国王陛下の劇団
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1665年8月4日には、娘・マドレーヌ=エスプリが生まれた。モリエールの子供の中では、唯一この娘だけが成人している。マドレーヌ・ベジャールと、彼女のかつての恋人でモリエールと親交のあったモデーヌ伯爵が名付け親である。余談だが、彼女は子供を作らなかったのでモリエールの血筋はここで途絶えた。 その10日後の14日、モリエール劇団は正式に国王ルイ14世庇護下に入った。彼らは王の命令を受けてサン=ジェルマン=アン=レー城に赴き、そこで「王弟殿下の劇団」という称号を返上し、「国王陛下の劇団」と名乗るように申し渡された。劇団に与えられる年金も6000リーヴルに増額された。それまでの額の6倍である。かつて盛名座を起こしたころ、到底その実力、人気、規模で足元にも及ばなかったブルゴーニュ座とモリエール劇団は、ついに対等の地位となったのである。このような強力な支援を受けて、モリエールは同年9月22日に『恋は医者』を発表した。国王の招聘を受けて、ヴェルサイユ宮殿に赴いた時のことである。この作品は第4作目のコメディ=バレエであるが、国王の命令を受けてわずか5日のうちに上演された。パレ・ロワイヤルでも上演され、成功を収めている。 1665年12月、モリエールはラシーヌの裏切りに遭った。当時の上演に関する慣習として「台本が出版された時点でどの劇団でもそれを上演することが可能となる」というものがあったが、ラシーヌがこれを破ったのである。以下はこの件の経緯を簡潔にまとめたものである。 12月4日:モリエール劇団、ラシーヌの第2作目『アレクサンドル大王』の上演開始。第4回目までの上演は成功を収める 12月14日:ライバルのブルゴーニュ座、宮廷で『アレクサンドル大王』上演。まもなく同作の市民向け公演を行うことを示唆 12月15日:『アレクサンドル大王』第5回目の公演。興行収入が半減する 12月18日:ブルゴーニュ劇場で『アレクサンドル大王』上演開始。同日、モリエール劇団で第6回目の公演 12月27日:モリエール劇団、9回目の公演で上演打ち切り まだ台本さえも出版されていない新作の上演を12月14日の時点でブルゴーニュ座が上演できるというのは、当時の慣習を破っているだけでなく、ラシーヌが裏切ったことを明確に示していた。モリエール劇団が『アレクサンドル大王』のリハーサルに取り組んでいるときと同じころに、ライバルであるブルゴーニュ座にも台本を与えてリハーサルさせていたということに他ならず、これは劇壇デビューの機会を与えたモリエールに対する前代未聞の忘恩行為であったのである。それだけに留まらず、ラシーヌはモリエール劇団の看板女優であるマルキーズ・デュ・パルクと恋仲となり、最終的には彼女を引き抜いていってしまった。当然モリエールはこの行為に激怒し、ラシーヌとの仲は一気に悪化した。結局、ラシーヌに上演料を払わないまま、喧嘩別れとなってしまったのである。 1665年末から、1666年の2月まで、モリエールは病のために床に臥せていた。元々健康体でないのに、ラシーヌの裏切りなどもあって病気が昂進したのである。ちょうど同じころ、母后アンヌ・ドートリッシュが死去したので、喪に服するために劇団も活動停止を余儀なくされた。こうして活動を再開できたのは1666年2月21日のことであったが、特にめぼしい新作上演の予定もなく、目立った上演成績を挙げられることなく4月になり、復活祭の休暇を迎えた。 1666年6月4日、新作『人間嫌い』の上演が始まった。モリエールは、笑劇的な要素を極力抑えた作品を制作することで、それまで悲劇と比べて数段劣るとされていた喜劇を、悲劇と同じか、それ以上にまで高めようとしたのである。2回目の公演まではそれなりの成功を収めたが、それ以後の公演では客足が鈍っていった。本作は初演の前にオルレアン公爵夫人のサロンで朗読されて好評を収めたので、市民向けでの公演でも成功を目論んでいたモリエールであったが、期待していたほどの成功は収められなかった。高い教養のある貴族や知識人たちには本作の面白さが理解できたが、普通の一般市民には理解できなかったのである。こうして客足の鈍り方がいよいよ顕著になったとき、モリエールはテコ入れ策として『いやいやながら医者にされ』を書き上げ、『人間嫌い』にくっつけて上演することで何とか急場を凌いだ。 1666年12月1日から1667年2月19日まで、モリエール劇団は王の命令を受けて、サン=ジェルマン=アン=レー城に赴いた。詩人バンスラードの指揮の下に開かれる祭典「詩神の舞踊劇(Ballet des Muses)」に参加するためである。この祭典はバンスラードが13の場面からなるオペラを書くために、モリエール劇団やブルゴーニュ座、イタリア劇団の俳優たち、それにジャン=バティスト・リュリなどの音楽家や舞踊家が協力し、オペラが完成するという体をとっており、舞踊にはルイ14世をはじめとして、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールやモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスが参加した。 モリエールはこの祭典のために、作品を3つ制作した。『メリセルト』、『パストラル・コミック』、『シチリア人』である。祭典が始まった際、『メリセルト』はまだ第二幕目までしか完成していなかったが、上演するにはそこまでで十分だと国王が判断したため、12月2日に初演を迎えた。「国王がそこまでで良いと仰ったので、モリエールとしてもこれ以上手を加えなかった」と伝わっているように、モリエールの現存する作品中、唯一の未完作品である。この作品と差し替えられる形で、1667年1月5日に初演を迎えた『パストラル・コミック』はジャン=バティスト・リュリの協力を得て、効果的に音楽を用いることで、より一層喜劇的な効果を高めている作品である。この作品については断片的にしか伝わっていない。この祭典のフィナーレを飾ったのは『シチリア人』であった。1667年2月14日に初演を迎えたこの作品がパリの市民たちに披露されたのは、同年6月10日のことであった。モリエールの新作にしては珍しく振るわず、わずか17回で公演は打ち切られている。 この祭典の始まる前にミシェル・バロンが劇団に子役として加入した。モリエールは彼を非常に気に入ったようで、彼に準備中であった『メリセルト』の、ミルティルという少年の役を割り当てた。モリエールが非常に熱心にバロンの指導に打ち込んだため、彼の妻アルマンド・ベジャールが嫉妬し、バロンに平手打ちを食らわせたという。バロンも我慢ならず、すぐに退団しようとしたが、『メリセルト』は国王ルイ14世の御前で上演することになっていたため、役をすっぽかすことはできなかった。そのためミルティルを演じ切ったが、それが終わるとすぐに退団し、地方の劇団へ移ってしまった。 サン=ジェルマン=アン=レー城からパリに戻った劇団は、2月25日に公演を再開し、コルネイユの新作悲劇『アティラ』を上演した。この『アティラ』の公演を観た文化人による感想が残っているが、それによれば「悲劇の上演は、それまでブルゴーニュ座にしかできないと思っていたが、それは間違いであった。モリエール劇団が悲劇には向かないと、あちこちで言われているが、それは間違っている」とのことである。劇団の名声がますます高まっていたことを裏付ける証言であるが、この公演にはモリエールは出演していなかった。モリエールは劇作家でもあったが、同時に劇団の主要役者でもあり、その彼が公演に出演しないことは異常事態である。この悲劇の公演を終えてからもモリエールの出演ペースは極端に落ちており、巷ではモリエールが重病であるという噂さえ流れた。6月には復帰することが出来たようだが、モリエールの病状が相当深刻であったことが伺える。 復帰したモリエールであったが、『シチリア人』の興行成績はモリエールのほかの作品と比べて極めて低い水準であった。期待の新作の成績が振るわず、どうにかしなければならなくなった時、モリエールは大きな賭けに出た。『タルチュフ』を『ペテン師』と改題し、以前国王に注意を受けたような刺激的な部分を削除して、8月5日に上演したのである。目論み通りに成功をおさめ、『シチリア人』10回分の興行収入をたった一度の上演で稼ぎ出した。ところが翌日、それを聞きつけた高等法院長ラモワニョンによって、再び上映禁止命令が下されてしまった。高等法院に請願を繰り返しだすも、相手にもされなかった。その上、運の悪いことに国王ルイ14世はネーデルラント継承戦争で遠征中であった。 そのため、モリエールは最後の手段として請願書を書き、ラ・グランジュら劇団員2名にそれを届けさせることにした。この時の旅費として1000リーヴルかかった上に、主要な役者が2名も派遣のためにいなくなったおかげで、ほぼ2か月間に亘って、劇団は上演を停止せざるを得なかった。それほどの犠牲を払ってでも、『タルチュフ』の上演する必要があったことが伺えるが、結局上演許可を取り付けることはできなかった。それどころか8月11日には、パリの大司教ペレフィックスにより、『タルチュフ』の公的、私的を問わず一切の上演を禁じ、違反者には破門を宣告する旨の通告が発せられ、『タルチュフ』を巡る事態はますます悪い方向へ転がっていった。
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