めいじ‐じょがっこう〔メイヂヂヨガクカウ〕【明治女学校】
明治女学校
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明治女学校(めいじじょがっこう)は、1885年(明治18年)から 1909年(明治42年)まで、東京にあった女学校。
- ^ 手塚竜麿「明治女学校と英学」『英学史研究』第1970巻第2号、日本英学史学会、1970年9月、42-53頁、ISSN 1883-9282。
- ^ 東京都公文書館 『都史紀要9 東京の女子教育』
- ^ 手塚竜麿「東京の私学で教えた同志社人」『同志社時報』第32号、同志社大学、1968年10月、42-45頁。
- ^ 巣鴨時代の明治女学校 - ウェイバックマシン(2000年12月6日アーカイブ分)
- ^ 1889年(明治22年)の『女学雑誌』173号には明治女学校の広告が掲載され、巌本善治、植村正久、木村熊二、木村駿吉、島田三郎、内村鑑三が記されている。鈴木範久1983年、48頁
- ^ 『ハイカラに、九十二歲: 写真家中山岩太と生きて』中山正子、河出書房新社, 1987、p22
- ^ 『ハイカラに、九十二歲』p76
- 1 明治女学校とは
- 2 明治女学校の概要
- 3 参考文献
明治女学校
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帰国以来日本のミッションスクールに批判的だった熊二は、1885年(明治18年)秋、鐙子とともに九段下牛ヶ渕(現在の千代田区飯田橋)において明治女学校を開校。近代日本における女子教育の先駆けとみなされている学校の一つである。メソジスト監督教会の名古屋進出を警戒した米国改革派教会は熊二に名古屋での布教活動を命じたが、熊二はそれに従わず同校の校長に就任したため資金援助は打ち切られた。 熊二一家は同年鎌倉に転居し、西片の広大な邸宅は鐙子の弟・田口卯吉が借り受ける。また同年には、日本初の本格的女性誌とみなされる『女学雑誌』の発刊にあたった。しかし、翌1886年(明治19年)に鐙子はコレラで急死する。 1888年(明治21年)、木村は、海老名弾正の司式で伊東華子と再婚するが、彼女は放埓な性格であり、華子のスキャンダルに巻き込まる形で木村は女学校の校長職を退く羽目になった。同年、木村は頌栄女子学校の校長に。なお、華子は結局愛人と出奔し、8年で離婚することとなった。 明治女学校は巌本善治が校長を引き継いだ。明治女学校は1909年(明治42年)に閉校するが、23年間存続期間に多くの人材を輩出した。
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