得珍保
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/24 06:11 UTC 版)
得珍保(とくちん の ほ[1])は日本の中世、遅くとも鎌倉時代頃から戦国時代まで近江国蒲生郡(現・東近江市)に存在した延暦寺東塔東谷仏頂尾衆徒領の荘園である。保内の今堀日吉神社に保蔵されていた文書によって座商人たちの商業活動が判明している数少ない例であり、後の近江商人につながる中世後期商人たちの拠点となった荘園でもある。また惣結合(郷村の自治結合)が発達した地としても有名。
- ^ 「とくちんほ」「とくちんのほう」など読み方は複数ある。保の前に「の」を入れるか入れないか(入れない場合連濁するかしないか)、保を「ほ」と読むか「ほう」と読むかなどの違いがあるためである。ここでは平凡社『日本史大事典』の表記に従った。
- ^ a b 『国史大辞典』「得珍保」。
- ^ 『日本史大事典』「得珍保」。
- ^ 仲村1984、201-203頁。
- ^ 『今堀日吉神社文書』を利用した今堀郷の惣結合や保内商人の活動については仲村1984が、1975年までの24の論文について内容・主張などを詳細に紹介している。
- ^ 日吉神社の使いが猿であるとの伝承と、「犬猿の仲」のたとえから、犬は不浄の生き物とされた。『戦国全史』129頁。
- ^ 『滋賀県の歴史』112頁。
- ^ 『日本歴史大系2』565-597頁。
- ^ a b 『戦国全史』59頁。
- ^ a b 『日本史大事典』「保内商人」。
- ^ 『日本史大事典』「得珍保」「保内商人」。
- ^ 佐々木1981、111-112頁。『戦国全史』206頁。
- ^ 佐々木1981、113-115頁。『戦国全史』233頁。
- ^ 仲村1984、468-482頁。『滋賀県の歴史』120頁。
- ^ 『滋賀県の歴史』121頁。
- ^ 保元2年には後白河天皇は在位中であり、そもそも「院宣」を発することはできない。この院宣の初見は応永25年(1418年)の山門衆議下知状案であり、これ以前に偽作されたと思われる。仲村1984、376-379頁。
- ^ 『戦国全史』237頁。
- ^ 『戦国全史』309頁。
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