しょやけん 【初夜権】
初夜権
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初夜権(しょやけん)とは、主に中世のヨーロッパにおいて権力者が統治する地域の新婚夫婦の初夜に、新郎(夫)よりも先に新婦(妻)と性交(セックス)することができた権利である。
注釈
出典
- ^ a b c 辞書「日本国語大辞典 第二版」(小学館、2006年)第7巻、辞書「広辞苑 第六版」(岩波書店、2008年)などの項目「初夜権」より。
- ^ a b 辞典「世界大百科事典 改定版」(平凡社、2007年)第14巻の項目「初夜権」より。
- ^ a b c 辞典「世界宗教大事典 第三刷」(平凡社、1991年)の項目「初夜権」より
- ^ a b c d 辞典「社会科学大辞典 第四刷」(鹿島出版会、1971年)第10巻の項目「初夜権」より。
- ^ 辞書「古典ラテン語辞典」(大学書林、2005年)より。
- ^ 辞書「ロベール仏和大辞典」(小学館、1988年)、辞書「新和英大辞典 第4版」(研究社、1974年)など。
- ^ a b c d e f Alain Boureau著, Lydia G. Cochrane訳 "The lord's first night: the myth of the droit de cuissage."(University of Chicago Press, 1998年)。アメリカのシカゴ大学出版局による初夜権の研究書。英語のみ。南方熊楠も参考にしたカール・シュミット(Karl Joseph Liborius Schmidt)の「初婚夜権」(Karl Schmidt " Jus Primae Noctis " Eine geschichtlicbe Untersucbung, 1881)が引用されている。
- ^ 辞書「日本国語大辞典 第二版」(小学館、2006年)第7巻の項目「あなばち割る」より。
- ^ なお、この著者はドイツの法学者カール・シュミットとは別人である
- ^ a b c 辞典「新社会学辞典」(有斐閣、1993年)の項目「初夜権」より。
- ^ 。清水正二郎著「世界史の美しい裸女たち」(新風出版社、1970年)。フランスのブザンソン図書館に残るとされる、11世紀に発行された「カトリック教会年報」には、聖パトリシア修道会糾問士(検査官)ニコラス・ザンヌベチャによる記述で、処女膜とは膣の「入口をふさぎ、通常小指一本のみ通過する裂口なり。もしその裂口の周辺がさけ、粘膜の形、花弁のごとく前後に折れ倒れたるときは、すでに男性を知り足るものとして、その少女をきびしく鞭打つべし」などと解説されているという。なお、1999年に公開されたリュック・ベッソン監督のハリウッド映画「ジャンヌ・ダルク」にも処女検査の様子が登場するが、ここでは助産婦の経験があると思しき数人の尼たちが検査を担当している
- ^ a b 桐生操著「やんごとなき姫君たちの秘め事」(角川文庫、1997年)の項目「真正なる初夜権」より。文中に「初夜権が、フランスでは十六世紀ごろまで、ロシアでは十九世紀まで存続していた」とあり、その前後に「いいな、そんな役目、うらやましいな、などとハシャぐのはまだ気が早い」や「領主にとって農夫の娘たちは、いわば無料の娼婦だったというわけだ」、「そんなことから、処女崇拝の習慣が、なお高まったのかもしれない」などとあり、これらは多少恣意的に表現されたものと思われる。
- ^ a b c d e 江守五夫著「現代教養文庫:結婚の起源と歴史」(社会思想社、1965年)、同著「日本の婚姻 その歴史と民俗」(弘文堂、1986年)、同著「婚姻の民俗 - 東アジアの視点から」(吉川弘文館、1998年)同訳・E. A. Westermarck 著「人類婚姻史」(社会思想社、1970年)より。後者の原題は「A SHORT HISTORY OF MARRIAGE」で、フィンランドの文化人類学者エドワード・アレクサンダー・ウェスターマーク(Edvard Alexander Westermarck)が1929年に発表した研究書である。彼は、幼児が成長と共に近親者への性的興味を失う様子を分析したウェスターマーク効果(Westermarck effect)でも知られる。なお、様々な文献でよく引用される「スイスのチューリッヒやドイツのバイエルンで初夜権を拒否した場合の罰金や罰則」の事例は、ウェスターマークの研究書から引用されていることが多い。また、スイスの多くはドイツ語圏であることから、通貨単位がドイツマルク(DME)で記述されているが、現在のスイスの公式通貨はスイスフラン(CHF)である。
- ^ 辞書「日本国語大辞典 第二版」(小学館、2006年)第7巻の項目「処女権」より。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 中山太郎著「日本婚姻史」(春陽堂、1928年)の第一節「初夜権の行使は団体婚の遺風」より。民俗学者の中山太郎(1876年 - 1947年)は、南方熊楠や柳田邦夫とも親交があった。ただし、研究スタイルはフィールドワーク(現地調査)よりも、歴史書などの文献調査を重視する傾向にあった。
- ^ 折口信夫著「古代研究」(大岡山書店、1929年)第一部「民俗学篇」の項目「古代生活の研究」「水の女」「最古日本の女性生活の根柢」より。民俗学者であり国文学者でもあった折口信夫(1887年-1953年)は歌人でもあり、著書は多い。同性愛者だったことでも知られる。彼の研究を学問として体系化した「折口学」も参照のこと。
- ^ 折口信夫著「古代研究」(大岡山書店、1929年)第二部「国文学篇」の項目「『とこよ』と『まれびと』と」より。「折口信夫全集4」(中央公論社、1995年)に所蔵されている。
- ^ a b c 折口信夫著「古代研究」(大岡山書店、1929年)第二部「国文学篇」の項目「古代生活に見えた恋愛」より。「折口信夫全集1」(中央公論社、1995年)に所蔵されている。折口は「おえびす様」を「えびす様」と表記し、中部地方としている。「琉球」については沖縄地方としている。
- ^ 雑誌「人生創造」は、1924年に啓蒙家で文筆家の石丸梧平が妻と共に創刊した。
- ^ 日本「近代以前」、羽前国の108個の円餅の事例は、南方熊楠も江戸時代の本草学者(医者)、佐藤中陵の著作による随筆「中陵漫録(ちゅうりょうまんろく)第11巻」の中に同様の記述があるとしている。
- ^ a b 藤林貞雄著「性風土記」(岩崎書店、1959年)より。この本は後に、岩崎美術社から数回「民俗民芸双書シリーズ」として再刷されている。
- ^ 太田三郎著「女」(黎明書房、1957年)より。文中の書き出しに、松川浦を訪れたのは「10年くらい前」とあることから、1940年代後半に聞いた話と思われる。
- ^ 山梨時事新聞 昭和34年3月25日、ジュリスト177号52-53頁(1959年5月)
- ^ 阪田英一著「わが映倫時代」(共立通信社、1977年)より。警視庁が指摘したのは公開前なのか公開後なのか、タイトルなのか内容なのか、製作した映画会社はどこなのかといった詳細については述べられていない。また、同時に指摘されたピンク映画のタイトルは「女体なで切り」「性教育裏口入門」「畜生道」「青い暴行」「娘の性道徳」「壷あらそい」「処女乗っ取り」「激情の宿」「セックス開放地帯」などだったと述べられている。
- ^ a b 南方熊楠が「南方植物研究所」を設立しようと奔走していた際、募金活動の一環として日本郵船大阪支店副長の矢吹義夫から簡単な略歴を求められ、それに応えて宛てたのが1925年に発表した自伝的随筆「履歴書」である。結果的には総字数5万5千字以上という膨大な履歴書となった。現在は、「南方熊楠随筆集」(筑摩書房、1994年)や「南方熊楠コレクション 第4巻 動と不動のコスモロジー」(河出文庫、1991年)、「人間の記録84:南方熊楠 履歴書ほか」(日本図書センター、1999年」)などで読むことができる。
- ^ 中山太郎は著書「日本婚姻史」の中で、南方熊楠の「種臼」話を引用しており、「十四歳くらいの少女が風呂屋へ来て、十七、八歳の木挽(こびき、材木職人)の少年を付けまわし、種臼きってくだんせ、としきりに言うていた。この年頃になっても処女でいるのを大恥辱に思っているらしいとのことである」と述べている。
- ^ 松居竜五, 月川和雄, 中瀬喜陽, 桐本東太『南方熊楠を知る事典』講談社〈講談社現代新書〉、1993年4月20日。ISBN 4061491423。全国書誌番号:93037179 。
- ^ 参考:南方熊楠。著書「十二支考 鶏に関する伝説」。初出は1921年の雑誌「太陽」(博文館)。その後、「南方熊楠全集」(乾元社、1951年)や「十二支考」(岩波書店、1994年)などに収録されている。
- ^ 参考:南方熊楠「インド」。「ヴァチヤ梵士」とはマッラナーガ・ヴァーツヤーヤナ(Mallanaga Vatsyayana)を指し、「愛天経」とは「愛経文」とも翻訳される「カーマ・スートラ」を指す。なお、「アンドラ」については、「インドラ」または「アーンドラ・プラデーシュ州」を指すと思われるが、原文を読む限り特定できない。
- ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。豊臣秀吉に関する出典は、原文のままである。
- ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「ブラットンのノート・ブック」とは、13世紀のイギリスの法学者ヘンリー・ブラクトンが1268年に発表した著書「Bracton's Note book」のことである。この本には「A collection of cases decided in the King's courts during the reign of Henry.」との副題があり、イングランドのヘンリー王時代にあった裁判記録が掲載されている。なお、原文ではスコットランドとイングランドの時代は特定されていないが、両国を並記していることからイングランド王がスコットランドに侵攻していた11世紀頃から15世紀頃を指すと思われる。
- ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「『大英百科全書』十一板」とは、イギリスのジャーナリストであり編集者だったヒュー・チザム(Hugh Chisholm)が、1910年に改訂出版したブリタニカ百科事典 第11版(全29巻)を指す。また、原文は「紀元398年」だが、第二次シケリア戦争の最中だった紀元前398年と思われる。
- ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「マルコルム三世」とはスコットランド王のマルカム3世を指す。また、「義経は母を何とか」とは、源義経と、彼の母親である常盤御前を指す。これは、平清盛が常盤御前と源義朝の間にできた子供たちを殺そうとするが、彼女が絶世の美女であったことから助命嘆願を聞き入れ、その交換条件として妾になることを要求したとする故事に倣っている。
- ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。「ブリヴ邑(村)」はフランスのコレーズ県にあるブリーヴ=ラ=ガイヤルドを指す。日本語では「ブリーブ」や「ブリブ」とも書かれる。「コラン・ド・ブランシー」とは「地獄の辞典」編纂をライフワークとしたフランスの作家コラン・ド・プランシーを指す。
- ^ 参考:南方熊楠「ヨーロッパ」。原文には特に出典がない。
- ^ 参考:南方熊楠「南米」。啓蒙家で文筆家だった尾佐竹猛が、明治文化研究会の設立準備を進めていた時期にやりとりした書簡の中から引用したと思われる。したがって、1900年初頭と思われるが、この件を尾佐が何かを読んで書いたのか、それとも誰かから聞いて書いたのかなどは不明である。
- ^ 参考:南方熊楠「中国」。「南方は、この人々の末裔が「烏滸人(おこびと、アムダリヤ川流域の民族)」であり、「阿呆を烏滸という」起源であろうと述べている。
- ^ 参考:南方熊楠「日本」。藤屋伊左衛門は吉田屋の若旦那で、現在でも歌舞伎の演目「廓文章(くるわぶんしょう)」の主役として演じられ続けている。
- ^ 参考:南方熊楠「日本」。原文には特に出典がなく、南方の体験談を交えていると思われる。
- ^ 参考:南方熊楠「日本」。「藤沢君の『伝説』信濃巻」とは、民俗学者の藤沢衛彦が1917年に発表した著書「日本伝説叢書 信濃の巻」(日本伝説叢書刊行会)を指す。これは、その後に「すばる書房」から何度か再刷された。なお、これは貢米賃の立替行為であって、南方も多少蛇足のように述べている節がうかがえる。
- ^ 辞書「事典 家族」(弘文堂、1996年 )の項目「初夜の忌」と項目「トビアの晩」より。共に、社会学者の江守五夫による解説である。
- ^ レイモンド・モリゾー著・熊沢一衛訳「ヴォルテールの現代性」(三恵社、2008年)。啓蒙思想家でもあったヴォルテールは政治や法律に関する著作が多く、彼を研究したこの著書の第XII(12)章「ジュラ山中の農奴とジェックス地方」では、遺産継承権(財産遺贈権)の考察で「カップルは初夜の日にどちらの家にいるかが問われる」とある。
- ^ Braveheart "Wedding" Jus primae noctis YouTubeにて、該当動画の00分40秒辺りにこのシーンがある。
初夜権(Jus primae noctis)
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「初夜権」の記事における「初夜権(Jus primae noctis)」の解説
1972年に映画監督のパスクァーレ・フェスタ・カンパニーレが指揮し、俳優のレンツォ・モンタニャーニ(Renzo Montagnani)が主演した、イタリアのコメディ映画。日本未公開。日本以外ではDVDも発売されており、イタリア語のeBay "Jus Primae Noctis 1972" などから購入できる。
※この「初夜権(Jus primae noctis)」の解説は、「初夜権」の解説の一部です。
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