甲斐武田家の時代
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信置は武田信玄から庵原領を与えられ、「信」の文字を一字拝領し、駿河先方衆筆頭(150騎持)として重用された。庵原城領の信置は遠江国高天神城領の小笠原信興と共に武田勝頼期に追認された在城主の典型例と評されている。庵原郡の江尻城は武田氏の駿河支配拠点で穴山信君が城代となっており、穴山氏は庵原郡一円に支配を及ぼし、領域支配諸権を持つ支城領としての「江尻領」を形成していたともいわれる。 天正3年(1575年)の長篠の戦いに従軍し、天正8年(1580年)には持船城の城代にもなった。持船城は天正10年(1582年)2月から織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が開始されると、持船城は徳川軍に攻められて2月21日に開城する。庵原山城も徳川軍に落とされた。武田勝頼が自刃して武田家が滅亡した後の4月8日、織田信長の命令により自刃した。享年55。嫡子・信良も甲斐武田家滅亡の際に諏訪で織田軍によって殺されている。
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甲斐武田家の時代
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武田氏に降伏後は駿河先方衆として仕えたが、元信は以前弟らと所領問題で争った経緯もあったせいか一族の統率が十分取れていなかったらしい。実際に『甲陽軍鑑』の「信玄公御代惣人数之事」では、同じ駿河先方衆の筆頭的立場である朝比奈信置は150騎、同族で元信より先に武田氏に降伏した岡部正綱は50騎を動員しているのに対し、元信は10騎のみであり駿河先方衆の中で最も少ない。このように元信の基盤は脆弱なものであったが、今川氏時代から信玄と個人的な関係があったこと、岡部氏が海賊衆の統率に深く関わっていたことから岡部氏惣領として認められ、武田氏に重用されるようになる。実際に元亀4年(1573年)の信玄死後、跡を継いだ武田勝頼によって義元隠居屋敷への居住を許可され、子息を甲府に旗本として出仕させるなど露骨な優遇策がとられるようになる。 武田氏は信玄の晩年とその後の勝頼の代になると徳川領である三河・遠江方面に攻勢をかけ、天正2年(1574年)6月に勝頼が遠江高天神城を落とす(第一次高天神城の戦い)。しかし、天正3年(1575年)5月、織田信長・徳川家康連合軍の前に武田勝頼が長篠の戦いで大敗すると、徳川軍による遠江方面の反攻が開始され、二俣城・犬居城・諏訪原城などが攻略される。元信はこの際に駿遠国境に近い小山城に在番しており、8月26日より徳川軍の攻撃を受けるが、猛攻を耐え凌ぎ翌9月7日に勝頼が後詰を率いて着陣するまで城を守り通した。 その後も家康の遠江侵攻何度も阻み、天正2年(1574年)時点で528貫であった知行が同5年(1577年)時点では総計2215貫に増加する。また、海賊衆を統括する立場であった土屋貞綱の戦死後、後継の土屋昌恒が甲府に勝頼側近として出仕していたため、昌恒の代わりに海賊衆を統括する立場として元信があたった。元信の娘が土屋昌恒と婚姻する背景にはこのような事情があったと考えられている。こうした武功と駿河・遠江の海賊衆の統括の立場から天正7年(1579年)に高天神城の城将に抜擢され、遠江方面の軍事指揮権を一任される。武田家中において譜代以外で一方面の軍事指揮権を保持するのは他に真田氏のみである。 家康は正攻法で高天神城を落とすのは難しいと考え、天正8年(1580年)10月から高天神城の周囲に多くの付城や砦を築き、刈田を行なって兵糧攻めに持ち込んだ(第二次高天神城の戦い)。元信は勝頼に後詰を求めたが、勝頼は北条氏政と対峙していた上に織田・徳川軍と正面衝突する事を恐れて後詰を送れなかった。そのため天正9年(1581年)3月になると高天神城の兵糧は底を尽き、城兵は草木をかじって飢えを凌いだ。元信は覚悟を決めて残った諸将を集めて軍議を開き、「この城に入った時から生きて帰ろうとは考えていない。信玄公・勝頼公の恩義に報いるために打って出る」と覚悟を表明した。そしてその日の夜、元信は城兵に酒を与えて最後の訣別の宴を開いた。 3月22日夜10時過ぎ、元信は残った城兵を率いて、徳川軍の最も手薄と見られた石川康通の陣に突撃を敢行した。これに対し、大久保忠世や大須賀康高らが迎え撃った。城方の先頭の将を迎撃したのは忠世の実弟の忠教で、忠教はまさか元信が先頭に立って突撃して来たとは思っていなかったため、最初の太刀をつけると後は家臣の本多主水に任せて他の敵の追討に向かった。主水は元信に組討ち勝負を挑み、元信は果敢に応戦したが、急坂を転げ落ちたところを討ち取られた。享年に関しては70歳に近かったと推測されている。 主水は討ち取った時はまさか敵の総大将とは思っておらず、首実検で元信と分かって驚愕したという。また大久保忠教は「城の大将にて有ける岡部丹波をば、平助が太刀づけて、寄子の本多主水に打たせけり。丹波と名のりたらば、寄り子に打たせましけれども、名のらぬうへなり」と『三河物語』で大敵を逸した悔しさを述べている。 元信と共に玉砕した城兵は730余に及んだ。家康は自らを何度も苦しめた元信を討ち取ったことを喜び、その首級を安土城の信長の許に送り届けたという。
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