半島化以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 02:41 UTC 版)
現在の岡山三大河川の河口沖へと土砂が運ばれ(当時は今よりもずっと北側に河口があった)、堆積作用により海は次第に浅くなっていき、戦国時代末期から徐々に干拓がされていき、江戸前期から中期頃に児島中北部の種松山北東(現在の倉敷市藤戸町・粒江あたり)から藤戸町天城・有城・加須山・鶴形山・福山を南北に繋ぐラインで陸続きとなった。その後も干拓は進められていき、江戸後期には完全に海は陸地化し、児島半島となり現在に至っている。島嶼時代の大部分を占めていた山地は独立山(山塊)となり、児島山塊(児島丘陵)となった。 半島化すると、それまでの児島北側の航路が児島の南側に移り、それまでの藤戸の泊・西阿知・倉敷・西大寺・福岡などに代わり、下津井・宇野、さらに周辺では連島・玉島・牛窓など児島半島南寄りの地域が台頭した。一方、児島半島北東部にできた児島湾岸では、岡山城城下町と旭川の水運による由加・金比羅参りなどの需要により、八浜が栄えた。また、倉敷は倉敷代官所が置かれたことにより、倉敷川を運河として利用した物資の集散地として陣屋町・川港町として繁栄した。当時の倉敷川の河口付近にあった彦崎も倉敷の外港として繁栄することとなった。他の旧吉備穴海沿岸の港は、その機能を停止し、農村や在郷町などに変貌した。
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