諏訪原城とは? わかりやすく解説

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諏訪原城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/02 02:05 UTC 版)

諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった戦国時代日本の城山城)である。諏訪之原城とも書く。甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。徳川氏時代の城名は牧野城。『家忠日記』には牧野城のほか牧野原城とも記載。東照宮御実紀(徳川実紀)に、牧野の城(諏訪原をいふ)と記載。


  1. ^ 当時は徳川方の城、城主は小笠原長忠
  2. ^ 金谷町史編さん委員会『金谷町史 通史編 本編』(2004年) p.233
  3. ^ 島田市教育委員会島田市博物館『国指定史跡 諏訪原城跡整備基本計画』(2011年) P1
  4. ^ 城主室賀・小泉→『寛政重修諸家譜』巻第373・松平康親の項。なお、馬場信房の築城時は一説に城の縄張りを今福友清(淨閑斎)が関与し、その子今福顕倍(丹波守)が守ったとされ、室賀・小泉はこの時に寄騎として添えたものともいう。
  5. ^ 光西寺松井家文書によると、徳川家康判物として、天正4年(1576年)3月17日、松平甚太郎・同周防守宛てで、「牧野城番、其方相添依申付」とあり、家忠日記の牧野城番の松平甚太郎(家忠、東条松平家)と符合する。 家忠日記によると、天正6年(1578年)5月10日に、遠州牧野松平甚太郎(牧野城番)とある。天正6年8月7日に、牧野城が、松平甚太郎から西郷孫九郎家員に番替えとある。天正6年8月8日に、松平家忠(主殿助、深溝松平家)が、牧野城の堀普請、20日に完成。天正7年(1579年)3月7日に、松平家忠西郷家員(西郷孫九郎家員)に代わり、城番。天正8年(1580年)4月18日に、松平家忠が、西郷家員に代わり、牧野城を守るとある。城番変遷;(松平甚太郎→西郷→家忠→西郷→家忠) これらのことから、松平康親、牧野新次郎(康成)は、牧野城番の城主ではなく、牧野城の定番衆の一員であることがわかる。
  6. ^ 改名についての記述は『新訂・寛政重修諸家譜第六』(續群書類従完成会編)の巻第364の牧野康成・同巻第373の松平康親(松井忠次)の各項に詳しい。
  7. ^ 『常山記談』本文;「『松平忠次諏訪原城を守らるゝ事』、「天正三年八月東照宮諏訪原の城を攻させ給ふ。此の城は甲州馬場美濃守氏勝が、城制の法にてきづきたりし名高き城なりといへども、城兵力弱りて、廿四日の夜城を棄て小山の城に迯落けり。東照宮、此の地は高天神に往来の要路、駿州田中持船の敵と、大井川一筋を隔たり。勝頼必ず隙を伺ふべし。誰か此に在て城を守り、敵を防ぐべき、と仰有けるに、松平左近忠次すゝみ出、身不肖に候へども、此の城を守り申べし、と申ける。御感有て松平の姓を賜はり、御諱の字を下され、松平周防守康親と申せしは此の時よりの事なり。勝頼が暴悪殷の紂王に似たり。これより攻入て打ほろぼすべき、とて。」
  8. ^ 『家忠日記』は、国立国会図書館・近代デジタルライブラリーで『文科大学史誌叢書・家忠日記』(明治30年11月25日刊・校訂本)として読むことができる。なお、常山記談は、江戸時代中期成立の湯浅常山が巷にあふれる伝聞を基にした随筆で史実を反映しているものではない。
  9. ^ コミュニティバスの路線と時刻表”. 島田市公式ホームページ (2022年4月12日). 2022年6月24日閲覧。


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