明治女学校とは? わかりやすく解説

めいじ‐じょがっこう〔メイヂヂヨガクカウ〕【明治女学校】


明治女学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/31 17:28 UTC 版)

明治女学校(めいじじょがっこう)は、1885年明治18年)から 1909年(明治42年)まで、東京にあった女学校


  1. ^ 手塚竜麿「明治女学校と英学」『英学史研究』第1970巻第2号、日本英学史学会、1970年9月、42-53頁、ISSN 1883-9282 
  2. ^ 東京都公文書館 『都史紀要9 東京の女子教育』
  3. ^ 手塚竜麿「東京の私学で教えた同志社人」『同志社時報』第32号、同志社大学、1968年10月、42-45頁。 
  4. ^ 巣鴨時代の明治女学校 - ウェイバックマシン(2000年12月6日アーカイブ分)
  5. ^ 1889年(明治22年)の『女学雑誌』173号には明治女学校の広告が掲載され、巌本善治、植村正久、木村熊二、木村駿吉、島田三郎、内村鑑三が記されている。鈴木範久1983年、48頁
  6. ^ 『ハイカラに、九十二歲: 写真家中山岩太と生きて』中山正子、河出書房新社, 1987、p22
  7. ^ 『ハイカラに、九十二歲』p76


「明治女学校」の続きの解説一覧

明治女学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 05:20 UTC 版)

木村熊二」の記事における「明治女学校」の解説

帰国以来日本ミッションスクール批判的だった熊二は、1885年明治18年)秋、鐙子とともに九段下牛ヶ渕(現在の千代田区飯田橋)において明治女学校を開校近代日本における女子教育先駆けみなされている学校一つである。メソジスト監督教会名古屋進出警戒した米国改革派教会は熊二に名古屋での布教活動命じたが、熊二はそれに従わず同校校長就任したため資金援助打ち切られた。 熊二一家は同年鎌倉転居し西片広大な邸宅は鐙子の弟・田口卯吉借り受ける。また同年には、日本初本格的女性誌みなされる女学雑誌』の発刊あたった。しかし、翌1886年明治19年)に鐙子はコレラ急死する1888年明治21年)、木村は、海老名弾正司式伊東華子再婚するが、彼女は放埓性格であり、華子スキャンダル巻き込まる形で木村女学校校長職を退く羽目になった同年木村頌栄女子学校校長に。なお、華子結局愛人出奔し8年離婚することとなった。 明治女学校は巌本善治校長引き継いだ。明治女学校は1909年明治42年)に閉校するが、23年存続期間多く人材を輩出した。

※この「明治女学校」の解説は、「木村熊二」の解説の一部です。
「明治女学校」を含む「木村熊二」の記事については、「木村熊二」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「明治女学校」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「明治女学校」の関連用語

明治女学校のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



明治女学校のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの明治女学校 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの木村熊二 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS