ほう‐とくかい〔ハウトククワイ〕【彭徳懐】
読み方:ほうとくかい
[1898〜1974]中国の軍人。湖南省湘潭(しょうたん)県の人。1928年共産党に入党、紅軍に参加し、抗日戦では八路軍副総司令。朝鮮戦争では中国人民義勇軍総司令を務めた。国務院副総理・国防相などの職にあったが、毛沢東の批判を受けて1965年解任された。1978年、名誉回復。ポン=トーホアイ。
ポン‐トーホアイ【彭徳懐】
読み方:ぽんとーほあい
⇒ほうとくかい(彭徳懐)
彭徳懐
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彭 徳懐(ほう とくかい、簡体字:彭德怀、繁体字:彭德懷、英語:Peng Dehuai、ポン・ドーファイ、1898年10月24日 - 1974年11月29日)は、中華人民共和国の政治家、軍人。中華人民共和国元帥。もとの名は得華、譜名は清宗、号は石穿[1]。国務院副総理、国防部長、党中央委員会副主席、党中央軍事委員会副主席を務めたが、大躍進政策を批判した為に失脚し、最後は癌に侵されながらも治療を拒否されるなど、紅衛兵による吊し上げの中で息を引き取った。
注釈
- ^ あなた方の見方は間違っており、すべて戯言を言っているようなものだ。かつてあなた方は米国は絶対に出兵しないと言い切り、米国が出兵する場合にどう対応するかを想定して準備することをしなかった。今はまた、米軍は必ず朝鮮から撤収すると言い切るが、米軍が撤退しなければどうするかを考えない。それは戦争を長引かせるだけだ。あなた方は戦争の勝利を幸運と僥倖に託し、人民事業を賭け事のように扱っており、これでは戦争を再度敗北に導くに決まっている。義勇軍の休養と補充には2か月が必要で、1回も減らしてはならず、3か月かかるかもしれない。相当の準備が無ければ1個師団たりとも南進させない。私は断固としてあなた方のこのような敵を軽視する意見に反対だ。もし、あなた方は私がこの職務に相応しくないと思ったら、解任してもいいし、裁判にかけ、銃殺刑にしても良い[15]。
- ^ 国務院の前身である政務院は中央人民政府の執行機関にすぎず、院内に国防を担当する部門が設置されていなかった。憲法制定以前の国防担当機関は、毛沢東を主席とする「中央人民政府人民革命軍事委員会」である。
- ^ 現在の国家中央軍事委員会に相当する機関。1954年9月の憲法制定により設置され、1975年1月の憲法改正で廃止となった。
- ^ 中国共産党中央軍事委員会は、1949年10月1日の中華人民共和国建国の際、国家機関である「中央人民政府人民革命軍事委員会」に接収された。1954年9月の憲法制定により中央人民政府人民革命軍事委員会が廃止されるに伴い、党中央軍事委員会が再設置された。
- ^ 1954年の段階では、総参謀部・総政治部・総後勤部の三部体制であった。
- ^ 毛里 2004によると、党中央軍事委員会拡大会議は定期的に開かれるのではなく、リーダーシップの変更や重大な戦略問題があったときに招集され、最重要事項を討論・決定するという。
- ^ 第8回党大会直後に開催された第8期1中全会において、彭徳懐は党中央政治局委員に再選されている。
- ^ この発言をしたとされる時期について『戦場の名言 指揮官たちの決断』によると、1950年10月下旬、中国人民志願軍司令官となった彭徳懐は金日成に面談し、「この戦争は私とマッカーサーのものだ。貴下の口出しする余地はない。私が人民解放軍、八路軍副司令官の時、貴下は抗日東北連軍の師長にすぎなかったではないのか。」と一喝して、自軍を壊滅寸前にした金日成の拙劣な戦争指揮を糾弾し、中朝連合司令部を組織して主導権を握った[32]と記述している。白善燁が聞いた話によれば、1951年1月25日に平安南道成川郡で中朝合同会議が開かれたが、ある学者の主張によると、5日間行われたこの会議で彭徳懐は金日成に向かってこのような発言をしたという[33]。
出典
- ^ 藤田正典編『現在中国人物別称総覧』(汲古書院、1986年)、271頁
- ^ a b ““彭德怀”名字的由来及入党的真实经过”. 中国共産党新聞網. (2009年2月6日) 2016年11月10日閲覧。
- ^ 彭德怀传编写组(2006),12-14
- ^ 彭德怀传编写组(2006),10-11
- ^ “彭徳懐恩人袁植姜畬遇害地点考”. 新華網. (2014年10月14日) 2017年1月15日閲覧。
- ^ Domes(1985),14-15
- ^ 彭德怀传编写组(2006),12
- ^ “彭徳懐大事年表(1920年—1929年)”. 中国共産党新聞網. 2016年11月10日閲覧。
- ^ 田中信夫・葛原和三・熊代将起・藤井久 『戦場の名言 指揮官たちの決断』P・183(草思社 2006年)
- ^ 田中恒夫「彭徳懐と金日成」『図説 朝鮮戦争』河出書房新社〈ふくろうの本〉、東京、2011年4月30日、初版発行、83頁。
- ^ a b c 沈志華 2016, p. 192.
- ^ 沈志華 2016, pp. 192–193.
- ^ a b c 沈志華 2016, p. 193.
- ^ a b 沈志華 2016, p. 194.
- ^ 沈志華 2016, pp. 195–196.
- ^ a b c 沈志華 2016, p. 196.
- ^ 毛里 2004, pp. 180–181.
- ^ 北海閑人『中国がひた隠す毛沢東の真実』(草思社、2005年)。
- ^ 「最後の闘争―伯父・彭徳懐を偲ぶ」、『沈思 証言が伝える文化大革命』(周明編、袁海里訳、原書房、1990年)。
- ^ (一九七八年十二月二十二日採択)中国共産党第十一期中央委員会第三回総会コミュニケ
- ^ 中国共産党第十一届中央委員会第三次全体会議公報 (中国語)
- ^ 揚継縄『毛沢東 大躍進秘録』(文芸春秋、2012年)P・255
- ^ a b 矢吹晋『毛沢東と周恩来』(講談社〈講談社現代新書〉、1991年)、124 - 126ページ。このうち、毛沢東への態度に関する部分は、毛沢東の元秘書である李鋭の回想からの引用である。
- ^ 李志綏『毛沢東の私生活』P・510 (文芸春秋社〈文春文庫〉 1996年)
- ^ 人民网 文史频道《国家人文历史》庐山会议,彭德怀骂了毛泽东什么使众人都不敢说话【5】 この時の彭徳懐の発言は「在延安,你操了我四十天娘,我操你二十天的娘還不行?(延安にいる時、お前は俺の母親を四十日犯したのだから、俺がお前の母親を二十日犯したらいけないのか)」というものだった。
- ^ 李志綏『毛沢東の私生活』上巻 P・515~516(文芸春秋社 〈文春文庫〉 1996年)
- ^ 楊継縄『毛沢東 大躍進秘録』p・273 (文芸春秋社 2012年)
- ^ 厳家祺、高皋『文化大革命十年史 上』(岩波書店、1997年)。
- ^ 平岩俊司『北朝鮮―変貌を続ける独裁国家』中公新書、2013年、57-59頁
- ^ 下斗米伸夫『アジア冷戦史』中央公論新社〈中公新書1763〉、東京、2004年9月25日、初版発行、118-120頁。
- ^ a b 和田春樹 『朝鮮戦争』岩波書店、1995年、45頁。
- ^ 田中・葛原・熊代・藤井 『戦場の名言 指揮官たちの決断』P・182 (草思社 2006年)
- ^ “"그 사람은 몇백명 데리고 싸움한 사람 아닌가?"…노골적으로 김일성 무시한 펑더화이” (朝鮮語). Premium Chosun. (2014年5月20日) 2022年3月23日閲覧。
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