甲斐武田家の時代とは? わかりやすく解説

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甲斐武田家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/30 04:53 UTC 版)

朝比奈信置」の記事における「甲斐武田家の時代」の解説

信置は武田信玄から庵原領を与えられ、「信」の文字一字拝領し、駿河先方衆筆頭150騎持)として重用された。庵原城領の信置は遠江国高天神城領の小笠原信興と共に武田勝頼期に追認された在城主典型例評されている。庵原郡江尻城武田氏駿河支配拠点穴山信君城代となっており、穴山氏庵原郡一円支配及ぼし領域支配を持つ支城としての江尻領」を形成していたともいわれる天正3年1575年)の長篠の戦い従軍し天正8年1580年)には持船城城代にもなった。持船城天正10年1582年2月から織田信長徳川家康連合軍による武田征伐開始されると、持船城徳川軍攻められ2月21日開城する。庵原山城徳川軍落とされた。武田勝頼自刃して武田家滅亡した後の4月8日織田信長命令により自刃した。享年55嫡子・信良も甲斐武田家滅亡の際に諏訪織田軍によって殺されている。

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甲斐武田家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 03:31 UTC 版)

岡部元信」の記事における「甲斐武田家の時代」の解説

武田氏降伏後駿河先方衆として仕えたが、元信以前弟らと所領問題争った経緯もあったせいか一族統率が十分取れていなかったらしい。実際に甲陽軍鑑』の「信玄公御代人数之事」では、同じ駿河先方衆筆頭立場ある朝比奈信置は150騎、同族元信より先に武田氏降伏した岡部正綱50騎を動員しているのに対し元信10騎のみであり駿河先方衆の中で最も少ない。このように元信基盤脆弱なものであったが、今川氏時代から信玄個人的な関係があったこと、岡部氏海賊衆統率深く関わっていたことから岡部氏惣領として認められ武田氏重用されるようになる実際に元亀4年1573年)の信玄死後、跡を継いだ武田勝頼によって義元隠居屋敷への居住許可され子息甲府旗本として出仕させるなど露骨な優遇策とられるうになる武田氏信玄晩年とその後の勝頼の代になると徳川領である三河遠江方面攻勢をかけ、天正2年1574年6月に勝頼が遠江高天神城を落とす(第一次高天神城の戦い)。しかし、天正3年1575年5月織田信長徳川家康連合軍前に武田勝頼長篠の戦い大敗すると、徳川軍による遠江方面反攻開始され二俣城犬居城・諏訪原城などが攻略される。元信この際駿遠国境に近い小山城在番しており、8月26日より徳川軍攻撃を受けるが、猛攻を耐え凌ぎ9月7日に勝頼が後詰率いて着陣するまで城を守り通したその後家康遠江侵攻何度も阻み天正2年1574年時点528であった知行が同5年1577年時点では総計2215貫に増加するまた、海賊衆統括する立場であった土屋貞綱戦死後後継土屋昌恒甲府に勝頼側近として出仕していたため、昌恒の代わりに海賊衆統括する立場として元信あたった元信の娘が土屋昌恒婚姻する背景にはこのような事情があったと考えられている。こうした武功駿河遠江海賊衆統括立場から天正7年1579年)に高天神城城将抜擢され遠江方面軍事指揮権一任される。武田家中において譜代以外で一方面の軍事指揮権保持するのは他に真田氏のみである。 家康正攻法高天神城を落とすのは難しいと考え天正8年1580年10月から高天神城周囲多く付城や砦を築き刈田行なって兵糧攻め持ち込んだ第二次高天神城の戦い)。元信は勝頼に後詰求めたが、勝頼は北条氏政対峙していた上に織田徳川軍正面衝突する事を恐れて後詰送れなかった。そのため天正9年1581年3月になると高天神城兵糧は底を尽き城兵草木かじって飢え凌いだ元信覚悟決めて残った諸将集めて軍議開き、「この城に入った時から生きて帰ろうとは考えていない信玄公・勝頼公の恩義報いるために打って出る」と覚悟表明した。そしてその日の夜、元信城兵に酒を与えて最後訣別の宴を開いた3月22日10時過ぎ、元信残った城兵率いて徳川軍の最も手薄見られ石川康通の陣に突撃敢行した。これに対し大久保忠世大須賀康高らが迎え撃った城方先頭の将を迎撃したのは忠世の実弟忠教で、忠教はまさか元信先頭立って突撃して来たとは思っていなかったため、最初太刀をつけると後は家臣本多主水任せて他の敵の追討向かった主水元信組討ち勝負挑み元信果敢に応戦したが、急坂転げ落ちたところを討ち取られた。享年に関して70歳近かった推測されている。 主水討ち取った時はまさか敵の総大将とは思っておらず、首実検元信分かって驚愕したという。また大久保忠教は「城の大将にて有ける岡部丹波をば、平助太刀づけて、寄子本多主水打たせけり。丹波名のりたらば、寄り子に打たせましけれども、名のらぬうへなり」と『三河物語』大敵逸した悔しさ述べている。 元信と共に玉砕した城兵730余に及んだ家康は自らを何度も苦しめた元信討ち取ったことを喜び、その首級安土城信長の許に送り届けたという。

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