上映禁止
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ジゴマブームの中、少年層に犯罪を誘発するという説や、ジゴマの影響を受けたという犯罪の報道、泥棒を真似たジゴマごっこの流行などがあり、東京朝日新聞では1912年10月4-14日にブームの分析や影響が8回の連載で取り上げられた。こういった世論の高まりの中、10月9日に警視庁により、犯罪を誘致助成する、公安風俗を害するとして、ジゴマ映画及び類似映画の上映禁止処分がなされた。これは内務省警保局も決定に関わっており、続いて各府県に対しても警保局から同様の通牒が送られ、上映禁止は次第に全国に広まっていった。この件を機に、それまで各警察署が行っていた映画等の興行の検閲が、制度的に整えられていくこととなった。 1912年10月20日、警視庁はいっさいのジゴマ映画の上映を禁止した。 しかしジゴマブームによって、1912年の映画を含めた東京市内の観物場入場者数は前年の3倍の1200万人に達し(そのうち映画は851万人)、活動写真界の大きな成長をもたらした。また探偵小説についても禁止処分を訴える論調が新聞などに出たが、これには処分は下されなかった。 その後は、ジゴマの名を隠したジゴマ映画が散発的に上映されることはあったが、ブームは下火になり、1913年にはジゴマ探偵小説の出版も無くなる。類似書としては、ジゴマの残党が登場する、1914年押川春浪『恐怖塔』、江見水蔭『三怪人』などがあった。また当時出版された探偵小説は、貸本屋、古本屋などを通じて読まれ続けた。駒田好洋ら興行師は、金儲けの神様となったジゴマの供養祭を両国回向院で催す計画を立てたが、これは警察から中止を勧告された。上映禁止は1924年に解禁となったと、吉山旭光『日本映画史年表』には記載されている。
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上映禁止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:44 UTC 版)
「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」の記事における「上映禁止」の解説
2022年4月、サウジアラビアとエジプトで同年5月5日から公開を予定していた本作品の上映が禁止となったと報じられた。サウジアラビアでは「LGBTQに関する理由のため」とされており、本作品に登場しているアメリカ・チャベスが言及した「ふたりの母親」についてのシーンが原因とされている。なお、サウジアラビアの検閲担当者はイギリスの一般紙である「ガーディアン」の取材に対し、「単なる編集上の問題であり、上映が禁止されている訳ではない」として、該当の報道を否定している。
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