国王陛下の劇団とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 国王陛下の劇団の意味・解説 

国王陛下の劇団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:46 UTC 版)

モリエール」の記事における「国王陛下の劇団」の解説

1665年8月4日には、娘・マドレーヌエスプリ生まれたモリエールの子供の中では、唯一この娘だけが成人している。マドレーヌ・ベジャールと、彼女のかつての恋人モリエール親交のあったモデーヌ伯爵名付け親である。余談だが、彼女は子供を作らなかったのでモリエール血筋はここで途絶えた。 その10日後の14日モリエール劇団正式に国王ルイ14世庇護下に入った。彼らは王の命令受けてサン=ジェルマン=アン=レー城に赴き、そこで「王弟殿下劇団」という称号返上し、「国王陛下の劇団」と名乗るように申し渡された。劇団与えられる年金6000リーヴル増額された。それまでの額の6倍である。かつて盛名座起こしたころ、到底その実力、人気規模足元にも及ばなかったブルゴーニュ座とモリエール劇団は、ついに対等地位となったのであるこのような強力な支援受けてモリエール同年9月22日に『恋は医者』を発表した国王招聘受けてヴェルサイユ宮殿赴いた時のことである。この作品第4作目のコメディバレエであるが、国王命令受けてわずか5日のうちに上演された。パレ・ロワイヤルでも上演され成功収めている。 1665年12月モリエールラシーヌの裏切りに遭った当時の上に関する慣習として「台本出版され時点でどの劇団でもそれを上演することが可能となる」というものがあったが、ラシーヌがこれを破ったのである。以下はこの件の経緯簡潔にまとめたものである12月4日モリエール劇団ラシーヌ第2作目アレクサンドル大王の上開始第4回目までの上演は成功を収める 12月14日ライバルブルゴーニュ座、宮廷で『アレクサンドル大王上演。まもなく同作市民向け公演を行うことを示唆 12月15日:『アレクサンドル大王第5回目の公演興行収入半減する 12月18日ブルゴーニュ劇場で『アレクサンドル大王上演開始同日モリエール劇団第6回目の公演 12月27日モリエール劇団9回目公演上演打ち切り まだ台本さえも出版されていない新作の上演を12月14日時点ブルゴーニュ座が上演できるというのは、当時慣習破っているだけでなく、ラシーヌ裏切ったことを明確に示していた。モリエール劇団が『アレクサンドル大王』のリハーサル取り組んでいるときと同じころに、ライバルであるブルゴーニュ座にも台本与えてリハーサルさせていたということに他ならず、これは劇壇デビュー機会与えたモリエール対す前代未聞忘恩行為であったのであるそれだけ留まらずラシーヌモリエール劇団看板女優であるマルキーズ・デュ・パルク恋仲となり、最終的には彼女を引き抜いていってしまった。当然モリエールはこの行為激怒しラシーヌとの仲は一気悪化した結局ラシーヌ上演料を払わないまま、喧嘩別れとなってしまったのである1665年末から、1666年2月まで、モリエールは病のために床に臥せていた。元々健康体でないのに、ラシーヌの裏切りなどもあって病気昂進したのである。ちょうど同じころ、母后アンヌ・ドートリッシュ死去したので、喪に服するために劇団活動停止余儀なくされた。こうして活動再開できたのは1666年2月21日のことであったが、特にめぼしい新作上演予定もなく、目立った上演成績挙げられることなく4月になり、復活祭休暇迎えた1666年6月4日新作人間嫌いの上演が始まったモリエールは、笑劇的な要素極力抑えた作品制作することで、それまで悲劇比べて数段劣るとされていた喜劇を、悲劇と同じか、それ以上にまで高めようとしたのである2回目公演まではそれなりの成功収めたが、それ以後公演では客足鈍っていった。本作初演前にオルレアン公爵夫人サロン朗読されて好評収めたので、市民向けでの公演でも成功目論んでいたモリエールであったが、期待していたほどの成功収められなかった。高い教養のある貴族知識人たちには本作面白さ理解できたが、普通の一般市民には理解できなかったのである。こうして客足鈍り方がいよいよ顕著になったとき、モリエールテコ入れ策として『いやいやながら医者にされ』を書き上げ、『人間嫌い』にくっつけて上演することで何とか急場凌いだ1666年12月1日から1667年2月19日まで、モリエール劇団は王の命令受けてサン=ジェルマン=アン=レー城赴いた詩人バンスラードの指揮の下に開かれる祭典詩神舞踊劇(Ballet des Muses)」に参加するためである。この祭典はバンスラードが13場面からなるオペラを書くために、モリエール劇団ブルゴーニュ座、イタリア劇団俳優たち、それにジャン=バティスト・リュリなどの音楽家舞踊家協力しオペラ完成するという体をとっており、舞踊にはルイ14世はじめとしてルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス参加したモリエールはこの祭典のために、作品3つ制作した。『メリセルト』、『パストラル・コミック』、『シチリア人』である。祭典始まった際、『メリセルト』はまだ第二幕目までしか完成していなかったが、上演するにはそこまで十分だ国王判断したため、12月2日初演迎えた。「国王そこまで良い仰ったので、モリエールとしてもこれ以上手を加えなかった」と伝わっているように、モリエール現存する作品中、唯一の未完作品である。この作品差し替えられる形で、1667年1月5日初演迎えたパストラル・コミック』はジャン=バティスト・リュリ協力得て効果的に音楽用いることで、より一層喜劇的な効果高めている作品である。この作品については断片的にしか伝わっていない。この祭典フィナーレ飾ったのは『シチリア人であった1667年2月14日初演迎えたこの作品パリ市民たちに披露されたのは、同年6月10日のことであったモリエール新作にしては珍しく振るわず、わずか17回で公演打ち切られている。 この祭典の始まる前にミシェル・バロン劇団子役として加入したモリエールは彼を非常に気に入ったようで、彼に準備中であったメリセルト』の、ミルティルという少年の役を割り当てたモリエールが非常に熱心にバロン指導打ち込んだため、彼のアルマンド・ベジャール嫉妬しバロン平手打ち食らわせたという。バロン我慢ならず、すぐに退団しようとしたが、『メリセルト』は国王ルイ14世御前上演することになっていたため、役をすっぽかすことはできなかった。そのためミルティルを演じ切ったが、それが終わるとすぐに退団し地方劇団へ移ってしまった。 サン=ジェルマン=アン=レー城からパリ戻った劇団は、2月25日公演再開しコルネイユ新作悲劇アティラ』を上演した。この『アティラ』の公演を観た文化人による感想残っているが、それによれば悲劇の上演は、それまでブルゴーニュ座にしかできない思っていたが、それは間違いであったモリエール劇団悲劇には向かないと、あちこち言われているが、それは間違っている」とのことである。劇団名声がますます高まっていたことを裏付ける証言であるが、この公演にはモリエール出演していなかった。モリエール劇作家でもあったが、同時に劇団の主要役者でもあり、その彼が公演出演しないことは異常事態である。この悲劇公演終えてからもモリエール出演ペース極端に落ちており、巷でモリエール重病であるという噂さえ流れた6月には復帰することが出来たようだが、モリエール病状が相当深刻であったことが伺える。 復帰したモリエールであったが、『シチリア人』の興行成績モリエールのほかの作品比べて極めて低い水準であった期待新作成績振るわず、どうにかしなければならなくなった時、モリエール大きな賭け出た。『タルチュフ』を『ペテン師』と改題し以前国王注意受けたような刺激的な部分削除して8月5日上演したのである目論通り成功をおさめ、『シチリア人10分の興行収入をたった一度の上演で稼ぎ出した。ところが翌日、それを聞きつけた高等法院長ラモワニョンによって、再び上映禁止命令下されてしまった。高等法院請願繰り返しだすも、相手にもされなかった。その上、運の悪いこと国王ルイ14世ネーデルラント継承戦争遠征であった。 そのため、モリエール最後の手段として請願書書きラ・グランジュ劇団員2名にそれを届けさせることにした。この時の旅費として1000リーヴルかかった上に、主要な役者が2名も派遣のためにいなくなったおかげで、ほぼ2か月間に亘って劇団上演停止せざるを得なかった。それほど犠牲払ってでも、タルチュフの上演する必要があったことが伺えるが、結局上演許可取り付けることはできなかった。それどころ8月11日には、パリ大司教ペレフィックスにより、『タルチュフ』の公的私的問わず一切の上演を禁じ違反者には破門宣告する旨の通告が発せられ、『タルチュフ』を巡る事態はますます悪い方向転がっていった。

※この「国王陛下の劇団」の解説は、「モリエール」の解説の一部です。
「国王陛下の劇団」を含む「モリエール」の記事については、「モリエール」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「国王陛下の劇団」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「国王陛下の劇団」の関連用語

国王陛下の劇団のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



国王陛下の劇団のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのモリエール (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS