はっ‐き【八旗】
八旗
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八旗(はっき・ジャクン・グサ、満洲語:ᠵᠠᡴᡡᠨ
ᡤᡡᠰᠠ, メレンドルフ転写:jakūn gūsa)は、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。
- ^ 『新世界史図説』 帝国書院、1986年、p.69
- ^ 「重い兵」の意。漢人の中でも火器の扱いに長けたものを集めた専門の砲兵部隊として編成されたことによる。
- ^ 杉山清彦「大清帝国の支配構造 【マンジュ(満洲)王朝としての】」134-137頁。(岡田英弘編2009所収)
- ^ ejen(ᡝᠵᡝᠨ, 額眞):満洲語で「主」の意。
- ^ janggin(章京):漢語「将軍」を満洲語風に読んだ語がジャンギン(janggin)で、更にそれを漢語で音訳したのが「章京」。現代中国語(普通話)では「將軍 jiàngjūn」「章京 zhāngjīng」と発音するが、それぞれ清代の発音とは少し異なる。
- ^ https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php?act=Display/image/31747C02jSRs#7bC
八旗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
ヌルハチやホンタイジの時代には、亡命して満洲八旗となる漢人がいた。のちに撫順ニカン(尼堪)と台ニカンになる遼東半島出身の漢軍八旗が、女真に亡命する1618年から1629年の間のことであった。漢人に起源をもつ満洲氏族は、元々の姓を使い続け、清の満洲氏族一覧(英語版)で漢人起源のものとして記録された。 また、順治帝の時代以降、東北部に移った八旗には内地から編成された漢人も多数おり、東北部の満洲八旗の半数近くが漢人だった。康熙帝の時代には盛京の漢軍八旗が数千人削減されたが、この人たちは退役後も旗人の身分を持ったままで農民となった。漢軍八旗の選り抜き部隊の中には皇室付きの者もおり、満洲八旗に大挙して移行した。タイ・ニカン(tai nikan、台尼堪)とフシ・ニカン(fusi nikan、撫順尼堪)の漢軍八旗は、乾隆帝の命令により1740年に満洲八旗に移行している。 八旗は、皇帝から支給された土地(旗地)を使って生活費や軍馬などの費用を負担する制度だった。しかし旗人の経済は三藩の乱の後に奢侈が進んで次第に破綻し、雍正帝の時代になると、旗人は清政府から費用を支給されて生計を立てるようになった。このため雍正帝は八旗を改革した。
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