暴動論
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山谷や釜ヶ崎では1960年以降暴動が頻発したが船本はそれを分析してこのように述べた。 釜ヶ崎=山谷暴動に共通して言えることは、仲間が警官に差別的、非人間的に扱われたことに対する労働者の怒りの爆発として始まった点である。仲間がやられたことに対する、労働者個々人の日常的な屈辱感、怨念、怒りを背景とした大衆的反撃、下層労働者の階級的憎悪の集団的自己表現としての武装、これが暴動の内実である。暴動とは、日常的にやられ続けて泣寝入りさせられてきた「弱者」の「強者」たる敵=権力に対する心底からの怨みをたたきつける闘いであり、そうであるが故に、その戦闘行為は優れてゲリラ的、非妥協的、非和解的な階級闘争である。 —船本洲治『黙って野たれ死ぬな』2018年、p.215 だがしかし、船本はその弱点として、暴動の自然発生性の故に現在は労働者叛乱から労働者権力を構築する方向性を示しえていない。であるので『いかなる部分叛乱も、拡大、深化、普遍化への質を獲得しないかぎり、つまり組織的実践として実体化されないかぎり、限界を突破しえず後退する以外にない。ー船本洲治『黙って野たれ死ぬな』2018年、p.126』と述べている。 船本は1970年代前半までの暴動を分析して3期に分け、現在(1970年代前半)は第3期の圧力闘争の延長線上にあるが、これをやがては組織化して叛乱を権力とし、都市人民戦争へと拡大していかなければならないとする。 第一期は自然発生した寄せ場の暴動をいわゆる文化人が紹介した時期である。この世の中にはこんなに不幸な人がいるのだ、と市民社会に宣伝した。資本家秩序によって与えられた幸福を市民社会に自覚させるために。 第二期は、右翼組合主義者が暴動を陳情に利用した。改良のアメ玉をくれないから暴動が起きるのですよ、と。 第三期は左翼組合主義者が暴動を圧力闘争にすりかえた。改良のアメ玉をよこさないと暴動を起こすぞ、と。 山岡強一は 六八年六.一七,七.一九暴動によって、運動の力の発揮しようによっては暴動は起こせる、ということを知った以上、問題は暴動として噴出する内発の根拠を握み、そこに運動の根を下ろすことが求められる。しかし、実際はそうは展開せず、暴動を圧力闘争にすり替えた行政改良要求闘争が旧来より戦闘的になったにすぎなかった。内発の根拠とは資本と対決する現場を闘争の場として組織することで、労働現場であり、その現場への動員のされ方である。ところが、山谷労働者は日々雇用され、その都度解雇される雇用形態、更に就労も職安または手配師による路上求人と一定せず多岐にわたるため、工場労働者のようにはいかない。そこで、労働行政や福祉行政の政策を持ち出すのが手っ取り早いということになる。政策との対決が邪道だということではなく、資本が自らの矛盾として生み出した過剰労働力を、資本の生産活動の安全弁として利用するということにこそ、運命の出発点があるのだから、資本との直接対決がまず第一の課題とならなければならない。第三期の運動はそのことを自覚するようになる。そしてそれを最も自覚的に追求したのが釜共闘であり、現闘委であった。船本は、この第三期から更に一歩前進するために、三期区分の総括を出した。 —山岡強一「山谷ー釜ヶ崎の闘いの歴史と船本洲治」れんが書房新社発行『黙って野たれ死ぬな』、1985年、p.272 と述べている。 船本は そして現在、山谷・釜ヶ崎の情況は、この第三期の運動の延長であり、これは次の新しい運動を準備している。それは、結果的には暴動を準備しておきながら暴動が起るたびに動揺し、分解する組合運動とは異質な、叛乱を追求し、叛乱を貫徹し、叛乱を権力にまで高めようとする、非日常を日常化しようとする潮流である、まさしく意識分子の大衆運動が大衆暴動と合体しさらに大衆暴動が都市人民戦争として拡大・深化する建党・建軍の運動である。それは〈あるべきところ〉の軍事からではなく〈現にあるところ〉の具体的実践の試行錯誤の教訓から生まれるであろう。 —船本洲治『黙って野たれ死ぬな』2018年、p.127 としている。つまり暴動をブルジョアジーとの取引の道具ではなく、自ら権力を握るためのものとしなければならないとする。 山岡強一は船本の暴動論を総括し解説している まず第一に、自然発生性と意識性との鋭い緊張において把握されている点である。自然発生性を闘いの原動力として組織しようとするものでないなら、外部からの意識性は大衆の内発性にとって阻害物であるばかりか、他力本願に陥し入れ、自らの勝利への確信を奪うことになる。そして、何よりも、階級とは自らの根拠の対象化のもとに、他の利害との緊張の中に獲得される全体であり、ここに彼の最も秀れた点がある。第二に、(中略)暴動を一過性の騒ぎとして無視することも一揆主義として非難する立場も受け入れず、やむにやまれず差別・抑圧のなかから立ち上がる者が最後まで闘い切る指導部を未だ持たない時、それは暴動といわれるのであって、そこには極限を生きる者の意志があり、たとえ蹴散らされることがわかっていても決起自体に希望を託す不屈の魂と切なさを見ていたことである。そして、彼はそこに強固な中核を組織することが求められていると提起した。 —山岡強一「山谷ー釜ヶ崎の闘いの歴史と船本洲治」れんが書房新社発行『黙って野たれ死ぬな』、1985年、p.272
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