半島戦争
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半島戦争(はんとうせんそう、1808年 - 1814年、英語: Peninsular War、ポルトガル語: Guerra Peninsular)は、ナポレオン戦争中にイベリア半島でスペイン軍、ポルトガル軍、イギリス軍の連合軍とフランス軍との間に戦われた戦争である。日本ではスペイン独立戦争[7](スペイン語: Guerra de la Independencia Española)またはスペイン反乱[注釈 3]としても知られている。スペイン戦争(フランス語: Guerre d'Espagne)、フランス戦争(カタルーニャ語: Guerra del Francès)とも呼ばれる。
注釈
- ^ Some accounts mark the Franco-Spanish invasion of Portugal as the beginning of the war (Glover 2001, p. 45).
- ^ Denotes the date of the general armistice between France and the Sixth Coalition (Glover 2001, p. 335).
- ^ 「スペイン反乱」は日本の高校世界史の教科書を中心に12社。最近は母国語での呼称に従うというルールから「スペイン独立戦争」の方が多いようである。本記事の名称である「半島戦争」は英語名由来。
出典
- ^ a b c d e Clodfelter 2017, p. 153.
- ^ a b Clodfelter 2017, p. 156.
- ^ Clodfelter 2017, p. 154.
- ^ a b c Clodfelter 2017, p. 155.
- ^ a b c d e Warfare and Armed Conflicts: A Statistical Encyclopedia of Casualty and Other Figures, 1492-2015. p. 157
- ^ a b c Clodfelter 2017, p. 157.
- ^ “スペイン独立戦争(スペインどくりつせんそう)とは”. コトバンク. 2020年7月21日閲覧。
- ^ Esdaile, p. 2
- ^ Gates, pp. 5–7 and Esdaile, pp. 2–5
- ^ Esdaile, pp. 7–8 and Gates, p. 8
- ^ McLynn, Frank. "Napoleon: A biography", Pimlico, London, 1997. (pp. 396-406)
- ^ McLynn, Frank. "Napoleon: A biography", Pimlico, London, 1997. (p406)
- ^ a b c d e スペイン・ポルトガルを知る事典、p.175 スペイン独立戦争の項(フアン・ソペーニャ執筆)
半島戦争
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「1809年オーストリア戦役」の記事における「半島戦争」の解説
詳細は「半島戦争」を参照 オレンジ戦争(英語版)の後、ポルトガルは異なる2つの外交政策を行った。ブラジルの皇太子でポルトガルの摂政のジョアン6世はフランスとスペインと共にバダホス条約に調印し、イギリスと貿易を行っている港を封鎖した。一方ポルトガル最古の同盟国であるイギリスとのウィンザー条約は無効になっておらず、秘密外交を維持した。フランス・スペイン艦隊がトラファルガーの海戦で敗れるとジョアンは公然とイギリスとの貿易と外交を行うようになった。 このようなポルトガル政府の政策の変化を受けて、ナポレオンはポルトガルに軍を派遣した。1807年10月17日ジャン=アンドシュ・ジュノー指揮下の24,000名のフランス軍はスペインの協力の元でピレネー山脈を渡り、ナポレオンの大陸封鎖を強化するためポルトガルへ向かった。12月1日、首都リスボンを占領し、ポルトガル国王一族はブラジルに亡命した。これが6年に渡って行われる半島戦争の始まりであり、この戦いに苦戦する事でフランス帝国の多くの力が奪われた。1808年の冬の間、フランス外交官はスペインの内政干渉を行う事が増え、スペイン王室の不和を掻き立てようとした。1808年2月16日、ナポレオンがブルボン朝の政治的派閥の仲裁を仲介する事を公言した時、フランスの陰謀が明るみにでた。ジョアシャン・ミュラが12万の軍を引き連れスペイン入りし3月24日にマドリードに到着した。数週間後にマドリードで占領に反発した激しい暴動が発生し、フランスの侵略に対する抵抗は瞬く間にスペイン全土に広がった。7月のバイレンの戦いでのフランスの衝撃的な敗北はナポレオンの敵対者に希望を与え、ナポレオンは半島戦争に自ら介入するようになった。ナポレオンに率いられた新たなフランス軍はスペイン軍に打撃を与えた後、秋にエブロ川を渡った。ナポレオンは12月4日に80,000名の兵を引き連れてマドリード入りした。彼はムーア(英語版)のイギリス軍に打撃を与えた。イギリス軍は速やかに海岸まで追い出され、コルーニャの戦い(英語版)を最後にスペイン全土から撤退した。
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半島戦争
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「ジャン=アンドシュ・ジュノー」の記事における「半島戦争」の解説
ジュノーの指揮官としての活動の多くは半島戦争におけるものである。彼は1807年のポルトガル侵攻を指揮し、サラマンカを11月に出発すると11月30日ないし12月初めにリスボンを占領した。彼は勝利した戦いの名称から「アブランテス公爵」の称号を授与され、ポルトガル総督となった。 これが原因でポルトガル遠征軍司令官となり、困難を極めながらも1807年11月30日にリスボンを占領した。道中のスペインでは民衆を敵に回し、ゲリラ戦に苦しんだ。 しかし1808年8月にイギリスが参戦すると、フランスは8月21日のヴィメイロの戦いで敗北を喫し、ジュノーは包囲されてしまった。そして屈辱的なシントラ条約にサインすることでどうにか捕虜となるのは免れたが、彼とその軍隊は、なんとか集めることができた武器と携行品しか持つことを許されなかった。ジュノーは10月にフランスに帰国したが、あやうく軍法会議にかけられるところだった。1810年にはアンドレ・マッセナ元帥の配下として再びイベリア半島に戻り、そこで重傷を負うこととなった。
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半島戦争
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「ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)」の記事における「半島戦争」の解説
半島戦争では1808年末に騎兵2個旅団を率いて、デイヴィッド・バード(英語版)率いる陸軍師団と合流するよう命じられた。パジェット卿はア・コルーニャに上陸した後、辛くもバードとの合流に成功した。このとき、サー・ジョン・ムーア(英語版)率いる2万の軍勢がリスボンから進軍してきており、バードとムーアは合流する予定だったが、ナポレオン・ボナパルトが破竹の勢いで進軍してきたため、バードとムーアはそれぞれア・コルーニャとリスボンに向けて撤退した。これを知ったナポレオンはバードとムーアが全面撤退に転じたと判断してマドリードに進軍、スペイン北西部にはスールト元帥率いる1万8千の軍勢を残しただけだった。撤退戦でイギリス軍の損害が増える中、パジェット卿はサハグンの戦い(英語版)で1個連隊を率いてフランスの騎兵旅団に突撃して戦功をあげた。 パジェットの援護もあり、12月20日にはバードとムーアがスールトに知られないままマヨルガ(Mayorga)で合流したが、ナポレオンは22日にマドリードを陥落させると、自軍20万を率いてイギリス軍を掃討してきたため、イギリス軍は撤退を再開した。29日、パジェットはベナベンテの戦い(英語版)でシャルル・ルフェーブル=デヌエット(英語版)率いるフランス騎兵と戦った。このとき、エスラ川の橋が爆破されていたため、フランス軍は代わりに渡れる浅瀬を探したが、パジェットは哨兵隊でフランス軍を引きつけ、フランス騎兵が哨兵隊に向けて突撃すると、その横から第10ハザール連隊(英語版)を突撃させて撃破、ルフェーブル=デヌエットを捕虜にした。イギリス軍がガリシアの山岳地帯まで撤退すると、後衛は歩兵が務めることになり、パジェットも病気になって戦闘に参加できず、1809年1月のア・コルーニャの戦い(英語版)ではムーア戦死の報せを船上で聞いた。その後、1809年のワルヘレン戦役(英語版)で1個師団を指揮した。ワルヘレン戦役以降は一時戦争での任務を与えられず、次に実戦を経験するのは1815年のこととなった。
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半島戦争
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「フアン・ルイス・デ・アポダカ」の記事における「半島戦争」の解説
1808年にフランス軍のスペイン侵入とそれに対する抵抗が起き、アポダカはカディス湾で起きたロシリー艦隊の拿捕 (Capture of the Rosily Squadron) やバイレンの戦いに参加した。 アポダカはセビリアの最高中央評議会の全権大使としてロンドンに行き、イギリスとの平和協定を結んだ。大使として1811年までロンドンに滞在した。 1812年にキューバおよびフロリダ総監兼ハバナのアウディエンシア長官に任命された。アポダカは産業の育成とハバナの美化につとめた。当時アメリカ大陸のスペイン植民地では多数の反乱が発生していた。
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