるようにし[570]、教会の懲戒裁判を禁止した[571][569]。また聖職者になるには国立大学で3年学ぶことを義務化[570][569]。病人看護以外の目的の修道院をすべて閉鎖させ[573][570]、カトリック教会への国家補助金も打ち切った[570][571]。そして教会から結婚に関する権限を取り上げてプロイセンに民事婚制度を創出した(これにはカトリックのみならずプロテスタントも反発し、ビスマルクはヴィルヘルム1世の同意を取りつけるのに苦労した)[574][569]。
こうした5月法に激怒した教皇ピウス9世はその無効を宣言してドイツ・カトリック教徒に対して入獄や殉教を恐れずにドイツ帝国政府に戦いを挑むことを求めた[575]。1874年7月13日にビスマルクはキッシンゲン(de)においてカトリックの桶屋職人エドゥアルト・クルマン(de)から暗殺未遂を受けたが、この暗殺未遂犯を中央党に結び付けて批判を行った[576][577]。
1870年代半ばから政府と自由主義勢力の協調関係が終焉し中央党の協力が必要になってきたこと、また中央党より危険な社会主義勢力が台頭したことなどによりビスマルクはカトリック教会との和解を考えるようになるが、対独強硬派の教皇ピウス9世の在位中には不可能だった[578]。1878年2月9日にピウス9世が崩御し、ドイツと対話の意思があるレオ13世が新教皇に即位[579][580]。レオ13世は5月法の撤廃と文相ファルクの辞任のみ要求したため[581]、ビスマルクはこれに応じて1879年7月にファルクを辞職させ、ついで1880年から1887年にかけて順次5月法の撤廃を行い、文化闘争を終焉させた[582]。文化闘争の諸政策で維持されたのはイエズス会禁止、学校教育法の大部分、民事婚制度、教壇条項などのみであった[583]。
ビスマルクは聖職者の人事に国家が介入するのは誤った政策だったと語り、文化闘争の責任は自由主義者にあるとした。さらに「中央党はその分立主義によって帝国の行きすぎた中央集権主義に歯止めをかけてくれている」と評価さえするようになった[584]。
保守主義へ転換
1875年以降ビスマルク政府と自由主義勢力の協力関係は終焉を迎えた[585]。国民自由党はエドゥアルト・ラスカー(de)をはじめとして反ビスマルク派の自由主義左派を内在していたので常にビスマルクの与党になるわけではなく、彼の政策を阻害することも多かった[586][587]。皇帝も政府の自由主義への傾斜に不安を感じていた[588]。また自由主義勢力は1873年以降の不況の中で自由貿易維持か保護貿易に転じるかで分裂し始めていた[589][590]。そのためビスマルクは文化闘争を収束させて中央党と妥協する必要に迫られたのだが、その中央党も無条件でビスマルクを支持するわけではなかった[591]。結局国民自由党の分裂を促進してその多数派を政府派に引きこむのが良策と考えられた[592]。
ビスマルクは1875年終わり頃から保護貿易路線へ舵を切る事をほのめかし始めた[593]。1876年4月末には自由貿易を主張する帝国宰相府長官デルブリュックが辞職[594][595]。さらに同年7月には保護貿易を求める保守党の結成に携わった[596][597]。保護関税推進の超党派の帝国議会議員連盟「国民経済連合」が創設されて多数の議員が参加したのを好機として1879年2月に保護関税法案を帝国議会に提出して可決させた[598][599]。
これによって国民自由党は分裂し自由貿易を奉じてビスマルクとの連携を拒否した左派議員たちはドイツ進歩党と合流してドイツ自由思想家党を結成した[600]。1881年と1884年の帝国議会選挙ではこのドイツ自由思想家党が議席を大きく伸ばし、84年の選挙では国民自由党を追い抜いた[600]。社会主義労働者党も議席を伸ばし、ビスマルクにとって危機的な議会状況が発生した[601]。
これに対抗してビスマルクは当時不穏になっていた国際情勢を利用してポーランド系住民蜂起の可能性やフランス対独報復主義の危険性など対外脅威論を強調するようになり、それ以外の「取るに足らない」法律論議をしようとする者、軍や政府の要求を受け入れない者はすべて「帝国の敵」「非愛国」であるというレッテル貼りを強化し、自由主義左派勢力や社会主義勢力を追い詰めた[602][603]。また保守党、自由保守党(帝国党)、国民自由党の三党に選挙制度を利用した「カルテル」と呼ばれる選挙操作協定を作らせた。その結果、軍拡を争点に行った1887年の帝国議会選挙では自由思想家党や社会主義労働者党が惨敗する中、カルテル3党が絶対多数を確保するに至った[604][605]。
ポーランド住民蜂起を煽った結果、1885年冬にビスマルクはプロイセン宰相としてロシア国籍、オーストリア国籍のポーランド人をプロイセン領から追放する決定を下した。これによりおよそ3万人が追放処分を受けた[606]。ロシアについてビスマルクは単純にロシアもポーランド人蜂起に悩まされているので歓迎すると考えていたが、ロシアはむしろ自国臣民がこのような非情な扱いを受けたことに衝撃を受け、独露関係悪化の原因の一つとなった[607]。
官僚制度や軍隊の保守化も進めた。1881年にローベルト・フォン・プットカマー(de)を内相に任命し、60年代70年代に活躍した自由主義官僚たちを放逐した[601]。貴族出身でない将校が増加して思想が多様化し始めていた軍隊に対しても「軍隊は君主制を守るために存在する」という保守思想の再徹底を図るとともに参謀総長は陸相の同席なしにプロイセン王に上奏できるようにして帝国議会の影響力から軍を遠ざけた[608]。
社会主義者鎮圧法
1875年5月にフェルディナント・ラッサール派と、アイゼナハ派(アウグスト・ベーベルやヴィルヘルム・リープクネヒトら)という社会主義者の二流が合同してドイツ社会主義労働者党(ドイツ社会民主党の前身)を結成し[609]、1877年の帝国議会総選挙で得票率9%を得て12議席を獲得した[610]。ただちに脅威になる議席ではなかったが、この政党は公然と「大崩壊」を口にするなど革命的なところがあり、革命嫌いのビスマルクは「帝国の敵」と看做して早期の弾圧に乗り出した[611][612]。また自由主義勢力との連携が崩れていく中、共通の敵である社会主義勢力を攻撃することで自由主義者を出来るだけ与党勢力に引きつけておきたいという意図があった[610]。
1878年5月11日と6月2日に二度にわたって皇帝ヴィルヘルム1世の暗殺未遂事件が発生した。どちらの犯人も社会主義勢力との関係は立証できなかったが、ビスマルクは無理やりにでも社会主義運動に結び付けた[613]。一度目の暗殺未遂事件の後、社会主義者の活動を禁止する法案を帝国議会に提出したが、原則として例外法に反対する国民自由党が反対票を投じたために否決された[614][615]。直後に二度目の暗殺未遂事件が発生し、保守新聞や政府系新聞によって社会主義者への恐怖が煽られ、これを好機と見たビスマルクは社会主義者鎮圧法の是非を問うて解散総選挙を行った[616]。
選挙戦中、政府系・保守系新聞は社会主義者鎮圧法に反対した国民自由党を「皇帝を守ることを拒否した」として徹敵的に批判した[617]。選挙の結果はビスマルクの思惑通り保守党と帝国党の両保守政党が議席を伸ばし、国民自由党は議席を落とし、保守政党と国民自由党が拮抗する状態となった[618][616]。こうして10月19日に社会主義者鎮圧法案が「帝国の敵」のレッテルを貼られることを恐れた国民自由党の賛成も得て可決された[616][619]。ベーベルはビスマルクが御用新聞を使って暗殺事件を無理やり社会主義勢力に結び付けたことを批判したが、ビスマルクはそれに対しては何も答えず、代わりに「社会主義者鎮圧法が採択されなければドイツは殺し屋仲間の圧政に永遠に苦しむことになるであろう」と答弁した[620]。
社会主義者鎮圧法により社会主義者の活動は帝国議会以外のすべての場で禁止された[621]。また社会主義者は警察によって居住地を追われて悲惨な生活を余儀なくされた[622]。しかし様々な偽装組織や集会が開かれ続け、社会主義労働者党の党勢が衰えることはなかった[621]。
社会政策
ビスマルクは労働者が社会主義運動に流れるのを防ぐため、社会政策立法(de)を行った[623][624][625]。ビスマルクの社会主義者を弾圧しつつ社会政策を行う統治手法は「飴と鞭」と呼ばれた[626]。現在どこの先進国にもある強制加入の社会保険制度はビスマルクのドイツにおいて初めて創出された。現在でも社会保障の中心は社会保険であるから、ビスマルクは「社会保障の創始者」といって過言ではない[627]。
ビスマルクは1880年8月28日のプロイセン閣議において労災の労使の損害負担について規定している帝国責任法は訴訟を招きやすく労使ともに満足させることはできず、ただ労使関係を不安定にさせるだけであるとして労災保険制度の創出の必要性を訴えた[628]。1881年3月8日に帝国議会に提出した第一次労災保険法案は保険主体を帝国政府とし、保険料は事業主と労働者で負担し合うが、年収750マルク以下の労働者の場合は事業主と帝国政府で負担することとしていた[629]。低所得者の保険料を国が負担することで国に親近感を持たせることを目的とし、ビスマルクはこれを「国家社会主義」と呼んだ[630]。しかし帝国議会は1881年6月15日に政府提出法案を大幅に修正した法案を可決した。それは保険主体を各邦国政府とし、保険料は一律労使で負担し合うこととして国は支払わない内容だった[631]。これに対してビスマルクは「帝国議会が議決した法案では帝国政府の意図に反して貧しい者に大きな負担を課すことになる」という大義名分を掲げて連邦参議院で否決させ、帝国議会解散に打って出た[632]。しかしビスマルクの意図に反して1881年10月27日の選挙はビスマルクを支持する保守党や帝国党、国民自由党の敗北、国民自由党分離派や進歩党など自由主義勢力の躍進に終わった。低所得者労災保険金国庫負担が予想より人気がなく、むしろその財源とされた煙草専売化が煙草の値上げにつながると有権者に警戒されたのが原因だった[633]。
1882年4月に召集された新議会に対して第二次労災保険法案を提出し、同法案の待機期間13週間をカバーする保険として疾病保険法案も5月に提出した。この法案は労働者が疾病で就労不能となった場合の保険制度を定めており、保険料の三分の一を使用者が負担するとしていた。疾病保険法案については大きな反発はなく1883年5月31日に可決された[634]。一方後回しで審議された第二次労災保険法案の方は各党派の意見がそろわず、ビスマルクの根回しもむなしく廃案となった。ビスマルクは低所得者が無料で加入できる労災保険法案の方が政府の強化に資すると考えていたため、この結果に不満を感じたが、とりあえず疾病保険法案単独で連邦参議院を通過させて6月15日に疾病保険法を成立させた[635]。
1884年3月6日に第三次労災保険法案を帝国議会に提出。同法案は保険主体を産業分野別の事業者の集まりである職業協同組合としていた[636]。保守政党のほか、国民自由党も賛成に回り、国民自由党と政府の接近(文化闘争再開)を警戒した中央党も賛成にまわったことでようやく労災保険法(de)が成立した[637]。保険主体を職業協同組合にしたのは各産業を国家が統制する職能団体にまとめあげ、現代版ギルドを作ろうという意図があったといわれる[638]。いずれ反抗的な帝国議会に代わる国民代表機関・立法機関とする構想もあったという[639]。
社会問題に関心を持つヴィルヘルム2世が即位した後の1888年11月22日に障害・老齢保険法案を帝国議会に提出した。70歳以上になったか、あるいは労災と無関係な疾病や事故にあって稼得不能になった場合に支給される年金について定めた法案であった[640]。ビスマルクは以前から「老後に年金をもらえる人は、そういう見込みのない人よりもはるかに満足しており、はるかに扱いやすい」と評していた[623]。しかしこの法案にビスマルクが冷淡という噂があったため、ビスマルクはこれを打ち消すべく帝国議会で演説を行い、特に保守党議員に支持を訴えた[641]。賛否に意見が分かれた政党が多く、所属議員全員が賛成票を投じた政党はなかったが、僅差で可決され、障害・老齢保険法(Invaliditäts und Altersversicherungsgesetz)が成立した[641]。
これらの保険法は内容に大きな変更が加えられながらも今日のドイツにも受け継がれている物である[626]。
しかし根本的な低賃金と保護関税による物価の高騰などで労働者の不満はこれだけでは収まらず、結局労働者は社会主義労働者党に流れていった。その一方で社会主義労働者党内部にビスマルクの社会政策に一定の評価を下す勢力も出現し、これによって同党に分裂状態を生み出すことに成功した[642]。ビスマルクの社会政策はあくまで政治効果を狙った物であったから1880年代後半にあまり効果がないと判断するようになるとビスマルクは社会政策に関心を持たなくなった[643]。ビスマルクの回顧録も社会政策立法の件について全く触れていない[644][645]。また後にヴィルヘルム2世の社会政策によって実現する日曜労働の禁止や婦人や子供の労働制限についてビスマルクは「労働者の労働の自由を奪っている」「農業には労働の制限などないのに都市にだけ労働の制限があるのはおかしい」として否定的だった[624]。
外交
ドイツ統一後の国際環境
ドイツ統一後、ヨーロッパ諸国は中欧に出現した新大国ドイツに警戒感を高めた[646]。
普仏戦争でアルザス=ロレーヌ地域を奪われたフランスはドイツへの遺恨を募らせ、「対独復讐」が国是となっていった[647][648]。普仏戦争以前にはドイツと敵対することはなかったイギリスとロシアもこれ以上のドイツの増強とフランスの弱体化を許すつもりはなかった[649]。また文化闘争の影響で周辺のカトリック諸国(オーストリア=ハンガリー、イタリア、フランスなど)でも反独意識が高まっていた[650]。特にオーストリアは旧ドイツ連邦加盟国であったため、自国もプロイセン=ドイツの傘下に置かれるのではないかという不安に駆られていた[651][647]。
こうした国際情勢の中、ビスマルクはこれまでとは一転して慎重な外交姿勢をとるようになった[646][652]。「ドイツは満ち足りた」をスローガンに掲げてこれ以上の領土的野心はないことを積極的にアピールした[653]。それは実際にビスマルクの本心であり、ドイツ統一後の彼は「ドイツ語圏は全てドイツ領」という汎ゲルマン主義を厳しく退け続けた[653][654]。
ビスマルクは1877年に「私の中にあるイメージとしては、どこかの領土を得るという事ではなく、フランス以外の全ての列強が我が国を必要とし、また列強相互間の関係ゆえに我が国に敵対する連合の形成が可能な限り阻止されるような全体的政治状況というイメージである。」と述べているが、これはビスマルクの1870年代80年代の外交を最も簡潔に表した物として頻繁に引用されている[655][652]。フランスが除外されているのはフランスの対独報復主義だけは抑えようがないと考えたためで、ビスマルクはとにかくフランスを孤立状態に置くことに腐心した[656][647]。
しかしロシアとオーストリアは地政学的に対仏に関心がなかった。そこで必要となるのは君主主義国の連帯を訴えてロシア・オーストリアに接近し、両国皇帝にフランスの共和政体にイデオロギー的嫌悪感を持たせることであった。ビスマルクはそのためにフランスの王政復古を全力で阻止し、フランスの共和制の維持を図ろうとさえしたほどである[657]。
三帝協定
ナポレオン3世失脚直後の段階でビスマルクは「フランスの支配権を握った共和政的・社会主義的要素に対抗するため、ヨーロッパの君主制・保守主義的要素の連携が一層重要になった」「共和制の連帯に対する最も確実な保証は、ロシア、オーストリア、ドイツのように君主制原理が今尚強固な国の結束である」と評していた[658]。ビスマルク当人は否定していたが、いわば神聖同盟の立場に戻ったのである[659]。ロシアとオーストリアはバルカン半島をめぐって仲が悪かったので、二国どちらもフランスに接近させずにドイツ側に取り込むにはこの路線を強調するしかなかったし、またヴィルヘルム1世の君主主義の矜持も満足させられるので皇帝の全面的バックアップを期待できた[660]。
ロシア・オーストリアに(彼らが懸念するバルト海沿岸地域やオーストリアに対する汎ゲルマン主義を行う意思がないことを確約しつつ)接近して、1873年10月22日に三君主の緩やかな盟約三帝協定を締結した[661]。この協定は第三国からの攻撃に対して共同で防衛することを約定しており、また共和主義や社会主義から君主政体を守ることを目的としていた[662]。しかしこの協定はイギリスから敵視されたうえ[663]、あまり結束力のある協定ではなかった[664]。
たとえば1875年2月にラドヴィッツをペテルブルクへ派遣し、ドイツの対仏政策を認めるならばロシアのオリエント政策を認めるという交渉を行ったが、ロシア側はこれを拒否している[650]。また『ポスト紙』事件[# 12]でもロシアはイギリスとともにフランスに味方してドイツに圧力をかけた[668]。また同じ頃にロシアとオーストリア間でバルカン半島をめぐって対立するような状態だった[670]。
かくのごとくロシアはあてにはできなかったのでイギリスと決定的に対立しないことは重要であった。英露は従来から近東において覇権争いをしていたが、1870年代から1880年代にかけて他のアジア地域にもそれを拡大させていた。そのためイギリスは露仏の接近を恐れていた。それがロシアとの友好が崩れない範囲でドイツがイギリスに接近する土壌となった[671]。英独関係が平穏であれば対露政策が有利に働き、独露関係が平穏であれば対英関係が有利に働く状態を作る事ができた[672]。
露土戦争をめぐって
バルカン半島のスラブ民族がオスマン帝国に対して蜂起したのをきっかけにロシア帝国が汎スラブ主義を高揚させて介入し、1877年に露土戦争が勃発した。1年ほどでロシアはオスマンを屈服させ、サン・ステファノ条約によって大ブルガリア公国を樹立してバルカン半島を事実上ロシアの支配下に置いた[673][674][675]。しかしバルカン半島に利害関係を持つイギリスとオーストリア=ハンガリー帝国はこのような条約を認めるつもりはなく、1878年初頭には列強間の大戦の空気が漂い始めた[676]。
ビスマルクとしては戦争という極限状態になってロシアかオーストリア=ハンガリーかの二者択一を迫られる状況を是が非でも回避したかった(ロシアを選ぶとオーストリア=ハンガリーが滅亡する危険が高く、その逆を選ぶと露仏が接近する可能性が高かった)[677]。そこでバルカン半島に利害関係の無い「公正な仲介人」として登場し、1878年6月13日から7月13日にかけて列強代表をベルリンに招いて露土戦争の戦後処理を決めるベルリン会議を主催した[678][679][680]。この会議によって列強間の戦争は当面は回避された[681]。
しかしロシアには遺恨が残った。ロシアは普仏戦争で親独的中立を保ったため、この会議でビスマルクが親露的中立の立場をとってくれると期待したのだが、ビスマルクは「公正な仲介者」たる立場を崩さず、大ブルガリア公国を分割したため、サン・ステファノ条約と比すればロシアはバルカン半島の利権を大きく失うことになった[678][670]。国内の革命運動に悩まされていたロシア政府としては国民の不満を外部へ逸らさせる絶好の機会でもあり、ドイツ批判・ビスマルク批判を強めていった[682][683]。1879年夏にはロシア外相ゴルチャコフがパリを訪問して後の露仏同盟の基礎を作っている[684]。
ビスマルクはロシアをドイツ側に引き戻すためにロシアを孤立させようとし、様々な手段を使ってロシアに圧力をかけた[685]。オーストリア=ハンガリーと同盟を結び[686][687]、実現はしなかったが英独同盟を提案し[688]、アジアにおける英仏の連携の仲介の労さえ取り、両国とロシアが対立するよう仕向けた[689]。さらにロシア製品に保護関税を導入し[690]、ペスト対策を理由にロシア国境を封鎖し[690]、ルーマニア独立の条件にロシアが嫌がるユダヤ人解放を要求した[691]。
一方ロシアは、ロシア皇帝暗殺を企てたナロードニキの引き渡しをフランスに求めていたが拒否されたため、フランスへの接近は難航した(しかもその間にロシア皇帝アレクサンドル2世が実際に暗殺された)[684]。こうしてクリミア戦争時にも比するロシアの孤立状態が現出した[689]。ロシア新皇帝アレクサンドル3世はゴルチャコフを退けてドイツに再接近を図り[692]、対立を内在させながらも1881年6月にドイツ皇帝、オーストリア=ハンガリー皇帝、ロシア皇帝は三帝協定を復活させた[693][694]。
植民地政策
ビスマルクは対外的野心がないことを強調したが、欧州外の植民地についても同様だった[695]。1873年(明治6年)に訪独した岩倉使節団に対してもそのことを語っている(詳しくは後述)。1881年の段階でも「私が宰相である間は植民地政策は行わない」と宣言していた[696]。
ビスマルクは英仏が植民地の利権ゆえに接近できない状態が望ましいと考えており、英仏の植民地獲得競争をできるだけ維持させようと図った[697]。そのためドイツ自身は植民地政策を行わずに英仏の植民地政策を積極的に支援した[698]。特にフランスへの支援にはアルザス=ロレーヌの埋め合わせ的な意味合いがあった[699][700]。ビスマルクは1884年に「フランス人がトンキンとマダガスカルで勝利を収めることを希望している。それは彼らの自尊心を満たし、ドイツへの復讐を忘れさせるだろう」と述べている[701]。
1884年に英仏がアフリカ植民地競争で対立を深めるとビスマルクは反英・親仏路線をとった。1884年6月28日に開催されたロンドン会議(en)でエジプト権益をめぐって英仏が激しく対立する中、彼は駐ロンドン大使にフランスを支持するよう命じている[702]。さらに西アフリカに関する独仏協定を締結し、その協定に基づき1884年11月から1885年2月にかけてベルリン・コンゴ会議を主催し、コンゴをベルギー王レオポルド2世の所有地と認め、コンゴ川やニジェール川の渡航を自由にし、イギリスのコンゴ進出の野望を砕いた[703][704]。
一方列強の中でドイツのみ植民地がないことにドイツ国民の間で不満が高まり[705]、経済界からも要請が強まっていた[706]。1882年末には植民地獲得を目指すドイツ植民協会が創設された[696]。こうした世論の中でビスマルクは1884年から1885年にかけて突然アフリカや太平洋のドイツ企業・ドイツ人入植地をドイツ領に組み込んだ(ドイツ領トーゴ(de)、ドイツ領カメルーン、ドイツ領東アフリカ、ドイツ領南西アフリカ、ドイツ領ニューギニア)[707][708]。これらの地域(特に南西アフリカ)は英国が権益を有していたので、これは英国を害する行動であった[707][697]。
ビスマルクがこれまでの方針を翻して突然自国の植民地政策を開始した理由については諸説ある。国民の不満を外部へ向けさせるため、不況対策、増加した余剰人口対策、アフリカ植民地が残り少ないことへの焦燥、1884年の選挙対策、フランスのための反英行動、次の皇帝になる皇太子フリードリヒが親英自由主義者であったため、英国の影響力が増さないように対英関係をわざと悪化させたなどの説がある[696][709][710]。
しかし英国と異なりドイツでは植民地は死活問題ではなく、ビスマルクも英国と決定的に対立しそうな植民地獲得は狙わなかった[706]。時のイギリス首相ウィリアム・グラッドストンは反英連合の形成を恐れ、またドイツが植民地政策を遂行すればイギリス人植民者たちが団結して本国との結びつきを強めると読んでいたのでドイツ植民地政策を基本的に支持しているような状況でさえあった[711]。
「ビスマルク体制」
1881年に復活した三帝協定だったが、露墺の対立は強まる一方で機能しなかった。そこでビスマルクは1882年5月に独墺伊の三国間で三国同盟を締結し[693][694]、ついで翌1883年にはオーストリア=ハンガリー、ルーマニアとの三国間にも同盟を締結し、「急場しのぎ」の体制を構築した[693]。
フランスでは1885年5月に植民地問題を通じて比較的親独的だったジュール・フェリー仏首相が辞職して「復讐陸相」と呼ばれたジョルジュ・ブーランジェ陸相が登場するなど再び「対独復讐」の機運が高まった[712][713]。ビスマルクも軍拡が争点になった1887年初頭の帝国議会選挙のためにフランスの脅威を煽ったため、いつ独仏戦争が発生してもおかしくない危機的状況が発生した[714][715]。かくして1887年初頭以降ビスマルクの外交目標は再びフランスの孤立化に向けられた[716]。
一方1885年9月に発生したブルガリアの動乱(en)でロシアとオーストリア=ハンガリーはブルガリア支配権をめぐって対立し、1887年7月に親墺的なザクセン=コーブルク=ゴータ家のフェルディナント1世がブルガリア公に即位すると両国関係は最悪のものとなった[712]。前述したようにビスマルクのポーランド人追放政策により独露関係も悪化していた[607]。三帝協定はビスマルクの仲介もむなしく再び崩壊した[712]。
三帝協定が終焉した以上フランス封じ込めはイギリスを味方に付けることでしかありえなかった。ちょうどイギリス首相ソールズベリー侯はロンドン会議以降イギリスが孤立していることに不安を抱いており、アフガニスタンをめぐってロシアと対立を深める中、ドイツとの関係を修復したがっていた[717]。ロシアとの完全な決裂を避けるため、ビスマルクはイギリスと直接手を結ぼうとはしなかったが、代わりにドイツ同盟国イタリアとの接近を強く勧め、1887年2月12日に英伊間に地中海協定を締結させた。さらに3月24日にはオーストリア=ハンガリーもこの協定に参加させ、地中海協定を事実上三国同盟を補完させる条約となした[718]。1887年5月に期限が切れる独墺伊三国同盟の更新にあたってイタリアは新たな領土要求をドイツに突きつけたが、ビスマルクはイタリアをドイツ側に引き付けておくためにこれを呑んでいる[719][720]。
露仏同盟という事態を出来る限り先まで阻止するため、三帝協定が期限切れとなる1887年6月にロシアとの間に独露再保障条約を締結した。この条約は外務長官を務めていたビスマルクの息子ヘルベルトが「鎮痛剤」と評したように独露関係を改善できるような性質のものではなかったが、一時的にロシアがフランス側へ移るのを足止めする物ではあった[720]。ドイツを中心とした同盟関係にイギリスを間接的に同盟に引き込み、ロシアも当面繋ぎとめておくという「ビスマルク体制」はひとまず完成をみた。しかし露墺関係はバルカン半島をめぐってますます悪化、独露関係も関税競争が発生して悪化の一途をたどった[721]。ロシアとの将来的な対決はビスマルク時代にはすでに不可避となっていた[694]。
1887年11月22日にビスマルクはイギリス首相ソールズベリー侯に書簡を送ったが、その中でイギリスとドイツとオーストリア=ハンガリーを現状維持を望む「飽和国家」、フランスとロシアを現状に不満がありヨーロッパの平和を破壊する恐れのある国家に位置付けている[722][723]。またその中でドイツとしては露仏と二正面戦争になった場合に備えて同盟国が欲しいが、同盟国を確保できないならオーストリア=ハンガリーの独立が脅かされない限りロシアとの友好関係を維持せざるを得ないとしてイギリスに同盟を誘うかのような主張を行っている[724]。
二帝の崩御と即位
1888年3月9日、皇帝ヴィルヘルム1世が90歳で崩御した[725]。同日ビスマルクは帝国議会において涙ながらに皇帝崩御を発表した[726]。
新たにドイツ皇帝・プロイセン王に即位したフリードリヒ3世は思想的に自由主義左派の立場であり、政治的反対派を「帝国の敵」として抑圧するビスマルクのやり方を苦々しく思っており、また経済的にもビスマルクを自由経済に反する「国家社会主義者」と看做して嫌った[727]。ビスマルクの方もフリードリヒ3世に好感を持ったことはほとんどなかった[728]。ビスマルクにとっては幸いなことにフリードリヒ3世は即位時にすでに不治の病を患っており、99日しか在位できなかった。6月15日の崩御までの短い治世の間に彼が行ったことは内相プットカマーの罷免のみであった[729]。
29歳のヴィルヘルム皇太子がヴィルヘルム2世としてドイツ皇帝・プロイセン国王に即位した[730]。ビスマルクは自由主義的なフリードリヒ3世より権威主義的なヴィルヘルム2世に好感を持っており、彼を「ホーエンツォレルン家の真の継承者」と評していた[731][730]。ビスマルクは即位前からヴィルヘルム2世とその生母であるヴィクトリアの対立をあおり[732]、これを「真のドイツ継承者」と「イギリス女」の対立と位置づけて常にヴィルヘルム2世を支持してきた[733]。
ヴィルヘルム2世の方も基本的にビスマルクを尊敬していたが、同時に彼は「ビスマルクのような偉大な臣下がいたならフリードリヒ大王は大王とはなれなかったであろう。」といった側近の忠告に影響を受けていた[734][735]。ヴィルヘルム2世に強い影響力を持っていたフィリップ・ツー・オイレンブルクもヴィルヘルム1世とビスマルクの関係を「眠れる英雄皇帝と偉大な政治家」と皮肉っていた[736]。ヴィルヘルム2世は即位前の1887年12月に「もちろんビスマルク侯はまだ2、3年は必要な人間であるが、その後は彼の果たしている機能は分割されるだろうし、その大部分を君主自身が受け継がねばならない」と述べている[737]。
1888年9月末に『ドイツ評論』という雑誌が故皇帝フリードリヒ3世の普仏戦争時の日記(フリードリヒ3世がドイツを自由主義国家にすることを目指していた事を示唆する内容)を掲載した。ビスマルクはこの雑誌を国家反逆罪容疑で発禁処分にし[738]、日記の送付者であった枢密法律顧問官ハインリヒ・ゲフケンを逮捕させた[739]。「発表された日記は偽造された物」としてゲフケンを告発したが、裁判所は証拠不十分で裁判手続きを打ち切った[740]。ビスマルクはフリードリヒ3世が自由主義者として祭り上げられる事の危険性をヴィルヘルム2世に慎重にほのめかし、ヴィルヘルム2世の支持を取り付けていたが、世論がこの裁判を否定的にとらえたため、世論に敏感なヴィルヘルム2世は逆にビスマルクと距離をとるようになった[732]。
失脚
1889年5月にルール地方の鉱山で労働者のストライキが発生し、ドイツ各地の鉱山に拡大していった[741][742]。皇帝は労働者側に共感し、助言者たちを集めて労働者保護立法の準備を開始した[743]。一方ビスマルクは「自由主義ブルジョワに社会主義の恐ろしさを理解させるため」この件について国家の介入は避けるべきと主張した[741][742]。
ビスマルクは領地のフリードリヒスルーやヴァルツィーンで過ごすことを好み、この時も5月中旬に閣議が終わると息子ヘルベルトやプロイセン副宰相カール・ハインリヒ・フォン・ベティッヒャー(de)にベルリンを任せて自身はフリードリヒスルーへ帰り、以降翌年1月24日の御前会議までほとんどの期間をそこで過ごした[744][745]。この長期のベルリン不在でビスマルクの皇帝への影響力は低下し[746]、皇帝が親政志向を強めることとなった[747][745]。
1889年10月に期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法を無期限に延長する法案を帝国議会に提出させたが[746][748]、国民自由党は恒久法にするのであれば同法案の追放条項[# 13]は破棄するべきであると主張した[749]。
1890年1月24日の御前会議において皇帝は労働者保護勅令の計画を発表したが、ビスマルクは社会主義者鎮圧法を最優先にすべきであるとしてその件を先延ばしにした[750][751]。一方社会主義者鎮圧法案について皇帝は追放条項なき法案に賛成すると述べたが、それに対してビスマルクは「そのような弱腰は致命的な結果をもたらす。もしこの法案が政府の提案通りに採択されないなら、法律なしで(社会主義者に)対処せねばならず、波は高まるままになり、やがて正面衝突は避けられない」と反論した[752][751]。そしてこの件で譲歩するつもりはないとして辞職をちらつかせて皇帝を説得した[751][753]。
保守党が要求していた追放条項に固執しないとの政府宣言が出されなかったため、翌25日の帝国議会本会議で社会主義者鎮圧法案は広範な政党の反対によって否決された[754][755]。一方2月4日に労働者保護勅令の2月勅令が発せられたが、ビスマルクはこれについて副署を拒否している[756]。しかもビスマルクは2月勅令で定められていたベルリンでの労働者保護国際会議の開催の妨害工作を行った[757]。ヴィルヘルム2世はこれを耳にした時にビスマルクに対して決定的な嫌悪感を持ったという[758]。
2月20日に会期満了に伴う帝国議会選挙があったが、ビスマルクを支えるカルテル3党(保守党、帝国党、国民自由党)の敗北、ドイツ社会民主党(SPD)の躍進に終わった[759]。3月2日の閣議でビスマルクは新議会に対して労働者保護法案、軍制改革法案、社会主義者鎮圧法の3点を要求して議会と徹底的に対決する路線を決定した[760][761][762]。ビスマルクは議会に対する「クーデタ」を企んでいたといわれる[763][764]。またこの閣議でビスマルクは閣僚たちに1852年閣議命令の遵守を求めた[765][766]。これは大臣がプロイセン王に上奏する場合はまず宰相に報告せねばならず、また上奏にあたって宰相が立ちあうことを規定した命令であり、破棄されたわけではなかったが、この時点では忘れ去られてほぼ死文化していた[765]。このような昔の命令を引っ張り出してきて皇帝を宰相の管理下に置こうとしていると感じた皇帝は3月5日にブランデンブルク州議会での演説において「私の行く手を遮る者は粉砕する」と叫んで怒りを露わにした[765][766]。対ロシア強硬派のアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー将軍も「ビスマルクはロシアが戦争を企んでいる事実から目をそらした外交ばかりしている」として批判を強め、皇帝のビスマルク解任の意思に影響を及ぼした[767]。
3月7日に皇帝は労働者保護法の成立が危ぶまれるとして社会主義者鎮圧法を中止するようビスマルクに命じた[768][769]。皇帝はこれでビスマルクが辞表を提出すると考えたが、議会と対立さえすればいいビスマルクはあっさりこれを了解した[770]。つづいて3月15日に皇帝はビスマルクに政党の代表者との交渉を禁じ、また1852年閣議命令の廃止、さらに軍制改革法案も議会と相談して決めるべきであると通達することによって一層露骨に辞職を迫った。これを受けてビスマルクもついに諦め、1890年3月18日20時に皇帝に辞表を提出した[771]。辞表を待ち受けていた皇帝はただちに受理し、ビスマルクをラウエンブルク公爵に叙すると内諭したが、ビスマルクは辞退した[772][773]。
宰相退任後
3月29日にベルリンを離れてフリードリヒスルーへ移住した[774]。ビスマルクの失意は深く、1890年から91年にかけてたびたび自殺を考えたというが、個人的威厳を重んじる念と信仰心によって思い止まったという[775]。
退任後すぐに書店コッタから1巻10万マルクの印税の条件で回顧録の執筆を依頼された[776]。ビスマルクの側近ロタール・ブーハー(de)が速記して回顧録の執筆を行ったが、ブーハーはビスマルクが「事実を意図的にゆがめる。知れ渡った事実まで歪曲しようとする。失敗したことには自分は関係なかったことにしようとする。老皇帝とアルヴェンスレーベン将軍以外の誰も自分と対等の存在になる事を許さない」ことに憤慨している[777]。ブーハーが1892年10月12日に死去したため6巻の予定だった回顧録は3巻までで終わった[778]。
退任後もビスマルクの影響力は絶大であり、多くの人々が彼の周りに集った。『ハンブルガー・ナハリヒテン』紙を中心に独自のプロパガンダ網を整備し[779]、外国記者の取材にも積極的に応じた[780]。ヴィルヘルム2世の親政体制に批判的なユダヤ人ジャーナリストマクシミリアン・ハルデンと親しくするようになってから現体制への批判活動を本格化させ[780]、ヴィルヘルム2世や宰相レオ・フォン・カプリヴィを公然と馬鹿にした[781][782]。また職務上知り得た国家機密もべらべらとしゃべったという[783]。ヴィルヘルム2世はしばしば本気でビスマルクを大逆罪の容疑で逮捕することを検討したという[779]。
1891年3月には国民自由党の要請を受けてハノーファー=レーエ選挙区の帝国議会議員補欠選挙に出馬した。当選は果たしたものの低い投票率だったうえ、得票率もそれほど高くなく、ビスマルクもこの結果を見て帝国議会での政治活動という路線は諦めたようだった。結局彼は一度も帝国議会に出席せず、再度の出馬要請も拒否した[784]。それでも帝国議会が紛糾した時に突然ビスマルクが現れて帝国議会を操り始めるのではないかという印象はビスマルクを支持する者にも反対する者の間にも消えなかった[779]。
1892年にビスマルクが息子ヘルベルトとハンガリー貴族の伯爵令嬢マルグリート・オヨスの結婚式に出席するためウィーンを訪れた際、ヴィルヘルム2世はビスマルクがウィーンで盛大な歓待を受けることで自分の権威に傷が入る事を恐れ、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に「不服従な臣下が私に歩み寄って謝罪する前に貴方が彼に謁見を賜る事で私の国内的地位を危機に落としいれないでほしい」という書簡を送っている[785][786]。宰相カプリヴィもウィーンのドイツ大使館に対してヘルベルトの結婚式に出席しないよう訓令している[787][785][786]。このカプリヴィの訓令は公表され、ビスマルク派の新聞はこれを「ウリーア書簡」と名付けて批判した[788]。世論はビスマルクに同情し、皇帝とその政府に批判が集まった[788][785]。
しかし「ビスマルクに戻れ」の声もだんだん聞かれなくなっていく中、1894年初頭にヴィルヘルム2世とビスマルクは「和解」した[789]。ヴィルヘルム2世は「これからはウィーンやミュンヘンが彼のために奉迎門を建てても構わない。私の方が常に彼より抜きん出ているのだから」と語って安堵した[790][791]。その後もしばしば政治的動向を見せたが、皇帝側近の間で「ヘラクレスがまた棍棒を振るった」と皮肉られる程度の物となっていった[791]。
ビスマルクの失脚原因ともなった社会主義への敵意は退任後も一貫して強く持ち続け、1893年にはアメリカのジャーナリストの取材に対して「社会主義者はドイツ国内を徘徊するネズミであり、根絶やしにしなければならない」と述べ、1894年にハルデンに宛てた手紙の中では社会主義者を伝染病の病原菌に例えた[792]。死を間近にした1897年にも「社会問題はかつてなら警察問題で解決できたが、いまや軍隊を用いねばならない」と述べている[792]。
死去
1894年11月27日に妻ヨハンナに先立たれると生への倦怠感を強め、肉体的な衰えが激しくなった[793]。ビスマルクは妻の死に関して妹へ宛てた手紙の中で「私の残されていた物、それはヨハンナだった。(略)民が寄せてくれる過分な好意や称賛に対して私は恩知らずにも心を閉ざしてしまうようになった。私がこの4年間それを喜んでいたのは彼女もそれを喜んでいてくれたからだった。だが今ではそのような火種も徐々に私の中から消えようとしている」と書いている[794]。
ビスマルクはそれ以前から顔面神経痛や落馬による左足の炎症、血行障害に苦しんでいたが[795]、あまり身体を動かさなくなったことで片足が血行障害で徐々に壊死していき、しばしば激痛に悩まされるようになった[794]。1897年秋以降には車椅子生活になった[796]。
1898年7月30日23時前に息を引き取った[794]。主治医によると死因は肺の充血だったという[797]。最期の言葉は「私のヨハンナにもう一度会えますように」だったという[794]。ビスマルクの希望で彼の墓石に刻まれた言葉は「我が皇帝ヴィルヘルム1世に忠実なるドイツ帝国の臣」であった[798][799]。また『コロサイの信徒への手紙』第3章23節にある「汝等、何事を為すにも人に仕えるためではなく、主に仕えるために行え」という言葉が刻まれている。これはビスマルクが16歳の頃より愛していた言葉だった[800]。
ビスマルクの訃報に接してヴィルヘルム2世は10日間の廃朝を決定し、陸海軍も7日間喪に服して業務を停止した[801]。民家も次々と弔旗を掲げた[802]。
国葬に付すべきとの意見もあったが、生前ビスマルクが派手な葬儀を嫌がっていたことから遺族が断り、フリードリヒスルーの邸宅の後ろの小丘に葬られた[803][804]。
1890年11月末にビスマルクの回顧録の1巻と2巻が『Gedanken und Erinnerungen(思うこと、思い出すこと)』(ISBN 978-3-7766-5012-9)というタイトルで出版された。12月中旬までに30万部売り上げるベストセラーとなった[805]。ただし3巻はヴィルヘルム2世と宰相辞職をめぐる内容であったため、ビスマルクはヴィルヘルム2世の崩御まで出版しないよう遺言していた[806][807]。しかし結局ヴァイマル共和政時代の1921年になって公刊されている[805]。
1898年以降、ビスマルクの銅像・記念碑が次々と建立された。銅像の多くは軍服を着て剣を携えピッケルハウベを被るという「鉄血宰相」としてのビスマルクを描いた物であった[808]。東ドイツの社会主義政権によって破壊されて現存していない物もあるが、それ以前は11の都市にビスマルクの銅像が建てられていた[799]。とりわけベルリンの帝国議会の議事堂の広場に建てられた銅像とハンブルクに建てられた巨大ビスマルク像が著名である[800]。
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注釈
- ^ ナポレオン戦争の成果を全面的に否定し、ナポレオンに奪われた各国の主権をナポレオン戦争以前の正統な主権者に戻すというウィーン体制の根本思想[18]。
- ^ ビスマルクのドイツ統一までドイツという名前の国家は存在せず、それはドイツ語を使用する人々が暮らす中欧の地方名であった[21]。三十年戦争で神聖ローマ帝国が衰退してドイツ地方は諸侯の領土が群立し、やがてオーストリア帝国(ハプスブルク家)とプロイセン王国(ホーエンツォレルン家)の抗争時代がはじまった[22]。神聖ローマ帝国はナポレオンによって滅ぼされ、1789あった帝国諸侯領土は併合・陪臣化・世俗化によって39か国にまとめられた。ナポレオンを否定するウィーン体制下になってもこの39カ国という状態は維持された[23]。
- ^ ただしこれはビスマルクが宰相就任後にドイツ統一事業の中で自由主義ナショナリズムと手を組むことになったから自分の行動に一貫性を持たせるために回顧録に若いころの心情としてこう書いただけでブルシェンシャフトに実際に近づいたか疑問視する声もある[55]。
- ^ 今日のドイツ国旗でもある黒赤金の旗はもともとブルシェンシャフトの旗でドイツ・ナショナリズム、ドイツ統一のシンボルである。ドイツ連邦の連邦議会はこの旗を危険視して長らく使用を禁止していたが、1848年革命で誕生したドイツ国民議会により国家色に定められた[128]。
- ^ 比較的自由主義的な官僚や貴族たちによって構成されていた勢力。1851年に『プロイセン週報』という機関紙を発行するようになったためこう呼ばれる[226]。
- ^ 軍制改革問題はマントイフェル宰相時代に保守派が提起した問題で国民の国王への忠誠を強化するために兵役2年を兵役3年に戻し、正規軍を増強し、市民的な国土防衛軍の縮小することを柱とした。「新時代」にはこの計画は押し込められたが、1859年にローンが陸相となると王権の支柱である軍隊の増強という観点から蒸し返され、正規軍兵力増強、3年の兵役、国土防衛軍の義務期間の縮小、予備役期間の延長を柱とする軍制改革が議会に提出された[293]。しかし下院の自由主義者たちは軍隊を国民代表者たる下院の統制下に置こうと考えていたので軍隊に対する王権強化の狙いがあるこの軍制改革案を拒否した[119]。
- ^ 妥協案は進歩党のカール・トヴェステン(de)、中央左派のフリードリヒ・シュターヴェンハーゲン(de)とハインリヒ・フォン・ジイベル(de)の三者によりだされた。兵役期間2年のままを条件に軍隊編成予算を認めるという内容だった[294][295]。
- ^ ただしラッサールの提唱する生産組合は大規模であること、また普通選挙の存在が前提となっていた。そのためラッサールはヴェステギアースドルフ生産組合について反対こそしなかったが、若干あてこすった[351]。
- ^ ビスマルクは関税同盟の解消も辞さない脅迫的な態度をとって普仏通商条約への参加を拒否していたバイエルンやヴュルテンベルクなど反プロイセン的な中規模諸邦に参加を表明させたのであった[384][385]。
- ^ 一方でナポレオン3世はオーストリアとの間にも1866年6月12日に墺仏秘密協定を締結しており、こちらはフランスが中立を守る条件としてオーストリア勝利後にはライン川左岸をフランスに譲り、またヴェネト州の領有権をイタリアに譲るという内容だった[412][401][403]。
- ^ 古代ゲルマン民族や中世ドイツでは共同して出征する場合に統領を選出していた[529]。
- ^ 普仏戦争後フランスが早期に復興を遂げて賠償金を支払い終えて軍備拡張を図る中の1875年4月8日にドイツ政府系新聞『ポスト』紙は「戦争が迫る?(Ist der Krieg in Sicht?)」という論説を載せ、それがきっかけでフランスに対する予防戦争を行うべしとのドイツ世論が強まった[665][666][667]。ビスマルクに予防戦争の意思はなかったが、「フランスは孤立しており復讐を企むのは無駄である」ことをフランスに思い知らせようと企図していた[668]。しかしフランス外相ルイ・ドゥカズの巧みな外交もあってイギリスとロシアはそろってドイツに対して「フランスが復讐や領土奪回をたくらんでいるとは思えない。フランスへの対決政策をやめなければ重大な結果を招くことになる」旨を警告し、逆にドイツの孤立が明らかになってしまった[669][668]。
- ^ 社会主義者を住居から立ち退かせる権限を警察に認める条項[749]。
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固有名詞の分類
| ドイツ帝国の政治家 |
ユリウス・フレーベル ゲオルク・フォン・ヘルトリング オットー・フォン・ビスマルク ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー ヨハン・アルブレヒト・ツー・メクレンブルク |
| ドイツの首相 |
ハンス・モドロウ ゲオルク・フォン・ヘルトリング オットー・フォン・ビスマルク ホルスト・ジンダーマン ルートヴィヒ・エアハルト |
| 金羊毛騎士団員 |
ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク カール・アルブレヒト・フォン・エスターライヒ オットー・フォン・ビスマルク ナポレオン3世 シャルル・フェルディナン・ダルトワ |
| ドイツの伯爵 |
クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン ゲオルク・フォン・ヘルトリング オットー・フォン・ビスマルク ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク |
| ドイツの侯爵 |
フィリップ=シャルル・ダランベール マクシミリアン・カール・フォン・トゥルン・ウント・タクシス オットー・フォン・ビスマルク アルベルト・フォン・トゥルン・ウント・タクシス シャルル・ダランベール |
| ビスマルク家 |
ヘルベルト・フォン・ビスマルク オットー・フォン・ビスマルク ゴットフリート・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン |
| ドイツの公爵 |
オットー・フォン・ビスマルク ロレーヌ公 |
| ザクセン=ラウエンブルク公 |
オットー・フォン・ビスマルク |