地勢と構造とは? わかりやすく解説

地勢と構造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 19:06 UTC 版)

新府城」の記事における「地勢と構造」の解説

甲府盆地西部位置する八ヶ岳岩屑流釜無川塩川侵食して形成され七里岩台地上に立地する平山城西側侵食崖で、東に塩川流れる。 石垣使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪帯曲輪などにより構成され、丸馬出し三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持つ。ちなみに本曲輪・二の曲輪躑躅ヶ崎館本曲輪・西の曲輪相当し規模同程度であることから政庁機能を持つ施設考えられる近年発掘作業間伐など整備がなされ、甲州流築城術特徴である丸馬出し三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸排水施設などの遺構確認できるようになったまた、陶磁器類も出土している。支城として白山城能見城がある。 勝頼期の武田家築城特徴として、台地突端部(側面背後断崖や川)を利用し戦闘正面限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力側方に流すような構造挙げられる具体的には、正面の丸馬出しより城側面に続く比較的深い堀を敵兵歩かせる横矢掛け敵兵攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵無力化できる。同様な構造代表的な城に遠江では諏訪原城小山城信濃では大島城がある。ただし、新府城場合は現在遺構とされる城跡ではなく能見城中心とする新府城北方防塁跡にこの構造見られ浅野家文庫諸国古城之図)、上に挙げた城に比べその規模の大きさ群を抜く。また能見城防塁複雑に屈曲し最大限横矢掛けられるような構造となっており防塁多数配置されている。 ただし諏訪原城発掘調査から現在見られる縄張徳川家整備したことが判明しており、新府城北側防塁天正壬午の乱時に徳川家構築したものとの説がある。 このような大規模な構造から、少なくとも数千から単位兵力による運用前提となるようである。実際天正壬午の乱においては徳川家康北条氏直の軍に対す本陣として使用されている。 有効であったかどうか定かではなく意見分かれるところだが、新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は江戸時代築かれ洋式城郭である五稜郭設計思想同様の突出部分の敵と当たる面積抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力投射するためのものである考えられる使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7-8キロメートル東西2キロメートルという周辺の自然地形全体軍事的意味をもっていたことを考慮入れれば非常に大規模な城であり、武田家代表する甲州流築城術集大成となる城である。

※この「地勢と構造」の解説は、「新府城」の解説の一部です。
「地勢と構造」を含む「新府城」の記事については、「新府城」の概要を参照ください。

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