明治製糖設立
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日清戦争の結果、台湾は日本領となり、日本政府は1895年(明治28年)に台湾総督府を設けて現地の近代化を図っていた。中でも製糖業は、それほど豊かとはいえない日本財政でも台湾でできる重要産業だった。台湾総督府はこのため1896年(明治29年)に「ローズバンブー」「ライハイナ」などの新品種をハワイから取り寄せている。1898年(明治31年)に児玉源太郎が台湾総督となり、後藤新平が民政長官となってからは、統治方針の重点を土豪鎮圧から産業育成へと切り替え、新渡戸稲造を招いて精糖奨励法を作らせ、現地企業として台湾精糖を設立させたが、収益は小さかった。 一方、半治は1903年(明治36年)、7月2日付けで東京高等工業学校教授、応用化学科工場長となる。同時に、大蔵省から内地糖業の状況調査を命じられている。さらに、台湾総督府からの嘱託で、台湾の精糖業の視察も行った。一方私生活では、1904年(明治37年)、長女春子が生まれ、1906年(明治39年)に姓を下斗米家の本姓相馬と改めて相馬半治となった。 相馬は1904年(明治37年)、台湾総督府臨時台湾糖務局技師を兼務することになり、冬の製糖期間のみ台湾で技術指導を行うことになった。相馬は、台湾の製糖業が進まないのは製糖会社がいずれも小規模であり、糖業を行うには生産性が悪く、コスト高に繋がっているためと考えた。また、相馬の分析によれば、当時、日本の砂糖消費量5百万担(30万トン)に対し、国内生産高は200万担(12万トン)にすぎず、また、日本人一人当たりの砂糖消費量は欧米人の5,6分の1に過ぎず、今後大きく需要が伸びると考えた。そこで相馬は、1日数百トン規模の大規模な製糖会社を作るよう、同郷の小川䤡吉に進言した。もっとも、相馬の当初の構想は故郷名古屋に精製糖工場を作ることだった:1。相馬らは始め、小川が関わっている大阪精製糖に話を持ちかけたが同社が大日本製糖と合併したため諦めた。 小川は、むしろ国内よりも台湾で事業を起こす方が望ましいと考え、臨時台湾糖務局長の祝辰巳に掛け合って粗糖を作る新会社を起こすことにした。祝は台湾に純民間の製糖会社を作るのは時期尚早と難色を示すが、小川は民政長官の後藤新平の説得に成功:2、結果、1906年(明治39年)、渋沢栄一を相談役、小川を取締役社長、相馬を専務として明治製糖が設立された。株主は1300株の相馬が筆頭で、500株の渋沢、小川がこれに続いた:38。相馬はこれに合わせて東京高等工業学校教授などの官職を辞している。 相馬は幹部に台湾総督府の人物を数多く招いた。臨時台湾糖務局長の高木鉄男、淡水税務署基隆支所長の有嶋健助、殖産局糖務課長の藤野幹、台湾銀行の江口定滌、元総督府民政長官の内田嘉吉、宮尾舜治などである:39。後々まで相馬を支えることになる有嶋健助の入社は1908年(明治41年)だった。 小川は日本郵船の出身で、書類の字が汚いというだけで怒鳴りつけるという風の、剛直な男だった。小川には傲慢な一面もあり、官僚出身の相馬が明治製糖の重役になると会社の目方が軽くなるとしてやや難色を示したが、他に適任がいないため相馬に決定した。主な分担として、小川が東京本社を、相馬が台湾事務所を見ることになった。小川は相馬の14歳年上であり、相馬を軽くあしらうようなところがあった。例えば、社用で訪ねる相馬を寝不足を理由に追い返すことも数度であった。相馬は癇癪持ちであったが、小川に対しては従順であり、東京高等工業学校の手島精一と共に恩人と呼んでいる。もっとも、小川は部下に対しては「上司に意見を言う場合には、一気に通さず、相手が納得するまで手を変えて無理せず交渉せよ」とも語っており、気配りのできる人物だった:254。 相馬は1909年(明治42年)から台湾での工場建設に着手、まず蕭壠製糖所(中国語版)(しょうろ、現在の台南市佳里区)に着工した。土地も農耕条件や水利交通を考慮して相馬が選定した:3。機械は相馬自身が欧米で買い付けたものだった:6。この視察中に相馬は落馬して一晩人事不省になったり:220、マラリアにかかったり、使った港に荷役設備が無いため運んだ機械が溢れて荷揚げができなかったりと苦労をしたが、相馬は回廊録に「この間に於ける私の苦心努力は相当大なるものであったが、(陸軍)在隊中の苦労同様、前途の希望のため何らの苦痛も感じなかった。思うに、私はどこまでも趣味の人にはあらず、徹頭徹尾労務の人ともいうのであろうか」と記している。 翌1910年(明治43年)からは蕭壠製糖所と併行して蒜頭製糖所(中国語版)(きんとう、現在の嘉義県六脚郷)を着工、さらに1912年(大正元年)総爺製糖所(中国語版)(現在の台南市麻豆区総爺)を作った。(これらの工場は、第二次世界大戦後、台湾に本拠を移した中華民国の国民政府主導で台湾糖業公司の第三区分公司として接収、利用されている。) 当時、台湾で作れるのは主に粗糖のみであり、精製糖は日本本土で行うのが一般的だった。そこで相馬は1912年、横浜製糖を合併して川崎工場とし、1913年(大正2年)には中央製糖を合併する。ただし事業拡張は順調なばかりでもなく、1913年に自身が相談役を務める斗六精糖の合併を東洋精糖と争い失敗している。1915年(大正4年)、会長の小川が老齢のため退職し、相馬は47歳で専務取締役社長となった。有嶋は宮尾舜治と共に専務となった。業務としては有嶋は小川の後任であり、東京事務所からほとんど動くことはなく、台湾は引き続き相馬が見ていた:250。 相馬は何事も徹底してやる癖があり、有島健助に「鶏を割くに牛刀を以ってするの感を人に与える」と評されている。また、会長の小川と共に、業務最優先を徹底した。例えば重役に対し、一般社員より早く出社し、一般社員より遅く帰宅するよう指導し、人材配置はコネを排して適所適材に努めた。 有嶋健助は慶応4年8月12日に鹿児島県薩摩郡平佐郷平佐村145番戸(現在の薩摩川内市平佐町)に第5子、次男として生まれた。父は士族で医師だった。14歳の時に兄と姉を亡くし、16歳の時に父が病死する。造士館で学んでいたが家計の都合で中退し、17歳で上京、24歳で大蔵省に入省。28歳で台湾総督府雇になり、29歳で大蔵省を退省し台湾総督府に正式に入府。1907年(明治40年)に明治製糖ができると、翌年に官を辞して明治製糖に入社する。有島は東京事務所勤務となり、台湾にはほとんど行かなかった。有嶋の渾名は「のれん」であり、自身の案を独裁的な相馬に蹴られても「ああ、そうですかなあ」と受け流せる人物であり、部下の提言に不満があっても怒るということがなかった。ただし軟弱な性格ではなく、薩摩隼人の気迫と温厚誠実さを持っていたと評されている:364。有嶋は、相馬に相談や報告をする際、相馬がどれほど勧めても決して椅子に座ろうとせず、姿勢を崩さずに話をするような律儀な人物だった:279。有嶋は相馬よりも1つ年長であり、普段は部下を呼び捨てにする相馬も、有嶋に対してだけは「有嶋君」と敬称を付けている:213(昔の「君」は、現代よりもかなり丁寧な敬称だった)。相馬と部下の間に立つ有嶋は、良い提案があれば部下に代わって粘り強く相馬に交渉する役割を持っていた:253。また、相馬が部下を叱った時に有嶋はしばしばとりなし役を務めた:263。また、相馬は部下からの相談に対して即決でイエスかノーかの結論しか言わなかったので、有嶋がその理由を丁寧に説明することもしばしばだった:278。
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