明治天皇御集の編纂
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臨時編纂部では受命直後に職員会議を開き編纂方針を議論し、以下のような方針を決める。 御集は整理にとどめるべきか、それとも抜抄すべきか。これについては大正天皇の勅裁により、全部整理した全本と抜抄本と二種をつくることに決まる。全本は従来からこれを担当してきた長谷と東坊城が引き続き担当し、抜抄本は寄人の委員が担当することなる。 御集の構成をどうするか。普通の歌集のように春夏秋冬恋雑に分けるべきか、それとも前例を破って年別にすべきか。これは基本的に年別にすること、同一年の中では春夏秋冬雑の順に従うことに決まる。年別にすることには強硬な反対論もあったが、明治天皇の御製には歴史・事蹟に関するものが多いので年別にしないといけないし、そうしないと誤解の生じるものもあるということで、年別にすることに決まる。 歴史や事蹟に関係する御製はなるべく洩らさないこと。これは異議なし。 特定人に下賜された御製は全部残すこと。これらの御製には推敲の終わっていないものも見受けられるが下賜された家々にとっては非常な光栄なことなので一律残す。これも是非に及ばす。 既に人口に膾炙したものは、他に類似のものがあっても人口に膾炙したものを残すこと。 御製として当時の新聞に出たもので詠草にないものがある。これは万が一を考慮して採らないこと。 以上は全て委員長が上奏し大正天皇の裁可を得て決まる。 当時、御詠草は三本あって、1本は大正天皇の御手許に、1本は梅の間に、1本は御歌所にある。公卿出身委員の長谷と東坊城がこの3本を比較対照し、9万首以上の御製全部を年代順に並べる。それを書記や嘱託が筆写する。寄人委員がそれを拝見し、その中からおよそ10分の1を抜抄する。ここで抜抄といって選といわないのは、寄人委員にとって「歌聖にまします明治天皇の神語とも申し奉るべき御製を、我々の見識を以って御択び致すということは畏れ多いことでございますから、初めから申し合わせて選という字はつかいません」ということであった。 明治天皇は40年以上にわたり数多くの御製を詠んだので着想や修辞が互いに似たものが少なくないので、たとえば同じようなものが10首あればそれから1首を抜きだすという具合で抜抄する。抜抄したものを清書して寄人会議の原案とする。寄人会議では更に、互いに似たものや古歌に似たものを省いて後はそのまま残したいと思っていたが、大正天皇からの指示により、およそ1千首ぐらいにすることになる。しかしどうしても1千首まで減らせないので、さらに勅許を得て、少々超過してもいいことになる。 しかし最初の原案でも1万首ほどある。そこで臨時編纂部では1916年10月から1919年12月に至るまで3年以上にわたり毎週1~2回会議を開く。会議には委員長、幹事、書記も当然に出席する。山県有朋や宮内大臣が臨席することもある。議長は終始井上委員が勤める。井上によると、入江委員長は歌道にも専門家同様の力があったが謙遜して井上に譲ったのだという。整理にあたった公卿出身委員のうち長谷は老病のため初めの頃しか出席しなかったが、東坊城は殆ど欠席しなかった。東坊城は出席しても学問や技術に口を出すことはなかった。 1917年(大正6年)11月、須川信行委員が御用中に死去し、池辺義象と佐佐木信綱が寄人と委員を命じられる。井上通泰委員によると、須川委員が死去した跡に池辺が「偶然に」入ったという。また佐佐木を委員に選んだのは山県有朋であり、それは山県が「従来の寄人だけで不満足というではないが、御用が御用であるから民間歌人の代表として佐佐木を加えたらよかろう」と考えたからであったという。 会議では寄人委員が自由に説を述べ、時には意見が分かれることもある。それでも多数決では決めず、議論を尽くして全員一致に至らなければ決定しない。たとえば、読み方が分からない語句がある。「大海原」はオホウナバラともアヲウナバラともオホウミノハラとも読める。「新」という字は古くはアラタシといったのを後にアタラシと訛ったものである。旅順の「松樹山」はショウジュザンと音読すべきかマツキヤマと訓読すべきか。これらは分からないので詠草のまま漢字で書いておく。また、詠草の中にシヅという言葉が沢山出てくる。これは農夫とか労働者とか民とかの意味で使われているものであって、明治天皇が彼らを賤しんでシヅといったわけではないのでシヅに賤の文字を充てずに全て平仮名で書いておく。どう解釈しても書き損ないに違いないと思われることが少々あったが、それらは一々付箋をして委員長を経て大正天皇の勅裁を得る。 そうするうちに御集を刊行することに決まり、関係の臣下に賜ることになったので、書家としても一流の阪正臣委員が拝写を命じられる。阪が御製を拝写すると、他の委員から「この字は歪んでいる」とか「この字は読みにくい」とか「この字は仮名にしなければならぬ」とか「これは漢字のしたほうがよい」とか色々な意見が出る。阪はその附箋にもとづいて一々書き直さなくてはならなかった。 井上通泰委員は、御集編纂について次のような感想を述べている。新聞に載る御製は主観的・教訓的なものが多かったので、編纂委員に加わるまでは明治天皇の御製はそういうものだと思っていたが、編纂に携わると叙景的文学的な御製も多いことを知った。父の孝明天皇を思う御製、京都を思う御製が非常に多かった。他の御製とのバランスのため削らなくてはならなかったがそれでも大量に残った。明治天皇の趣味は歌と刀と馬なのでそれに関する御製も多かった。なぜか猿を詠んだ御製も割合に多かった。そのほか明治天皇の趣味は造園に関する御製に窺われる。また花の絵を描いた花瓶に松を差すという御製に明治天皇の高尚な趣味が窺われる。下情に通じた御製も少なくない。これは想像によるものか、あるいは明治天皇は時々宮城内から濠を隔てて参謀本部下の道路を観察することがあったと聞くからその時の光景かもしれない、と。 1919年(大正8年)12月20日、明治天皇御集を編成奏上する。これは天皇の思し召しということで関係者にそれぞれ下賜される。明治天皇御集の原本は木版であり、漢字は行草体、仮名は変態仮名を多く用い、濁点を附さない。 1922年(大正10年)宮内省蔵版『明治天皇御集』が文部省より発行される。文部大臣鎌田栄吉によると「この御集は明治天皇の御盛徳を仰ぎ、御仁慈の御心を偲び奉るに最も適当なるのみならず、また実に国民にとりて修養の鑑たるべく、教育上も極めて有益なるをもって」、宮内大臣と協議のうえ刊行し広く頒布することになったという。文部省発行本には木版3冊と活字版1冊の2種がある。活字版は、一般人にも読み易いようにするため行草体や変態仮名を普通の活字に改め濁点を附し、また便利のため索引をつける。
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