日本軍とソ連軍の衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
「ノモンハン事件」の記事における「日本軍とソ連軍の衝突」の解説
国境での衝突を受けて、ソ連軍は日本軍より機敏に行動を開始した。第57特別軍団長フェクレンコが、第11戦車旅団から機関銃狙撃兵大隊(狙撃兵中隊3とT-37戦車8)砲兵第2中隊(自走砲4)装甲車中隊(BA-6およびFAI装甲車21)に進出命令を出した。指揮官には狙撃兵大隊の大隊長であるブイコフ上級中尉が任命された(指揮官名からブイコフ支隊とよく記される)。さらに、5月19日にはブイコフ支隊はM-30 122mm榴弾砲や化学戦車(火炎放射器搭載の戦車)の増援を受け、ハルハ河に向かった。5月23日にはモンゴル軍の第6騎兵団も加わり、総兵力は2,300名(うちモンゴル軍1,257名)T-37が13輌、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6 16輌を含む装甲車39輌、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲8門、KHT-26化学戦車5輌と戦力的に充実していた。指揮はウランバートルから来着した第57特別軍団参謀部作戦課長のイヴェンコフ大佐が執ることとなった。ソ連軍はさらに後詰としてウランバートルからタムスクに車載狙撃兵第149連隊と、砲兵一個大隊を移動させた。ハルハ河に達したブイコフ支隊は、工兵中隊がハルハ河に架橋し、ブイコフ支隊の主力の内、戦車と装甲車と狙撃兵2個中隊とモンゴル軍騎馬隊を渡河させ、距岸8 kmの砂丘(日本軍呼称「733高地」)に陣地を構築・また122mm榴弾砲などの砲兵は西岸の高台に布陣させた。 一方、第23師団長の小松原は、追い払ったはずのモンゴル軍がまた係争地に舞い戻ってきたのを知り、5月21日に、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門を合わせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1輌を持つ)、輜重部隊340など総勢1,701名の日本軍と満州国軍騎兵464人の混成部隊を出撃させた。この部隊は、歩兵第64連隊長山県武光大佐が執り、山県支隊と呼ばれた。 しかしこれまで、日本軍が兵力を出してはモンゴル軍が退去し、日本軍が去ればモンゴル軍が舞い戻るといった「ピストン方式」の兵力派出方式で際限がない戦いをしていると、第23師団参謀長の大内大佐から状況報告を受けた辻は、山県支隊出撃の方を聞くと「こんな方法では際限がない、何とか新しいやり方を」と考え、軍司令や他参謀の同意を取り付けると関東軍参謀長名で「ハルハ河右岸に外蒙騎兵の一部が進出滞留するようなことは、大局的に見て大なる問題ではない。暫く静観し、機を見て一挙に急襲しては如何」という電報を打った。この時点で関東軍の方針は、モンゴルとの紛争はあくまでも日本・満州主張の国境線の維持にとどめる方針であったのでこのような自重の指示が行われた。22日には参謀長会議があり、第23師団の参謀長の大内は新京の関東軍司令部に出張しており、辻は関東軍参謀長名で打電した電文を大内にも伝えた。大内も関東軍と同様に紛争不拡大の方針で、新京に立つ前、村田作戦主任参謀に出動を自制するように指示していたが、小松原の意思で参謀長不在時に出撃が強行されたものであった。大内は辻ら関東軍参謀と打ち合わせて、参謀長名で第23軍に「外蒙軍を満州領内に誘致し、第23師団はハイラル付近で悠々と情勢を観察して、外蒙軍の主力が越境したのを見計らって、国境内で捕捉殲滅すべき」「山県支隊が出撃しているのであれば、なるべく早く目的を達してハイラルに帰還すべし」という電文を打った。しかし小松原は、関東軍と大内からの電報を全く意に介すこともなく5月22日の日記に「山県支隊は出動の直前なり。今さら其の出動を中止すること統率上出来難し。防衛司令官の遣り方異議ありとて軍が制肘すべきにあらず」と書くなど開き直った。それでも小松原は関東軍の指示に一旦は躊躇し、3日間部隊を待機させたが、5月25日に戦機到来と判断し部隊に出撃命令を下した。この出撃は、関東軍の指示を無視した形とはなるが、辻はこの小松原の行動に対して「師団長の善良な人柄は、関東軍のこのような電報に対してもなんら悪感情は抱かれなかったのである」と逆に小松原を気遣うような表現で理解を示している。 小松原がこうも強気であったのは5月20日に捕らえた捕虜の尋問などで、ソ連軍の兵力は兵員500名、トラック80台、戦車5輌、対戦車砲12門と誤認していたからで、この程度の戦力であれば山県支隊にとって危険性はないと考えていたからであった。小松原は翌26日の午後に、山県支隊本部に出向き「28日払暁を期し、ハルハ河右岸に進出中の外蒙軍を攻撃し、右岸地区において補足撃滅せよ」という『作命46号』を下した。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ河渡河点3か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ河を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。 しかし、兵力は日本軍1,701名に対しソ連・モンゴル軍2,300名と防御に回るソ連・モンゴル軍の方が多かった上に、砲も日本軍は射程の短い四一式山砲と九二式歩兵砲の5門しかないのに対し、ソ連・モンゴル軍は自走砲も含め76mm砲12門と122mm榴弾砲4門、戦車に至っては日本軍は0に対しソ連軍は多数を投入したが、この戦力差を知らない山県大佐は「歴史の第1頁を飾るべき栄えある首途に際し必勝を期して已まず」という支隊長訓示を行い行動開始を下令した。
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