真理と道徳について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:16 UTC 版)
「反デューリング論」の記事における「真理と道徳について」の解説
デューリングという人物は、ニュートンの万有引力の法則やカントの道徳理論に影響を受け、世界には永遠不変の「真理」があると固く信じていた。 加えて、デューリングはこれら「真理」を発見できる人間の思考には至上性があり、道徳はこうした「真理」と思考の至上性の顕れとして理解していた。しかし、歴史を紐解くと不変の「真理」や永続的な道徳的価値観というものは存在しない。また、人間の思考には歴史的な発展の道のりがあって、地上に君臨するような特別の至上性はない。科学的事実についての真理はありえるが、個々の自然的社会的事象に関する法則性とその特性の理解というのが実際の形態で、仮説の提示とその立証の過程、解明されるに至る学問的背景が存在している。科学的事実は観察や実験の結果に関する報告から作り出されるものである以上、抽象的な意味での「真理」ではないのであって、既知の知識というものは後代の研究者によって反証される可能性も含んでおり、至上性を主張して永遠に君臨できるものでは到底ない。デューリングの科学観は非学術的な立場に立つものであった。 科学的知識には、個々の学問領域の独自性から研究手法が異なり、専門性に由来する「知識の特性」というものがある。 第一に、天文学や物理学、化学の領域では物質の特性に応じた固定的な法則性が存在し、その法則が大きく変わることはないため、永遠不変の法則というものが存在しえる。しかし、人間の思考には歴史的な向上に紆余曲折があり、天動説のように誤謬と偏見によって物事の実態とは異なる観念に支配されることは往々にして存在しているため、知識の相対性ゆえに限界にぶつかることがある。また、エンゲルスも指摘しているが、数学理論にも大きな革新や物理学にも力学現象に関する理解の仕方が変化することがあるため、当然ながら知識の絶対性や至上性というものはない。第二に、生物学では諸現象の連関関係が複雑で、単純な反応の法則性の探求では全体像を把握するのは難しい面がある。実際に、進化論は生物学上の最大の発見となったが、単一の理論に収れんするのではなく多様な学説を生み出していったように、一つの事象についても単純化は困難で理論化には長い時間と活発な学術論争が必要となる。医学の場合、問題の複雑さと困難さはとりわけ顕著で、単純に学術的な結論を得るのは容易なことではない。第三の歴史学、社会学、経済学など社会科学ではさらに単純化が難しくなる。歴史学について言うと、歴史に関する永遠不変の真理を得ようとすると意味を含まない年表的な事実の羅列へと転落してしまうであろうとエンゲルスは語っている。歴史的事象に関する論議は、複数の視点に基づいて様々に論じることを通じ多角化していく傾向をもっている。社会変動の法則性を重視する社会学にも視点の多角化による理解の深化の余地は多く、一知識や一見解に絶対性も至上性も認めることはできない。 結論的に、学術研究はいかに優れたものであっても、後世の世代による研究の余地がつねに存在しており、先達の研究を批判的に乗り越えて深層に迫っていくことが学問の向上につながっていると考えられる。デューリングの学問への姿勢はこうした基本的な前提を軽んじていると見なせる。エンゲルスはデューリングらによる知識の極端な単純化と絶対化を危険視したと言える。 これは道徳に関しても同様である。道徳は民族と国家を超えて普遍的に存在して、無条件に通用する絶対的なものとして理解されている。しかし、歴史的・文化的な背景が異なる国々は慣習がことなり、当然ながら道徳も異なる形態をもつ可能性は十分に存在する。また、同じ国と地域でも時代の変化によって道徳観が変化していく例は大いにあり、「本当の真理は決して変化することのないもの」とは言い切れないのである。このことは階級間についても言えることで、エンゲルスはこう述べている。 「道徳の世界にも歴史や民族的差異を超越した永続的な諸原理があるという口実のもとに、なんらかの道徳的教義学を、永遠の、決定的な、将来にわたって、不変な道徳律としてわれわれに押しつけるような不当な要求を、われわれはすべてを拒否するのである。その反対にわれわれは、従来のすべての道徳説が、終局においては、その都度都度の経済的社会状態の産物であることを主張する。そして社会がこれまで階級対立のかたちで動いてきたのと同様に道徳というものはいつも階級道徳であった。……階級対立を超えた、そして階級対立の思い出をなくしてしまった、真に人間的な道徳は、階級対立を単に克服したばかりでなく生活上の実践においてもそれを忘れてしまった社会段階において初めて可能となるのである。」 この点については具体的な歴史的事例を参考に検討してみよう。 古代のユダヤ人の世界では、エルサレム神殿において犠牲獣を神に捧げることが真の道徳とされていたが、これは階級道徳の典型例である。イエス・キリストが登場すると、こうした富裕な特権階級にしか不可能な儀式は旧来的な階級道徳として批判され、魂に基づく祈りと同胞に対する無私の隣人愛が、神に対して真に価値ある犠牲と位置づけられ、キリスト教のもとに道徳の革新が図られた。また、日本の武家社会では家社会の倫理観が支配的で、女性は子供を産むことが唯一の存在価値とされ、男性は出世や同盟などの利害で妻を捨てても良いとされており、男性も女性も主人と家に忠実であることが道徳的とされた。しかし、近代にはいると女性の地位は向上し、女性は子供を養育するパートナーであり、産業社会の一員としても働くことが期待された存在へと転換し、一夫一婦的な夫婦間道徳が支配的となっている。このように、キリスト教にも核家族的な道徳にも同時代の経済的社会状態の反映が見られ、エンゲルスの言に基づき、現在なお「われわれは階級道徳を超えるところまではいっていない」というのが道徳の真実であると理解するのが正確であろう。
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