浅茅が宿
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雨月物語
(浅茅が宿 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 14:44 UTC 版)
『雨月物語』(うげつものがたり)は、上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本(よみほん)作品。
注釈
- ^ 第四版は、幕末、大坂心斎橋、河内屋源七郎の出版。四つの版のなかで、一番残存冊数が多い。三冊組に構成されている[1]。
- ^ 西行の初期の法名。ここで初めて、視点者は西行であることが明かされる。
- ^ 原話の「死生交」にも見える。
- ^ このころ、後の応仁の乱の原因にもなる畠山政長と義就の戦いがおこっていた。
- ^ 唐代の李復言の『続玄怪録』に収録された『薛偉』が原典であり、明代に『古今説海』に収録され題が付された。
- ^ 『古今著聞集』にも見える、実在した画僧であるが、伝未詳。大阪の絵師葛蛇玉がモデルとする中村幸彦の説がある[18]。
- ^ いくつかの和歌からの引歌でできており、井原西鶴『好色五人女』巻三からの影響も受けている[19]。
- ^ この当時、ブッポウソウの正体だと思われていた鳥はブッポウソウ目ブッポウソウ科に属するブッポウソウ。声のブッポウソウは、フクロウ目フクロウ科のコノハズクで、全く別の鳥である。
- ^ 未詳。俳諧の心得のあった、秋成自作の句か。
- ^ 木村常陸介、雀部淡路守、白江備後、熊谷大膳、粟野杢、日比野下野、山口少雲、丸毛不心、隆西入道、山本主殿、山田三十郎、不破万作、紹巴法橋
- ^ これも秋成の作か。「みじか夜」が夏の季語。
- ^ 西田維則訳『通俗西遊記』「源序」に似た言葉がある。
- ^ 中国曹洞宗永嘉大師玄覚の作。「入江を月が照らし、松の木に風が吹く。永遠に続くかのようなこの清らかな夜は、一体何のためにあるのか」という意味。
- ^ 瑞草が生え、日は高く昇って輝き、民は家に帰る、つまり、徳川家康の天下となる
出典
- ^ a b 長島(1998年)p.50
- ^ 高田(1997年)pp.443 - 444.
- ^ 大輪(1979年)pp.359 - 360
- ^ 高田(1997年)pp.135 - 136, 465 - 469.
- ^ 大輪(1979年)pp.315 - 316.
- ^ 坂東(1999年)p.1
- ^ 高田(1997年)p.451
- ^ 長島(1998年)p.51
- ^ 高田(1997年)pp.18 - 19.
- ^ 長島(1998年)pp.54 - 57.
- ^ 西行『山家集』下雑、詞書に「讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしまけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ」とある歌の二首目「松山の波の景色は変らじを形無く君はなりましにけり」
- ^ 前註の、一首目の歌。
- ^ 『保元物語』「新院御経沈めの事 付けたり 崩御の事」
- ^ 『山家集』下雑、「白峯と申しける所に御墓の侍りけるにまゐりて」と詞書のある歌。ここでは、第三句は、「むかしのたまのゆかとても」となっている。
- ^ 『三十六人集』「敦忠集」にある歌
- ^ 『万葉集』巻十四・三三八四「葛飾のままの手児奈をまことかも我に寄すといふ真間の手児奈を」
- ^ 高田(1997年)pp.175 - 176.
- ^ 大輪 (1979)pp.301, 302。
- ^ 長島(1999年)p.184
- ^ 『古今著聞集』「成光閑院の障子に鷄を畫く事」『成光、閑院の障子に鷄をかきたりけるを、實の鷄みて蹴けるとなん。此成光は、三井寺の僧興義が弟子になん侍りける』
- ^ 『風雅和歌集』巻十六・一七八八、詞書は「高野の奥の院へまゐる道に、玉川といふ河の水上に毒虫おほかりければ、此流を飲まじきよしをしめしおきて後よみ侍りける」。本居宣長の『玉勝間』にも、この歌の解釈を試みた文がある。
- ^ 『五雑俎』巻五
- ^ この描写は『水滸伝』第六回による。
- ^ 『常山紀談』『翁草』『老士語録』『続近世畸人伝』など
- ^ a b 司馬遷『貨殖列伝』に見える言葉。
- ^ a b c d 宝塚歌劇90年史 2004, p. 82、84、104.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 宝塚歌劇90年史 2004, p. 82.
- ^ a b c d e f g 宝塚歌劇90年史 2004, p. 84.
- ^ a b c d e f g h i 宝塚歌劇90年史 2004, p. 104.
- ^ 宝塚歌劇90年史 2004, p. 82、84.
- ^ “国立国会図書館オンライン | National Diet Library Online”. ndlonline.ndl.go.jp. 2022年10月10日閲覧。
浅茅が宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:23 UTC 版)
「浅茅が宿」の原拠は、『剪灯新話』 「愛卿伝」と、それを翻案した浅井了意 『伽婢子』 「藤井清六遊女宮城野を娶事」である。戦国時代の下総国葛飾郡真間郷に、勝四郎と妻の宮木が暮らしていた。元々裕福な家だったが、働くのが嫌いな勝四郎のせいで、家勢はどんどん傾いていき、親戚からも疎んじられるようになった。勝四郎は発奮し、家の財産を全て絹にかえ、雀部曽次という商人と京に上ることを決める。宮木を説得した勝四郎は秋に帰ることを約束して旅立っていった。関東はそのうち、享徳の乱によって乱れに乱れることになる。宮木の美貌に惹かれた男共が言い寄ることもあったが、これを断るなどして、宮木は心細く夫の帰りを待ちわびる。だが、約束の秋になっても、勝四郎は帰ってこないのだった。 一方夫の勝四郎は京で絹を売って、大儲けをした。そして関東の方で戦乱が起きていることを知って、急ぎ故郷に帰る途中、木曽で山賊に襲われて財産を全て奪われてしまった。また、この先には関所があって、人の通行を許さない状態だと聞く。勝四郎は宮木が死んでしまったと思い込み、近江へと向かった。ここで勝四郎は病にかかり、雀部の親戚の児玉の家に厄介になることになる。いつしかこの地に友人もでき、居つくようになり、七年の月日が過ぎた。近頃は近江や京でも戦乱がおき、勝四郎は宮木のことを思う。そして、故郷に帰ることにした。十日余りで着いたのは、夜になってのことだった。変り果てた土地の中、やっと我が家に辿り着いた。よく見ると、隙間から灯がもれている。もしやと思って咳をすると、向うから「誰(たそ)」と声がしたのは、しわがれてはいるけれどまさしく妻、宮木のものだった。 扉の向うから現れた妻は、別人かと思われるほど、変り果てた姿であった。宮木は勝四郎が帰ってきたのを見て、泣き出し、勝四郎も思わぬ展開に動転するばかり。やがて、勝四郎はことの経緯、宮木は待つつらさを語り、その夜はふたり、ともに眠った。次の朝勝四郎が目が覚めると、自分が廃屋にいることに気づいた。一緒に寝ていたはずの宮木の姿も見えない。勝四郎はやはり妻は死んでいたのだ、と分り、家を見て回っていると、元の寝所に塚がつくられているのがあった。そこに、一枚の紙があった。妻の筆跡で歌が書いてある。「さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か」これを見て勝四郎は改めて妻の死を実感し、伏して大きく泣いた。妻がいつ死んだのか知らないのは情けない話だ、事情を知っている人に会おう、と外に出ると、すでに日は高くなっていた。 近所の人に聞いて、ひとりの老人を紹介してもらった。老人は、勝四郎も知る、ここに古くから住む漆間の翁であった。漆間の翁は、勝四郎がいなくなったあとの戦乱で乱れたこの土地の様子、宮木が気丈にもひとりで待っていたが、約束の秋を過ぎて次の年の八月十日に死んだこと、漆間の翁が弔ったことを語り、勝四郎にも弔いをすすめた。その夜はふたりで、声をだして泣きながら、念仏をして明かした。そして、漆間の翁がこの土地に伝わる真間の手児女の伝説を語るのを聴いて、勝四郎は一首詠んだ。「いにしへの真間の手児奈をかくばかり恋てしあらん真間のてごなを」この話は、かの国に通っている商人から聞いたものである。
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