都市文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:54 UTC 版)
日露戦争頃から、経済文化の中心地であった大阪・神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し(阪神間モダニズム)、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。一方、東京では1915年(大正4年)に浮世絵版画の復刻をしつつ、新しい伝統木版画を創造しようとしていた渡辺庄三郎の主導によってフリッツ・カペラリの水彩画を錦絵風の木版画にしたのを機に橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水、吉田博、名取春仙らによる新版画の活動が開始された。この動きは1923年(大正12年)の関東大震災後には新興の版元を多く巻き込んで全国的に広まり、昭和時代まで続いていった。 道路や交通機関が整備された。路面電車や青バス(東京乗合自動車)や円太郎バスなどの乗合バスが市内を走行した。大正後期から〜昭和初期までの大大阪時代に大阪府では、東京府よりも先におびただしい私鉄網が完成し、とりわけ小林一三が主導した阪神急行電鉄の巧みな経営術により、阪神間に多くの住宅衛星都市群が出現した。 一方、日清戦争(1894年〜1895年〔明治27年〜明治28年〕)を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化は衛星都市の富裕層に受け入れられ広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は関東大震災後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。大正中期に都市部で洋風生活を取り入れた「文化住宅」が一般向け住宅として流行をした。 東京府(東京市)では、関東大震災で火災による被害が甚大だった影響で下町が江戸時代の街並みを失う一方、震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、大企業や外資系企業の一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。 1918年(大正7年)に専門学校から昇格する形で私立大学を中心に旧制大学を認可する大学令と高等学校令が公布されて高等教育機関が整備され、東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、大企業や外資系企業に勤める大卒の「サラリーマン」が大衆の主人公となった。 明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。井戸やまきによるかまどの使用や明治時代の石油ランプが廃れて、上水道・ガス・電気が普及する。神前結婚や大本教や霊友会など新宗教が盛んになる。家庭電気器具では扇風機・電気ストーブ・電気アイロン・電気コンロが普及した。ブリキやセルロイド製のおもちゃなど新素材のおもちゃが登場した。
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