第一次世界大戦へのアメリカの関与に対する反対
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「ロバート・M・ラフォレット・シニア」の記事における「第一次世界大戦へのアメリカの関与に対する反対」の解説
上院議員としてのラフォレットの最も顕著な立場の一つは、おそらく第一次世界大戦へアメリカが参戦することに対する反対であり、ウッドロウ・ウィルソン大統領戦時政策を批判したことで失敗した。歴史家のトマス・ライリーは当時の共通の感覚を要約し、「戦争に反対した者の誰よりもラフォレットは紛争に反対しウィルソンの政策を非難する象徴的立場だった」と言っている。ラフォレットはウィルソンの国内政策の大半は慎重に支持したが、1916年までにその外交政策については批判の度合いを増した。 1917年から1918年の間、ラフォレットはアメリカが戦争に関与する権利が無く、嘘と欺瞞で引きずり込まれたと主唱して、多くの者の目には国中で最も嫌われている者と映った。ラフォレット達第一次世界大戦参入に反対した者は(さらにはヴェルサイユ条約批准に反対した者)、妥協しない人と呼ばれた。 第一次世界大戦においてラフォレットは当初からどちらの側にも反対した。大統領に商船を武装させる権限を与える武装船舶法の成立を妨害する指導者だった。この手段に反対する演説では、その主要な支持者はイギリスで結成された国際商船会社に従属する者だと指摘した。彼の目にはこの法案が、「イギリス海軍本部からの命令を受ける」イギリス船主にアメリカの砲手が役だっているように見えた。「中立国であると宣言する我々はアメリカの大砲やアメリカの砲手を事実上イギリス海軍本部の命令下においている。」この手段に対するラフォレットの反対はウィルソン大統領をして、「彼等自身の考え以外の何も代表しない頑固な人の小さな集団」の一部と呼ばせた。ほとんどの報道発信地は論説や政治風刺漫画でラフォレットを非難した(あるものではラフォレットが鉄十字勲章(ドイツの勲章)を受ける姿を描いて嘲笑した)。 戦争に参入することに対するラフォレットの頑固な立場に、上院議員ジョン・シャープ・ウィリアムズはラフォレットのことを「ドイツ人寄り、ゴート族寄りにかなり近く、ヴァンダル族寄り」と呼ぶことになった。ラフォレットは新聞の論説や政治風刺漫画で非難された。アメリカが戦争に参入した後は、徴兵制、スパイ法および大統領の戦費調達対策に反対する指導者となった。 1917年8月11日、ラフォレットは戦争目的決議案を提案し、アメリカが「その戦略目標をはっきり宣言すること、領土併合の目的での戦争継続を非難すること、および連合国が即座に休戦条件を再表明することを要求すること、を盛り込んだ。 1917年9月20日、ミネソタ州セントポールでの非政党同盟集会で演説を行い、戦費課税を論じた。聴衆の質問に答える形で、アメリカは「苦情を受ける」一方で、「ドイツ人の手で」戦争を引き起こすには十分でなかったと言った。「私は、アメリカ市民の権利が外国の旗をなびかせる船に載せた弾薬にかかっているという比較的小さな特権では、あまりに小さ過ぎてこの政府が何百万もの命を失うことに関与できない、と言っているのだ。」ラフォレットは、大統領がルシタニア号に弾薬が載っていることを識っていたが、アメリカ人が乗船することを妨げなかったと主張した。多くの聴衆が喝采したあとで、続いて戦時の言論の自由を弁護すると、結語の後でスタンディング・オベーション(起立して拍手喝采すること)を受けた。 この演説には3つの速記録があったが、AP通信がラフォレットは「我々はドイツに対して苦情は無い」と言い、ルシタニア号の沈没は正当化されると言ったと誤引用した。APはさらにこの集会は不実だと決めつけた。ラフォレットは国中の発言者や編集者によって裏切り者と呼ばれた。 歴史家のデイビッド・セレンは、セントポール演説の後ラフォレットが「反戦論者を抑圧する公的運動と自警団運動の主要対象になった」と報告している。多くの組織がラフォレットの除名を要求する決議案を連邦議会に送った。この中には影響力有るミネソタ州公安委員会が1917年9月29日に上院に送ったものも含まれていた。ラフォレットは不実と扇動という告発に反応して上院で演説を行える時間を手配してくれるよう要求した。 その演説は1917年10月6日ということになった。議会におけるラフォレットの敵対者達がそのスケジュールを操作して、ラフォレットの後で彼等が演説出来るようにし、いかなる反論も出来ないようにした。大衆は劇的な展開を感知して傍聴席を埋め、上院議員の大半は全ての演説が聴けるように出席することを保証した。ラフォレットは演台に上ると、戦時の言論の自由を守るために用意した演説を感情を押さえ客観的な態度で読み上げた。ラフォレットが演説を終えると同時に拍手の爆発が起こり、議長が小槌を叩いて静粛を求める必要があった。この演説は「戦時の言論の自由を求める古典的議論」として今も支持されている。 ラフォレットの演説後、フランク・B・ケロッグ(ミネソタ州)、ジョセフ・テイラー・ロビンソン(アーカンソー州)およびアルバート・B・フォール(ニューメキシコ州)各上院議員が順番に戦争に関するラフォレットの姿勢を攻撃した。ロビンソン上院議員はウィルソンと民主党の闘争的で激しい党派心の強い擁護者だった。その演説は「最近7ヶ月間に行われたラフォレットに対するバラバラな攻撃を合成し、演説が進むとより扇動的にかつ悪口になっていった。ロビンソンの攻撃の辛辣さによって議場や傍聴席は完全な沈黙に陥った。 UPI通信社の特派員はロビンソンの演説を「上院でかって聞いたこともないような最も慎みのない言葉」と表現した。ラフォレットはその議席に微動だにせず座っており、ロビンソンがその拳をラフォレットに向けて振ったときですら変わらなかった。ロビンソンはその演説の結語近くで、上院の慣習を犯し、その仲間に直接話し掛け、ラフォレットを指差しながら「私は貴方の拠って立つところを知りたい」と叫んだ。ラフォレットは閉会まで他の上院議員に反論するために演台に上ることを認められていなかったが、フォール上院議員は簡単な声明を行うことを認めた(このときラフォレットはセントポールで話した全てのことを具体化する準備をしており、仲間の上院議員からなされた攻撃に対して反論する機会を望むと言明した)。ラフォレットのその後の上院在任期間を通じて、その敵対者達はラフォレットが不実の告発で再び演説を許されないよう手続的な操作を行った。 ラフォレットの第一次世界大戦へのアメリカ参入反対は、彼と学術上の友人の間で訣別を生んだ。ラフォレットは反戦ドイツ系アメリカ人の間に新しい支持基盤を得た。皮肉なことにその息子フィリップ・ラフォレットは第一次世界大戦でアメリカ軍士官として従軍した。
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