ふじと〔ふぢと〕【藤戸】
藤戸
藤戸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:55 UTC 版)
源範頼軍と平資盛軍が備前国で藤戸の戦い。佐々木盛綱は浅瀬を見つけて馬で渡って戦った。
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藤戸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 14:50 UTC 版)
旧児島郡の北西端にあたり、倉敷川の西岸に位置する。面積は約4.781平方キロメートル。川岸近くに家並をつくり、塩干(ひぼうし)の丘と呼ばれる丘の北側にも集落をなしている。川岸に沿う丘上には、源平合戦に所縁のある真言宗の古刹・藤戸寺があり、その門前町として当地の中心的集落が生まれた。 児島が本土と離れていた頃、当地と天城(後述)の間には海峡があり藤戸の鳴門(藤戸海峡)と呼ばれ、藤戸付近は特に狭い地点で、「渡(と)」とも呼ばれ、海上交通の要衝となっていた。藤戸寺門前町は港町としても機能し、藤戸の渡しと呼ばれた。また、江戸時代には、金比羅往来が通過しており、陸上交通においても要衝であった。 そのため源平時代には平家方海上勢力の基地にされていたことが、寿永3年12月に行われた藤戸合戦の戦記に記されている。 『東備郡村誌』には、「上昔備前の内海埋まらず広がりしときは、これを吉備の穴海といいて、この藤戸の辺りは迫門(せと)にて西備の海に連れり」とあり、また「潮汐の張落に応い波また自ら乱流し、これを臨むに藤花の風に斜なる如くみゆ、依りてその名を得る所なり」と地名の期限を潮流のさまに結びつけている。 江戸時代になった頃には、児島郡藤戸村と称するようになる。江戸時代初頭から粒江沖など周辺が干拓されていくと、藤戸海峡は、現在の倉敷川の前身となる汐川となる。正保4年に、天城との間の汐川に中洲を中継ぎとする形で長さ20間の橋が架けられた。『吉備温故』には、田畑38町3反、家98軒、人口男女551人、池21ヶ所、船5艘を挙げている。 近代においては、米・麦・イグサが主要な農産物で、畳表・ゴザを特産としていたが、現在は衰退している。藤戸寺や浮洲岩など藤戸海峡に名残がある遺跡があり、藤戸寺の石造五重塔は岡山県の重要文化財に指定されている。 また、藤戸寺や藤戸合戦に由来する藤戸寺門前町の名物菓子であった藤戸饅頭は、現在も名物菓子として知られている。 現在、主要地方道・岡山県道倉敷玉野線(天城街道)などが通過し、交通量が多い。
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