濱口首相遭難事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:04 UTC 版)
濱口内閣の政策は激しい攻撃に晒され、その反発はやがて銃撃事件として噴出する。 1930年(昭和5年)11月14日、濱口は現在の岡山県浅口市で行われる陸軍の演習の視察と、昭和天皇の行幸への付き添い及び自身の国帰りも兼ねて、午前9時発の神戸行き特急「燕」に乗車するため東京駅を訪れる。午前8時58分、「燕」の1号車に向かって第4ホームを移動中、愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃された。銃撃された首相は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていたが、弾丸は骨盤を砕いていた。自身の回想によれば、銃撃の直後は小さな音とともに腹部に異状を感じたが、激痛というべきものはなく、ステッキくらいの物体を大きな力で下腹部に押し込まれたような感じであったと云い、同時に「うむ、殺ったな」「殺されるには少し早いな」というような言葉が脳裏に浮かんだという。駅長室に運び込まれた濱口首相はかけつけた東京帝国大学外科学主任教授の塩田広重の手によって輸血が施され、様態の安定に伴い、東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、同病院にて腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた。 当時、原敬暗殺事件以降、駅における首相の乗降時は一般人の立ち入りを制限していたものの、首相自身の「人々に迷惑をかけてはならない」との意向により、立ち入りは制限されていなかった。また、銃撃発生当時、同ホームではソビエト連邦に向けて赴任する広田弘毅大使が出発しており、見送りに万歳三唱を行っていた幣原喜重郎外相やその他多勢は、当初銃撃に気付かなかったといい、広田大使らを乗せた列車もそのまま出発している。その後、銃撃に気付いた幣原外相は事件直後に搬送された駅長室に首相を見舞っている。犯人である佐郷屋は「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述したが、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかったという。 入院中は幣原外相が臨時首相代理を務め、濱口首相は翌1931年(昭和6年)1月21日に退院した。しかし、野党・政友会に所属する鳩山一郎らの執拗な登壇要求に押され、同年3月10日、無理をして衆議院に姿を見せ、翌11日には貴族院に出席している。それでも政友会からの議場登壇要求は止まず、18日には登壇するも声はかすれ、傍目にも容態は思わしくなかった。4月4日に再入院した首相は翌5日に手術を受け、これ以上の総理職続行は不可能と判断。4月13日に首相を辞任した。民政党総裁も辞任し、退院後は療養に努めたものの、治療の甲斐なく8月26日午後3時5分にアクチノミコーゼ(放線菌症)のため死去。享年62(満61歳没)。民政党を牽引してきた濱口の死は党内に後継者をめぐる対立を引き起こすことになる。 濱口の死因に関しては、後日濱口が放線菌の保有者であり、その細菌が傷口に侵入して化膿したことによる症状の悪化であると判明したため、犯人である佐郷屋の裁判では、被告の罪状が殺人罪と殺人未遂罪のどちらが適用されるべきか大いに紛糾した。審理の結果、狙撃と死亡との間に相当因果関係がないとして、殺人未遂罪が適用されたものの、1933年(昭和8年)の判決の内容は死刑であったが、1934年(昭和9年)に恩赦で無期懲役に減刑され、1940年(昭和15年)11月に仮出所している。佐郷屋に凶器のモーゼルC96を渡した岩田愛之助と松木良勝も幇助の罪で逮捕され、岩田は懲役4年、松木は懲役13年の判決を受けた。 襲撃現場に当たる位置は現10番線で、現在も東海道本線(在来線)ホームで8号車乗り場付近であるが、ホームには目印などはない。真下に当たる中央通路の新幹線中央乗換口付近(圓鍔勝三作『仲間』の彫刻の後方)に、事件の概要を記したプレートと床面に埋め込まれた印がある。
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