明治製糖設立とは? わかりやすく解説

明治製糖設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 14:42 UTC 版)

相馬半治」の記事における「明治製糖設立」の解説

日清戦争結果台湾日本領となり、日本政府1895年明治28年)に台湾総督府設けて現地近代化図っていた。中でも製糖業は、それほど豊かとはいえない日本財政でも台湾でできる重要産業だった。台湾総督府このため1896年明治29年)に「ローズバンブー」「ライハイナ」などの新品種をハワイから取り寄せている。1898年明治31年)に児玉源太郎台湾総督となり、後藤新平民政長官となってからは、統治方針重点土豪鎮圧から産業育成へと切り替え新渡戸稲造招いて精糖奨励法を作らせ、現地企業として台湾精糖設立させたが、収益小さかった一方、半治は1903年明治36年)、7月2日付け東京高等工業学校教授応用化学科工場長となる。同時に大蔵省から内地糖業の状況調査命じられている。さらに、台湾総督府からの嘱託で、台湾精糖業の視察行った一方私生活では、1904年明治37年)、長女春子生まれ1906年明治39年)に姓を下斗米家の本姓相馬改め相馬半治となった相馬1904年明治37年)、台湾総督府臨時台湾糖務局技師兼務することになり、冬の製糖期間のみ台湾技術指導を行うことになった相馬は、台湾製糖業進まないのは製糖会社いずれも小規模であり、糖業を行うには生産性悪くコスト高に繋がっているためと考えたまた、相馬分析によれば当時日本砂糖消費量5百万担(30トン)に対し国内生産高は200担(12トン)にすぎず、また、日本人一人当たりの砂糖消費量欧米人5,6分の1に過ぎず今後大きく需要伸びる考えた。そこで相馬は、1日数百トン規模大規模な製糖会社作るよう、同郷小川䤡吉に進言した。もっとも、相馬当初の構想故郷名古屋精製糖工場作ることだった:1。相馬らは始め小川が関わっている大阪精製糖に話を持ちかけたが同社大日本製糖合併したため諦めた小川は、むしろ国内よりも台湾事業起こす方が望ましいと考え臨時台湾糖務局長の祝辰巳掛け合って粗糖作る新会社起こすことにした。祝は台湾に純民間製糖会社作るのは時期尚早難色を示すが、小川民政長官後藤新平説得成功:2、結果1906年明治39年)、渋沢栄一相談役小川取締役社長相馬専務として明治製糖設立された。株主1300相馬筆頭で、500渋沢小川がこれに続いた:38相馬はこれに合わせて東京高等工業学校教授などの官職辞している。 相馬幹部台湾総督府人物数多く招いた臨時台湾糖務局長の高木鉄男淡水税務署基隆支所長の有嶋健助、殖産局糖務課長藤野幹、台湾銀行江口定滌、元総府民長官内田嘉吉宮尾舜治などである:39後々まで相馬支えることになる有嶋健助の入社1908年明治41年)だった。 小川日本郵船出身で、書類の字が汚いというだけで怒鳴りつけるという風の、剛直な男だった。小川には傲慢な一面もあり、官僚出身相馬明治製糖重役になると会社目方軽くなるとしてやや難色示したが、他に適任がいないため相馬決定した主な分担として、小川東京本社を、相馬台湾事務所を見ることになった小川相馬14歳年上であり、相馬軽くあしらうようなところがあった。例えば、社用訪ねる相馬寝不足理由追い返すことも数度であった相馬癇癪持ちであったが、小川に対して従順であり、東京高等工業学校の手精一と共に恩人呼んでいる。もっとも、小川部下に対しては「上司意見を言う場合には、一気通さず相手納得するまで手を変えて理せず交渉せよ」とも語っており、気配りのできる人物だった:254相馬1909年明治42年)から台湾での工場建設着手、まず製糖所(中国語版)(しょうろ現在の台南市佳里区)に着工した土地農耕条件水利交通考慮して相馬選定した:3。機械相馬自身欧米買い付けたものだった:6。この視察中に相馬落馬して一晩人事不省になったり:220マラリアかかったり、使った港に荷役設備が無いため運んだ機械溢れて荷揚げができなかったりと苦労をしたが、相馬回廊録に「この間に於ける私の苦心努力は相当大なるものであったが、(陸軍在隊中の苦労同様、前途希望のため何ら苦痛感じなかった。思うに、私はどこまでも趣味の人にはあらず、徹頭徹尾労務の人ともいうのであろうか」と記している。 翌1910年明治43年)からは製糖所と併行して製糖所(中国語版)(きんとう現在の嘉義県六脚郷)を着工、さらに1912年大正元年)総爺製糖所(中国語版)(現在の台南市麻豆区総爺)を作った。(これらの工場は、第二次世界大戦後台湾本拠移した中華民国の国民政府主導台湾糖業公司第三区公司として接収利用されている。) 当時台湾作れるのは主に粗糖のみであり、精製糖日本本土で行うのが一般的だった。そこで相馬1912年横浜製糖合併して川崎工場とし、1913年大正2年)には中央製糖合併する。ただし事業拡張順調なばかりでもなく、1913年自身相談役務め斗六精糖合併東洋精糖争い失敗している。1915年大正4年)、会長小川老齢のため退職し相馬47歳専務取締役社長となった。有嶋は宮尾舜治と共に専務となった業務としては有嶋は小川後任であり、東京事務所からほとんど動くことはなく、台湾引き続き相馬見ていた:250相馬何事も徹底してやる癖があり、有島健助に「割く牛刀以ってするの感を人に与える」と評されている。また、会長小川と共に業務最優先徹底した例え重役対し一般社員より早く出社し一般社員より遅く帰宅するよう指導し人材配置コネ排して適所適材努めた。 有嶋健助は慶応4年8月12日鹿児島県薩摩郡平佐平佐村145番戸(現在の薩摩川内市平佐町)に第5子、次男として生まれた。父は士族医師だった。14歳時に兄と姉を亡くし16歳時に父が病死する造士館学んでいたが家計都合中退し17歳上京24歳大蔵省入省28歳台湾総督府雇になり、29歳大蔵省を退省し台湾総督府正式に入府1907年明治40年)に明治製糖ができると、翌年に官を辞して明治製糖入社する有島東京事務所勤務となり、台湾にはほとんど行かなかった。有嶋の渾名は「のれん」であり、自身の案を独裁的な相馬蹴られても「ああ、そうですかなあ」と受け流せ人物であり、部下提言に不満があっても怒るということがなかった。ただし軟弱な性格ではなく薩摩隼人気迫温厚誠実さ持っていたと評されている:364。有嶋は、相馬相談報告をする際、相馬どれほど勧めて決し椅子座ろうとせず、姿勢崩さずに話をするような律儀人物だった:279。有嶋は相馬よりも1つ年長であり、普段部下呼び捨てにする相馬も、有嶋に対してだけは「有嶋君」と敬称付けている:213(昔の「君」は、現代よりもかなり丁寧な敬称だった)。相馬部下間に立つ有嶋は、良い提案があれば部下に代わって粘り強く相馬交渉する役割持っていた:253また、相馬部下叱った時に有嶋はしばしとりなし役を務めた:263また、相馬部下からの相談に対して即決イエスノーかの結論しか言わなかったので、有嶋がその理由丁寧に説明することもしばしばだった:278

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