14世紀以降
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聖ラザロ騎士団は14世紀頃からイタリア支部とフランス支部に実質的に分裂し、それぞれ異なる道を歩む事となった。 イタリア支部は1572年の教皇大勅書によりサヴォイア王家の保護下に入り、聖マウリツィオ騎士団と合併し聖マウリツィオ・ラザロ騎士団となり、今日に至っている。 一方フランス支部は、教皇によりマウントカルメル騎士団との合併がなされ、1608年にマウントカルメル・ラザロ騎士団としてフランス王家の保護下に入った。18世紀に入る頃には事実上フランス王室の所有物となっており、1772年にローマ教皇が聖ラザロ騎士団の認可を取り下げたことで騎士団は正式にフランス王室に従属し世俗化した。1830年、フランス7月革命によりブルボン朝が崩壊すると、マウントカルメル・ラザロ騎士団はフランス王家からの承認を失い、消滅した。
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14世紀以降
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モンマスの町や城はオーウェン・グリンデュアが起こした反乱で攻撃を受けることは無かったが、近隣のアバーガベニー(英語版)とグロスモント(英語版)は焼き払われ、モンマスも周辺地域の荒廃のあおりを受けた。2世紀の後、イングランド内戦において、町の主は何度か変わり、1645年にモノウ橋はラグラン(英語版)から来た騎士党の軍勢と Colonel Kirle が率いる円頂党との小競り合いの舞台になった。1705年、橋は修繕が必要になっていた。当初の銃眼つき胸壁は隙間の無い平らな壁となり、川面に木柱とラスを張り出した二階建て住居がつけられるよう改築された。住み込みの門番はこの住居に間借りし、建物の修繕と維持も任された。また一部は留置所 (village lock-up, (en)) としても使われた。橋と門楼は1771年から1775年にかけてまとめて修繕された。1804年までには、門楼は住居に転用された。 川に張り出した部分は1815年に取り壊された。1819年には橋の混雑を緩和するため、門楼中央アーチの脇(上流側)に歩行者用の通り道が開けられた。1830年までは門楼はモンマスの自治体が所有していたが、その後は資産交換の一環として、正式にボーフォート公の手に渡った。門楼の屋根は1832年に改築され、庇を深くとり、装飾された持ち送りが両側に各4個つけられた。1845年には2本目の歩行者道が下流側にも設けられた。これ以降、建物はおおむねそのまま保たれており、定期的なメンテナンスと修繕が行なわれている。1900年には所有権がモンマスシャー州議会に移り、その事は門楼の真鍮製記念額に記されている。 遅くとも19世紀半ばには、モンマス中心部の「アップ・タウン」とオーバーモノウ(英語版)の「キャッパーズ・タウン」(その名はモンマス帽にちなむ)の間で若者同士の年次決戦、いわゆる muntlings が門楼で行なわれるようになった。この行事は5月1日と5月29日に開かれ、参加する若者たちは石で重しをつけた竹箒、いわゆる muntle で武装した。この喧嘩騒ぎは1858年に禁止された。
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