軍事的背景と紛争の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:38 UTC 版)
「第一次台湾海峡危機」の記事における「軍事的背景と紛争の経緯」の解説
1950年1月5日にアメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、アメリカは台湾海峡に関するいかなる紛争にも関わることは無く、中華人民共和国の攻撃があっても一切介入することは無いとする「台湾不干渉声明」を発表した。しかし1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、トルーマンは「台湾海峡の中立化」はアメリカ合衆国にとって最大の関心事であると表明し、事実上アメリカの保護下に台湾を置き、中華民国と中華人民共和国の紛争を防ぐために台湾海峡にアメリカ海軍第7艦隊を派遣した。 1950年6月27日、トルーマン大統領は以下のコメントを発表した。 The attack upon Korea makes it plain beyond all doubt that communism has passed beyond the use of subversion to conquer independent nations and will now use armed invasion and war. It has defied the orders of the Security Council of the United Nations issued to preserve international peace and security. In these circumstances the occupation of Formosa by Communist forces would be a direct threat to the security of the Pacific area and to United States forces performing their lawful and necessary functions in that area. Accordingly, I have ordered the 7th Fleet to prevent any attack on Formosa. As a corollary of this action, I am calling upon the Chinese Government on Formosa to cease all air and sea operations against the mainland. The 7th Fleet will see that this is done. The determination of the future status of Formosa must await the restoration of security in the Pacific, a peace settlement with Japan, or consideration by the United Nations. 大韓民国への攻撃は、共産主義勢力が主権国家を征服するために国家転覆の範疇を超え、今や武力による侵略と戦争をという手段を使用するであろうことを疑いなく明白にした。それは国際的な平和と安全を守るための国連安保理決議に違反している。このような状況において、共産党軍による台湾の占領という事態は、太平洋地域の安全保障の維持のため、合法的かつそれに必要な任務活動を当該地域で遂行しているアメリカ軍にとって直接的脅威となるだろう。したがって、私はアメリカ海軍第7艦隊に共産党軍からの台湾への攻撃を防ぐよう命令した。当然、私は台湾の中華民国政府に対しても中国本土に対する航空及び海上作戦をすべて中止するよう要請している。台湾の将来の地位の決定に関しては、太平洋における安全保障の回復や正式な日本との講和問題の解決、また国連による検討を待たなければならない。 — ハリー・トルーマン トルーマン大統領は1951年のサンフランシスコ講和条約(日本との和平条約)の起草において、台湾については中立の立場を取る決定を行えるよう、アメリカ合衆国国務長官ディーン・アチソンの国務顧問ジョン・フォスター・ダレスに命じた。 サンフランシスコ講和条約にはその主権は指定されておらず、中華民国と中華人民共和国の双方、また台湾独立の支持者が自らの立場を主張するにも、法的根拠として難しい状況にあった(台湾地位未定論)。 国家主義的だった中華民国政府は国家としての権威や意志を重視、中国本土の支配の回復を目標として維持していた。そのために中国人民解放軍との軍事対立を再開する必要があった。トルーマンと彼の顧問だったダレスは、その目標を実現不可能だとみなしたが、当時の世論では共産主義陣営に中国を失ったことを後悔する風潮があり、トルーマン政権は中国本土を共産主義から解放しようとする蔣介石軍の試みを阻止したとして反共産主義者から批判された。 1952年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党のトルーマンは再選に出馬せず、第二次世界大戦の将軍だった共和党のドワイト・アイゼンハワーが勝利した。 1953年2月2日、アイゼンハワー大統領は中国本土の反共産主義者による「蔣介石の軍を中国本土へ解き放て」という要求を満たすために、第7艦隊による封鎖を解除した。これにより国民党政権は中国沿岸での外国船に対する海上封鎖(関閉政策)を強化し、1953年夏の朝鮮戦争休戦以降、イギリス海軍の報告によると最大141件の拿捕事件を起こした。 1954年7月13日の国家安全保障会議(NSC)でのCIAのブリーフィングは、6月23日のトープス号事件後の南シナ海全域での海運保険料の増加と、シンガポールでいくつかの国際定期便が運航見合わせで停留されているか、計画を変更しなければならなかったことを示した。 人民解放軍空軍は海南島に進出して三亜港と黄浦港を通る別の輸送ルートを確保したが、7月23日には民間人10人が死亡したキャセイ・パシフィック航空機撃墜事件を引き起こし、その後7月26日に生存者の救助任務を行っていた2隻の米空母(ホーネット、フィリピン・シー)とも交戦、2機のLa-11戦闘機が撃墜された。 8月2日、彭徳懐・中国共産党中央軍事委員会副主席は、毛沢東の指令により華東軍区の作戦会議を招集した。
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