清代及び近代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:13 UTC 版)
女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸民族を満洲(人)と統合し、国号を清と改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“氵(さんずい)”が付いているのは、五行の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる。多民族国家である清のもとで、満洲人は八旗と呼ばれる8グループに分けられた集団に編成されて、清を支える軍人・官僚を輩出する支配層を構成する主な民族となる。 清は、1644年に明が滅びると万里の長城以南に進出して明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた。清の歴代の皇帝は、漢人が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めたが、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも漢語が話されるようになり、習俗も漢化していった。 逆に、中国を扱った映画などの作品で見られる辮髪や両把頭やチャイナドレスは元来は満洲人の習俗であったものが清の時代に漢人の社会に持ち込まれたものである。まず、明との戦争に際し、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}敵味方の区別を容易にするため、[要出典]辮髪にするよう命じ、1644年の明朝滅亡後、清朝の統治者は満洲族の髪型と服装を本格的に強制し、漢人の服飾を身に付けることを禁止し文化を抑圧する態度を取った(「剃髪易服」 - 髪を剃り、服を替えるの意)。なお、一方では、それと引き換えに科挙、内閣、六部、そして地方に総督、巡撫を置き軍事・政治を管轄させりなど明朝の制度は存続させるなど、強硬政策と懐柔政策を併用した。 17世紀にはシベリアを獲得したロシア・ツァーリ国が不凍港を求めて南下政策を開始したため、満洲は清・ロシア間の係争地となった(清露国境紛争)が、1689年に両国間でネルチンスク条約が結ばれ、外満洲を含めた満洲全体が清の領土と確定した。しかし19世紀に清がアヘン戦争や太平天国の乱などによって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、1858年にはアイグン条約を結んで、清領とされてきた外満洲のうちアムール川左岸をロシア割譲し、ウスリー川以東を両国の共同管理とすることとなった。さらに2年後の1860年には北京条約によって、この共同管理地も正式にロシア領となった。 また、清領内においても、1860年までは、満洲人の故地である満洲は皇帝の故郷として保護され、漢人の移住は制限されていたが、1860年以降は開放策に転じ、漢人の農民が移住するようになった、中国史ではこれを闖関東と呼ぶ。これにより漢人人口が急増して、満洲人の人口や生活範囲を越した。 1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった溥儀を執政(のちに皇帝)として満洲国が建てられた(「満洲事変」を参照)。満洲国は日満蒙中朝の五民族による「五族協和」「王道楽土」を理念としており、国名に「満洲」が含まれているものの、満洲国の内部において自国が満洲人の国家として意識されていたわけではない。しかしながら満洲人においては建国後に帝政期成運動を起こすなど、満洲国に民族の復権を期待する向きも一部ではみられた。
※この「清代及び近代」の解説は、「満洲民族」の解説の一部です。
「清代及び近代」を含む「満洲民族」の記事については、「満洲民族」の概要を参照ください。
- 清代及び近代のページへのリンク