明治天皇御集の編纂とは? わかりやすく解説

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明治天皇御集の編纂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:41 UTC 版)

明治天皇御集」の記事における「明治天皇御集の編纂」の解説

臨時編纂部では受命直後職員会議開き編纂方針議論し、以下のような方針決める。 御集整理とどめるべきか、それとも抜抄すべきか。これについては大正天皇勅裁により、全部整理した全本と抜抄本と二種をつくることに決まる。全本は従来からこれ担当してきた長谷と東坊城引き続き担当し、抜抄本寄人委員担当することなる。 御集構成どうするか。普通の歌集のように春夏秋冬雑に分けるべきか、それとも前例破って年別にすべきか。これは基本的に年別にすること、同一年の中では春夏秋冬雑の順に従うことに決まる。年別にすることには強硬な反対論もあったが、明治天皇御製には歴史事蹟に関するものが多いので年別にしないといけないし、そうしない誤解生じるものもあるということで、年別にすることに決まる。 歴史事蹟関係する御製はなるべく洩らさないこと。これは異議なし。 特定人に下賜され御製全部残すこと。これらの御製には推敲終わっていないものも見受けられる下賜され家々にとっては非常な光栄なことなので一律残す。これも是非に及ばす。 既に人口に膾炙したものは、他に類似のものがあっても人口に膾炙したものを残すこと。 御製として当時新聞出たもので詠草にないものがある。これは万が一考慮して採らないこと。 以上は全て委員長上奏大正天皇裁可得て決まる。 当時御詠草三本あって、1本は大正天皇御手許に、1本は梅の間に、1本は御歌所にある。公卿出身委員長谷と東坊城がこの3本比較対照し、9首以上の御製全部年代順に並べる。それを書記嘱託筆写する。寄人委員がそれを拝見し、その中からおよそ10分の1を抜抄する。ここで抜抄といって選といわないのは、寄人委員にとって「歌聖まします明治天皇神語とも申し奉るべき御製を、我々の見識以って御択び致すということは畏れ多いことでございますから、初めから申し合わせて選という字はつかいません」ということであった明治天皇40年以上にわたり数多く御製詠んだので着想修辞互いに似たもの少なくないので、たとえば同じようなものが10首あればそれから1首を抜きだすという具合で抜抄する。抜抄したもの清書して寄人会議原案とする。寄人会議では更に、互いに似たもの古歌似たもの省いて後はそのまま残したい思っていたが、大正天皇からの指示により、およそ1千首ぐらいにすることになる。しかしどうしても1千首まで減らせないので、さらに勅許得て少々超過していいことになる。 しかし最初原案でも1万首ほどある。そこで臨時編纂部では1916年10月から1919年12月に至るまで3年以上にわたり毎週1~2回会議を開く。会議には委員長幹事書記当然に出席する山県有朋宮内大臣臨席することもある。議長終始井上委員勤める。井上によると、入江委員長歌道にも専門家同様の力があったが謙遜して井上譲ったのだという。整理あたった公卿出身委員のうち長谷老病のため初めの頃しか出席しなかったが、東坊城は殆ど欠席しなかった。東坊城出席して学問技術口を出すことはなかった。 1917年大正6年11月須川信行委員御用中に死去し池辺義象佐佐木信綱寄人委員命じられる井上通泰委員によると、須川委員死去した跡に池辺が「偶然に入ったという。また佐佐木委員選んだのは山県有朋であり、それは山県が「従来寄人だけで不満足というではないが、御用御用であるから民間歌人代表として佐佐木加えたよかろう」と考えたからであったという。 会議では寄人委員自由に説を述べ時には意見分かれることもある。それでも多数決では決めず議論尽くして全員一致に至らなければ決定しない。たとえば、読み方分からない語句がある。「大海原」はオホウナバラともアヲウナバラともオホウミノハラとも読める「新」という字は古くアラタシといったのを後にアタラシ訛ったのである旅順の「松樹山」はショウジュザンと音読すべきかマツキヤマと訓読すべきか。これらは分からないので詠草のまま漢字書いておく。また、詠草中にシヅという言葉が沢山出てくる。これは農夫とか労働者とか民とかの意味使われているものであって明治天皇が彼らを賤しんでシヅといったわけではないのでシヅに賤の文字充てずに全て平仮名書いておく。どう解釈して書き損ない違いない思われることが少々あったが、それらは一々付箋をして委員長経て大正天皇勅裁を得る。 そうするうちに御集刊行することに決まり、関係の臣下賜ることになったので、書家として一流阪正臣委員が拝写を命じられる。阪が御製を拝写すると、他の委員から「この字は歪んでいる」とか「この字は読みにくい」とか「この字は仮名にしなければならぬ」とか「これは漢字のしたほうがよい」とか色々な意見が出る。阪はその附箋もとづいて一々書き直さなくてはならなかった。 井上通泰委員は、御集編纂について次のような感想述べている。新聞載る御製主観的教訓的なものが多かったので、編纂委員に加わるまでは明治天皇御製そういうものだと思っていたが、編纂携わる叙景文学的な御製も多いことを知った。父の孝明天皇を思う御製京都を思う御製が非常に多かった。他の御製とのバランスのため削らなくてはならなかったがそれでも大量に残った明治天皇趣味は歌と刀と馬なのでそれに関する御製多かった。なぜか詠んだ御製割合に多かったそのほか明治天皇趣味造園に関する御製窺われる。また花の絵描いた花瓶を差すという御製明治天皇高尚な趣味窺われる下情通じた御製少なくない。これは想像よるものか、あるいは明治天皇は時々宮城内から濠を隔てて参謀本部下の道路観察することがあったと聞くからその時光景かもしれない、と。 1919年大正8年12月20日明治天皇御集編成奏上する。これは天皇思し召しということ関係者それぞれ下賜される。明治天皇御集原本木版であり、漢字行草体、仮名変態仮名多く用い濁点を附さない。 1922年大正10年宮内省蔵版明治天皇御集』が文部省より発行される文部大臣鎌田栄吉によると「この御集明治天皇の御盛徳仰ぎ御仁慈の御心を偲び奉るに最も適当なのみならず、また実に国民にとりて修養鑑たるべく、教育上も極めて有益なをもって」、宮内大臣協議のうえ刊行し広く頒布することになったという。文部省発行本に木版3冊と活字版1冊の2種がある。活字版は、一般人にも読み易いようにするため行草体や変態仮名を普通の活字改め濁点を附し、また便利のため索引をつける。

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