半島戦争、ブラジルの独立
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「ポルトガルの歴史」の記事における「半島戦争、ブラジルの独立」の解説
1801年にポルトガルはフランスと同盟したスペイン軍の攻撃を受けて大敗し、スペインにオリヴェンサを割譲し、賠償金を支払わなければならなかった(オレンジ戦争)。 ヨーロッパで勢力を拡大するフランスのナポレオン・ボナパルトに対してポルトガルは中立を表明していたものの、1806年にフランスからイギリスとの友好関係の破棄を通告される。1807年11月29日に摂政ドン・ジョアンはポルトガル本国を統治する摂政政府を組織した後、王族や高級官僚からなる随行員とイギリス海軍を伴ってブラジルに脱出し、翌30日にフランスの将軍ジャン=アンドシュ・ジュノーがリスボンに入城する。フランス革命を支持する一部の知識人から支持されたジュノーは摂政政府を解散させるが、1808年にスペインで発生した民衆蜂起に勇気づけられた民衆はフランス軍に抵抗した(半島戦争)。アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍とポルトガル軍はフランス軍を撃退するが戦争によって国土は荒廃し、フランス軍撤退後もイギリス軍はポルトガルに駐屯し続ける。イギリスの将軍ウィリアム・ベレスフォード(英語版)は摂政政府に強い発言力を持ち、事実上のポルトガルの統治者として君臨する。 ポルトガルを脱出したドン・ジョアンとマリア1世らは1808年3月にリオデジャネイロに到着し、この地に宮廷を置いた。1810年にブラジルの宮廷とイギリスの間で結ばれた通商航海条約によってブラジルはポルトガル本国の植民地主義から脱却し、1814年のウィーン会議の後もジョアンはブラジルに留まり続けた。ジョアンはウィーン会議で採用されたウィーン体制に合わせるためにブラジルを植民地から王国に昇格させ、1815年12月にポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。1816年のマリア1世の死後、ジョアンが王位を継承し、ジョアン6世として即位する。ブラジルに移った王室と貴族は本国からの地代を受け取る生活を送り、さながらブラジルが宗主国のような立場になっていた。 経済の低迷と国王の不在に不安を覚えるポルトガル本国の民衆と中間層はイギリスの支配に不満を抱き、彼らの間にフランス革命のジャコバン主義、イギリスのフリーメイソンの自由主義が浸透し始める。1820年8月24日、自由主義者と同盟を結んだポルトガル将校はベレスフォードの不在に乗じてポルトで「革命宣言(プロヌンシアメント)」を発し、反乱の余波は北西部・中部の諸都市に及んだ(1820年自由主義革命)。1821年1月にコルテスが招集され、国民主義・三権分立の原則に基づいた憲法の制定、絶対主義王制に対する自由主義的な改革が唱えられる。 ジョアン6世は革命政権との和解を図って王太子ドン・ペドロを本国に派遣しようと試みたがコルテスの強い抵抗にあい、1821年4月にペドロをブラジルに残して帰国した。コルテスはブラジルの植民地への降格を決定し、同年8月にリスボン議会はペドロのポルトガル本土への召還とリオデジャネイロの行政機関の移転を決定するが、ポルトガル本国の一連の議案はブラジルの知識人と支配者層を独立に向けて団結させる。1822年10月にブラジルはポルトガルから独立し、ペドロを皇帝とするブラジル帝国が建国された。1825年8月にポルトガルはイギリスの圧力を受けてブラジルの独立を承認するが、その代償としてブラジルでの通商特権の維持、奴隷貿易の停止をブラジル側に認めさせた。
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