前批判期とは? わかりやすく解説

前批判期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:59 UTC 版)

イマヌエル・カント」の記事における「前批判期」の解説

イマヌエル・カント1724年東プロイセン首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人第四子として生まれた生涯のほとんどをその地で過ごしそこで没した両親ルター派敬虔主義信仰していた。1732年敬虔派宿泊施設であるフリードリヒ校に通学し始める。当校ではラテン語教育重視されたほか、哲学正規授業としてあり、ヴォルフ派の哲学教えられていた。1740年ケーニヒスベルク大学入学する入学後次第ニュートン活躍などで発展遂げつつあった自然学関心向かい哲学教授クヌッツェン影響のもと、ライプニッツニュートン自然学研究した1746年父の死去にともない大学を去る。学資が続かなくなったのに加えて最近の研究ではクヌッツェンにその独創性認められなかったことも大学を去る動機になった推定されている。この時に哲学部ドイツ語卒業論文活力測定考』(1749刊行)を提出している。卒業後の7年間はカントにとってはくるしい時期で、ケーニヒスベルク郊外2、3の場所で家庭教師をして生計をたてていた。 1755年春、『天界一般的自然史理論』を刊行するが、印刷中に出版社倒産したため、極少数のみが公刊された。この論文カント太陽系星雲から生成されたと主張しており、この学説1796年ラプラス唱えた理論似ていたため、19世紀にはカント・ラプラス理論呼ばれた4月にはケーニヒスベルク大学哲学部哲学修士学位取得のため、ラテン語論文『火について』を提出し6月12日修士学位取得9月27日就職資格論文形而上学的認識第一原理の新解明』で公開討議おこない擁護成功冬学期より、同大学の私講師として職業的哲学者の生活に入る。カント哲学者として道のりは、『純粋理性批判出版以前以後区分され、前批判期と批判期区別される1756年恩師クヌッツェン逝去(1751)により欠員出た論理学形而上学教授職授の地位を得るため、『自然モナド論』を執筆当時正教授就任のためには少なくとも3つのラテン語論文執筆し公開討論審査擁護しなければならなかった。4月10日公開討論会おこなわれ擁護成功する。しかし、プロイセン政府オーストリアとの七年戦争開始し財政的理由のため欠員補充をしない方針打ち出したため、教授就任の話は白紙となった1764年、『美と崇高との感情に関する観察出版直後自家用本の書き込みによればカントは「何も知らない下層民を軽蔑していた」が、「ルソーがその私を正してくれた」。「私は人間性を敬うことを学ぶ」とある。1765年、「1765-66年冬学期講義計画公告」のなかではじめ理性批判アイデア公にされる。また同年より始まったランベルトとの書簡の中では、自然哲学実践哲学形而上学的原理構想開陳され、自らの「あらゆる努力は、主として形而上学の本来的方法を、この方法を通じてまた全哲学の方法目標としている」と述べられている。1766年には、批判期到来予感させる『形而上学夢によって解明された視霊者の夢』を出版同書では、スウェーデンの視霊者・神秘主義者スヴェーデンボリ起こしてみせたと主張する超常現象紹介する同時に現在の形而上学粗野な方法論来るべき展望について語られている。 1766年ケーニヒスベルク王立図書館副司書官に就任し、また博物美術標本室監督兼任していたカントだったが、1769年エアランゲン大学論理学形而上学教授招聘されるが固辞、また1770年にはイェナ大学から哲学教授職への就任打診されているが、これも辞退最終的に1770年3月46歳時にケーニヒスベルク大学論理学形而上学正教授任命された。同年8月11日には正教授就任論文『可感界と可想界形式原理』が公開審査かけられ遅くとも9月には出版同書は「この後十年あまりにわたる沈黙模索の期間をへて公にされることになる『純粋理性批判』に直接間接につながってゆく重要な構想のめばえを多く含むものであり、これを契機に〔…〕人間理性の限界の学としての形而上学という構想は、たんなる漠然とした模索段階脱して着実な実現の緒についたといって過言ではない」。後にこの時代振り返ったカントは、1769年に「大きな光」が与えられたと述べており、それは一般的に空間と時間観念性発見であると考えられている。 『純粋理性批判』が出版されるまでの十年近い間は、先述のように「沈黙模索の期間」であった。しかしその間カントの前で沈思黙考し続けた考えわけにはいかない。むしろ大学業務多忙になっていったと言えるだろう。1772年からは人間学講義開講され1776年には哲学部長に就任同年学期授業時間は週16時間にのぼっている。1779年冬学期には二度目学部長就任1780年にはケーニヒスベルク大学評議会会員となっている。そして1781年カント主著純粋理性批判』がハレのハルトクノッホ書店より出版されることになった(以下『純理』と略記)。

※この「前批判期」の解説は、「イマヌエル・カント」の解説の一部です。
「前批判期」を含む「イマヌエル・カント」の記事については、「イマヌエル・カント」の概要を参照ください。

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