得珍保の成立と惣結合とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 得珍保の成立と惣結合の意味・解説 

得珍保の成立と惣結合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:28 UTC 版)

得珍保」の記事における「得珍保の成立と惣結合」の解説

保(ほ、ほう)とは元来律令制における行政単位国・郡・里)が平安時代中期11世紀頃)に崩壊する中、国衙領再編され、郷(霊亀元年715年)に里から改称)や名(別名)と並ぶ行政単位となったのである未開墾地の開発申請に応じて国守認可与えた荘園指し開発申請者保司補任された。 「得珍保」の名は比叡山延暦寺の僧であった得珍(徳珍とも)が平安時代後期愛知川から用水路引いて農地化したことに由来するその後農民定着し多くの郷が発展した14世紀以降保内上下各4郷に編成され、上四郷田方)は柴原西村美並村二俣村上大森村、下大森村平尾村、尻無(しなし)から成り、下四郷野方)は溝村今在家金屋村中野村小今、東古保塚(ひがしこぼちづか)、今堀それぞれ7箇から成っていた。これらは保内郷と称する。各郷には日吉大社山王権現)を勧請した社が設けられ村落祭祀結合中心となっていた。それらの宮座中心として遅くとも鎌倉時代ごろには各郷に惣結合発達していた。得珍保中心的存在となっていたのは今堀で、今堀日吉神社共有文書商人団の文書保管されており、この今堀日吉神社文書によって宮座中心とする惣結合実態保内座商人の活動の詳細を知ることができる貴重な史料となっている。 弘和3年1383年=永徳3年)付の「今堀郷結鎮定書案」は今堀十禅師権現今堀日吉神社)の宮座行事規定したのであるが、文末には「仍衆儀之評定如斯(よって衆議評定かくのごとし)」とあり、この定書宮座衆議決定されたことが分かる。しかし、中人ちゅうにん)・間人(もうと)などと称され農民宮座参加することはできたものの3歳年下扱いを受けるなどの差別もあった。座の閉鎖性はこれに限らず旅人村内留めることを禁止したり、養子関わる様々な規程設けるなどの規制もたびたび掟書定められている。延徳元年1489年)の「今堀地下掟書案20箇条には、身請人のいない他村人の滞留禁止森林伐採禁止の飼育禁止の生活規範など、風紀規制細かく定められていた。今堀惣の掟の中で15世紀早い段階のものは宮座加入金の納付や郷民の序列など、今堀日吉神社祭祀関わる規程大きな比重占めていたが、16世紀に入る頃には惣寄合への出席義務森林伐採肥料確保といった現実的な問題に関する処罰規定前面打ち出されるようになっていった。

※この「得珍保の成立と惣結合」の解説は、「得珍保」の解説の一部です。
「得珍保の成立と惣結合」を含む「得珍保」の記事については、「得珍保」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「得珍保の成立と惣結合」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「得珍保の成立と惣結合」の関連用語

1
16% |||||

得珍保の成立と惣結合のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



得珍保の成立と惣結合のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの得珍保 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS