太平山信仰とは? わかりやすく解説

太平山信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 08:51 UTC 版)

太平山三吉神社」の記事における「太平山信仰」の解説

太平山は山そのものが神である。その三霊神は力の神、勝利の神、事業の神、農耕の神、受験の神である。修行のために太平山にこもり修業によって自ら神になったとされる菅江真澄は「勝手能雄弓(かってのおゆみ)」で、鎌倉時代鳥海山麓の矢島から大江氏居住していた。その一族太平移住して永井氏名乗ったが、一帯を旧氏名あやかって大江平(おおえだいら)と言った。それがなまった大平(おえだら)となったという説を紹介している。現在でも地元民は「おえだら」という。この説を延長するとおえだらの山すなわち太平山となる。太平山大江氏通して薬師如来とされた。これは鳥海山から来たもので、鳥海山薬師如来である。佐藤久治は太平山三吉野(吉野山)との類似性指摘して三吉はもともと三吉野から来たと推定している。 太平山山名固定され時代定かではない金峰山薬師峰、三本ヵ岳、大蛇峯(おろちね)などともよばれた。太平山信仰が一般化したのは江戸中期である。々に講中ができ板碑建てられたのは文化文政年間1803年-30年)である。登山者が多い割には特にガイドを必要とせず、したがって登山口修験集団はできなかった。修験登山口神社別当をするにとどまった太平山三吉さん全国的に広がったのは銘酒太平山宣伝広告平行し正月祭典である梵天が珍祭として観光資源となったことが大きく影響及ぼしている。 山頂太平山三吉神社奥宮は祀神が大己貴命スクナビコナ三吉霊神である。白鳳2年役小角創立し延暦2年坂上田村麻呂再興したと伝わる。明治6年郷社明治12年県社明治39年太平山三吉神社となり、大正2年赤沼里宮設置許可降りる6月28日太平山参がある。江戸時代末期には爆発的な太平山信仰の広がりがあった。各地修験仲介講中ができ、三吉神社あるいは太平山神社作った。しかし、多く小堂石堂である。89ヶ所もの社が佐竹藩六郡に広がっていた。由利郡本庄市には4社ほどあった。また、男鹿市はまったくなく、南秋田郡には2社しかなかった。これは男鹿真山本山信仰圏には浸透できなかったものと考えられる1910年明治43年前後神社合併促進運動のため多くの社は合併されていったまた、標高500m以下の山を「太平山」として土地修験者修験の場として講中はその山に登って太平山信仰の代わりにした。これがミニ太平山である。河辺郡雄和町仙北郡西仙北町大曲市姫神山雄勝郡羽後町山本郡二ツ井町に5山があり(いずれも旧町名)すべて太平山の名称で呼ばれている。 三吉神最も古い記録は、只野真葛菅江真澄のものがある。江戸女流文学者の只野真葛著したむかしばなし』では三吉鬼は「見知らぬ男と言われている。酒屋で酒を飲んでそのまま出てこうとするが、そこで男に酒代請求すると必ず災い遭い、酒を捧げる酒代十杯ほどのが門に積み上がっている。それからは、その男だろうと酒をあくまで飲ませれば必ず夜中代わりの物が積み上がっているので、誰が言うと無く三吉鬼」と呼んだ。後にはどこかの山の大松をこの庭に移してくれと願をかけて酒樽ささげると酒は無くなり一夜のうちに松の木が庭に植えられている。大名人力動かせない品を酒を出して願うと、願いに従って運ぶ。三吉鬼三吉鬼もてはやしたが、文化年中より三~四十年前より絶えてその者は人里に出なくなってしまった。菅江真澄は『月酒遠呂智泥』で、ある年仙北郡のなる外大外小友村)で相撲取りをして世を渡っている若者が、太平山登り三吉神に酒や粢を供えることでカ士は力を得ている。三吉神の力の神としての性格うかがえる一方三吉」の所在尋ねられ籠舎にいた人々が「神仙であるからどことも定まっていない」と答えていることにも注目すると、太平山近の人々三吉神神仙であると認識していることになる。太平山三吉神社保存されている棟札にも「仙人三吉権現」(1691年)と記されていることから、三吉神は元々仙人考えられていたと推測できる近世期なかばに、太平山信仰は秋田藩久保田内の庶民の間に定着した。そして、文化文政年間には各で太平山信仰の講が組織されるようになったその伝統は現在も命脈保っており、平成11-12年(1999年-2000年)の時点で、太平山三吉神社総本宮奥宮・里宮)に定期的に参拝を行う講が85団体同じく三吉神社総本古が16団体存在した合計101団である。これらの約8割が秋田県内で組織された講であることから、太平山は、主に秋田県人々信仰寄せ霊山と言えよう。一つの太平山信仰の講社には約15世帯加入しており、一般に戸主男性)がその活動参加することになっている太平講の秋田市外旭川目地区の1979年実態は「夏季太平山登山目的にした団体であったが、次第信仰薄れ楽しみ会に移行している。8人ほどの会員が、1ヶ月1回夜間十月昼から盛大に持ち回り飲食を行う。床間には三吉大明神掛物をかけ『ロッコンザイショウ 太平山三吉権現 ザンギザンギ』と唱える。もともとは夕方法螺貝吹き集会をして、登山の時は精進をして魚肉絶ち水浴び垢離取り)をした。正月梵天あげと、近隣への梵天参加最大行事である」というものであった八郎潟周辺事例では、八郎潟周辺太平講は広く存在していた。琴浜村野石八幡神社境内には1858年記録され太平山碑がある。太平山神像薬師ではなく斧を持った山神像そっくりである。鹿渡町の『太平山議員名簿』の規約によれば毎月13日集まって遥拝する旧117日太平山三吉神社に、旧714日太平山まで1名以上が参拝すること」となっている。17日太平山三吉神社縁日であってその日会合を持つ例が多く17日講とも言われている。八竜村追泊では11名の会員17日会合行い「さんぎ さんぎ 六根さんぎ お山大金童子」と唱える戦中戦後の頃から三吉神社への参拝だけの活動になっていたが、最近はそれすらも少なくなっている。上小阿仁村での太平山講は地区によって違っており、料理をもちより地区太平山の祠にお参りをしたり、太平山まで行き参拝して帰り形で一泊する地区などがあった。 秋田戦争時には修験僧が太平山に籠もって朝敵退散修法をしている。飯田川小玉醸造酒造業をはじめ「金剛」という銘酒売り出した最初好評だったが2・3年にして販路止まった。ある夜「太平山に登れ」という夢告があり、はたと思いついて銘酒を「太平山」と改名したところ、需要急増し全国的な銘酒成長した。そして太平山の名がこの銘酒によって広がる結果ともなった

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