安芸国分寺跡
名称: | 安芸国分寺跡 |
ふりがな: | あきこくぶんじあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 広島県 |
市区町村: | 東広島市西条町 |
管理団体: | 東広島市(昭11・11・21) |
指定年月日: | 1936.09.03(昭和11.09.03) |
指定基準: | 史3 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | 平成14.03.19 |
解説文: | S51-6-032[[安芸国分寺跡]あきこくぶんじあと].txt: 昭和11年9月、塔跡のみを史跡指定し安芸国分寺塔跡の名称で今日に至ったが、昭和44年より3か年間に及ぶ広島県教育委員会の発掘調査の成果にもとづいて伽藍主要部を含むほぼ寺域の大半を昭和51年3月に追加指定し、あわせてその名称を標記のとおり変更することとした。 調査の結果、門跡、金堂跡、講堂跡などが南北の伽藍中枢線上に一列に配置されたことが明瞭となった。南門跡は東西10メートル、南北7メートルを測る基壇をもち、中門は東西14メートル、南北10メートル前後の基壇をもつ。講堂跡は東西28メートル、南北16メートルの乱石積基壇である。こうした主要伽藍を含む寺域は、4周の畦畔や発掘された遺構からほぼその四至を明らかにすることができる。塔心礎の西方、南方50メートルの地に道があり、発掘された溝と共に寺域の西辺、南辺が明瞭である。また、心礎の東方75メートルの地に主要堂塔の中軸線があり、塔との密接な関係が知られる。寺域北面は中門の北方100メートルの地に築地垣があって北面の実際を伝える。寺域東辺についても伽藍中軸線の東方125メートルの地によく畦畔が辿りうる上、調査の成果でも溝の検出があってほぼ確かめうるのである。 安芸国分寺跡は、以上のように寺域の四至が明瞭なばかりでなく、主要堂塔跡の位置や規模も確認される上、現在のこされている畦畔も種々、寺院内の構造を窺わせるものがあって極めて重要な遺跡と考えられるのである。 |
安芸国分寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 23:01 UTC 版)
僧寺跡の寺域のうち南北は未確定であるが、東西は約255メートルで築地塀をもって区画する。主要伽藍として、寺域の中央に南大門(推定)・中門(推定)・金堂・講堂・僧房が南から一直線に配され、西寄りに塔が配される国分寺式伽藍配置(東大寺式伽藍配置の略型)である。また寺域の東部には、北側に国師院(のち講師院)、南側に大衆院が存在した。遺構の詳細は次の通り。 金堂 本尊を祀る建物。現在の本堂と重複する。基壇は東西約33メートル・南北約22メートル・高さ約1メートルであるが、数回の本堂建て替えのため大きく削平を受けている。基壇化粧は乱石積で、基壇周囲には雨落溝が巡る。基壇上建物は正面七間・奥行四間、寄棟造で、屋根は本瓦葺と推測される。 塔 経典(金光明最勝王経)を納めた塔(国分寺以外の場合は釈迦の遺骨(舎利)を納めた)。発掘調査以前は聖武天皇の歯塚と伝承された。基壇は掘込地業で、一辺16メートル以上。基壇上建物は七重塔と見られ、三間四方で一辺約8.7メートル。基壇上に心礎、心礎周囲の四天柱、四天柱外側の側柱の礎石が遺存する。礎石の大半は火熱で赤化しており、平安時代中頃に火災により西側に倒壊したと推測される。 講堂 経典の講義・教説などを行う建物。金堂の北に位置する。基壇は東西約31メートル・南北約17メートル。基壇化粧は乱石積で、基壇周囲には雨落溝が巡る。基壇上建物は正面七間・奥行四間、入母屋造で、屋根は本瓦葺と推測される。基壇上に礎石が遺存する。 僧房(僧坊) 僧の宿舎。講堂の北に位置する。基壇は東西約55メートル・南北約13メートル。基壇化粧は一部で乱石積と確認されている。基壇上建物は切妻造で、屋根は板葺と推測される。基壇上に礎石が遺存するが、全体は明らかでない。 講堂と僧房の間には渡り廊下として軒廊が認められる。幅約6メートル・長さ約8メートルで基壇上に礎石が遺存する。 回廊 金堂・中門を結ぶ屋根付きの廊下。金堂左右から出て中門左右に取り付くと見られるが、現在までに遺構としては確認されていない。 国師院 国師(奈良時代に都から各国に派遣された僧官)が執務した事務所。寺域東部の北側に位置する。大型建物の周囲に板塀(掘立柱塀)が巡らされ、独立した空間(院)を形成する。大型建物の身舎は桁行七間・梁間二間で、南・北に庇を有し、東西19.6メートル・南北約11.3メートルを測る。僧房と国師院の間には一辺約1.2メートルの木組みの井戸(SE635)があり、「国院」の墨書銘須恵器が出土している。国師の各国における拠点は不明であったが、全国で初めて国分寺の寺域内に国師院が存在したことが明らかとなった例になる。 なお、推定国師院の大型建物の北東約45メートルでは建物群が検出されるとともに、9世紀中頃-10世紀初頭の土器類や「講院」・「講一」・「講院三」・「読」の墨書銘土器が出土しており、国師院から移転設置された講師院の可能性がある(延暦14年(795年)に国師は講師に改称、天長2年(825年)に諸国講読師制度が開始)。 大衆院 修理所や倉などの寺院の宗教活動を支えるための施設群。寺域東部の南側において9世紀-10世紀頃の建物群が検出されており、大衆院の構成建物群と推定される。 築地塀 寺域を区画する塀。西辺・東辺において確認されており、西辺では幅2.5メートルの溝状遺構が、東辺では堰板を固定する添柱跡が検出されている。基底部幅約2メートル・高さ約3メートルと見られ、屋根は板葺で、棟にのみ瓦が使用されたと推測される。西辺・東辺の築地塀の距離は約255メートルを測る。南辺では東西方向に延びる区画溝が確認されており、南辺築地塀の側溝の可能性がある。現在までに北辺の遺構は確認されていないが、南北の規模は東西とほぼ同程度と推測される。 以上のほか、現在の仁王門の下には基壇が確認されており、中門または南大門の存在が推測される。 また寺域からは多量の遺物が出土している。特に寺域東端のゴミ捨て穴である土坑(SK451)からは、天平勝宝2年(750年)銘の木簡のほか、多量の木簡や「安居」・「斎会」の墨書銘須恵器・瓦・土器が出土しており、全国でも数少ない国分寺造営時期の遺物として注目される。 なお国分寺跡の南約5キロメートルの三永水源地北畔の窯跡では、国分寺と同様の瓦が検出されており、この付近が瓦供給窯と推定される。 塔礎石 塔心礎 講堂跡左奥に金堂跡(現国分寺本堂)。 僧房(僧坊)跡 軒廊跡講堂(右)と僧房(左)をつなぐ。 国師院 大型建物跡 国師院 周囲板塀 国師院・僧房間の井戸 寺域東端の廃棄土坑 寺域東側南の建物群(推定大衆院) 西辺築地塀 東辺築地塀 南溝 軒丸瓦広島県立歴史民俗資料館展示。 唐草文軒平瓦広島県立歴史民俗資料館展示。
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