元禄文化
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元禄文化(げんろくぶんか)は、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化。
注釈
- ^ 水戸の漢学者で地理学者の長久保赤水が「坤輿万国全図」をほぼ忠実に踏まえて1785年に刊行した「地球万国山海輿地全図説」は、木版で印刷されて民間にひろく流布した。
- ^ 西鶴の句は、その奇矯な作風から「阿蘭陀西鶴」といわれた。児玉(1974, 改2005)pp.491-492
- ^ 仮名草子には、恋愛物、翻訳物、模擬物、懺悔物、教訓物、戦記物、遍歴物、笑話物などの種類があった。原田 他(1981)p.235
- ^ 「三井九郎右衛門」のモデルは三井八郎右衛門。三井の当主は代々八郎右衛門を名のった。
- ^ 作者不詳の能楽『放下僧』では、かたきをねらう兄弟が放下師(放下)と放下僧に扮装し、曲舞、鞨鼓、小唄などの芸づくしをおこなう場面がある。山路(1988)p.45
- ^ 伊勢太神楽は、織田信長に敗れた武士たちのうち伊勢国桑名に落ちのびた一派といわれ、全国を旅する芸能集団となって獅子舞・曲芸を演じた。佐藤(2004)p.116
- ^ 彦八の出身地の大阪市では毎年9月に「彦八まつり」がおこなわれている。
- ^ 上方落語では、今日でも、「見台」という小型の机に小拍子を撃ち叩いて音を鳴らす演出があるが、これは「辻噺」より発展した名残りといわれている。つまり、上方ではまず大道芸として発達したため、客足を止めるために大きな音を出す必要があったものと考えられている。日本芸術文化振興会「落語の歴史:落語家のはじまり」
- ^ 大橋流、玉置流ともに書の流派で、天の川を渡ることに橋が、恋仲・夫婦仲を磨くことに玉が掛けられている。初代小野お通は北政所の侍女だったという伝説の能書家であり、2代目お通はその娘にあたる。横田(2002)pp.361
- ^ 宝永に再建された金堂は天平時代のものよりも規模は小さいが、現存する世界最大級の木造建築である。
- ^ 戦国時代にあっては、「生と死」の問題は仏教に委ねられていたが、幕藩体制下では超越者との関係を断ち切り、現世的な関係を第一義とする思想が求められたのであり、従来の擬制的な主従関係や身分的・階層的秩序観念を従来に比していっそう本質的なものとして説明する哲学が要請されたのである。奈良本「鎖国下の創造」(1970)pp.110-111
- ^ 羅山も、正式に幕府に仕えるときには、家康の命により剃髪して道春と名のっている。以後、羅山の三男の鵞峯までは僧侶待遇であった
- ^ 湯島の学塾は、寛政の改革のとき幕府直轄の学問所(昌平坂学問所)に改められ、以後、直臣のみならず藩士・郷士・牢人の聴講入門も許可された。
- ^ 順庵門下の白石、鳩巣、観瀾、芳洲、祇園南海、榊原篁洲、南部南山、松浦霞沼、服部寛斎、向井滄洲を合わせて「木門十哲」と称することがある。
- ^ 新井白石は順庵の塾に束脩を払って入門したのではなく、いわば特待生の待遇であったが、あくまでも順庵門下という意識をもち続け、他からの誘いも断っている。奈良本(1974)pp.55-56
- ^ 浅見絅斎の著書『靖献遺言』は中国史における殉国者的な8人(屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)らについての歴史的論評であったが、幕末の志士にさかんに読まれた。
- ^ 慶安の変(由井正雪の乱)と承応の変(別木庄左衛門事件)についてそれぞれ漢文で叙述した『草賊前記』『草賊後記』には、両事件と蕃山が何か関係があったかのように書かれているが、もとより何の証拠のない話である。しかし、この記述は公儀権力から蕃山がきわめて危険視された存在であったことを傍証している。
- ^ 元和元年(1615年)には江西省の僧劉覚、寛永5年(1628年)には福建省泉州の僧覚海、寛永6年(1629年)には福建省福州の僧超然がそれぞれ来日し、それぞれ東明山興福寺、分紫山福済寺、聖寿山崇福寺をひらいている。その後の渡来僧はこの3寺にまずは逗留することが多かった。駒田(1986)pp.110-111
- ^ 彰考館はのちに水戸に移された。
- ^ このことについて、抱一は兄より、人間の生命を預かる医師がかかる簡便な書籍で医術を学べば必ずや過ちを犯すだろうと諫められ、医書の著述をやめたといわれている。横田『天下泰平』(2002)pp.357
- ^ 他に、基盤とする地方は不明であるが葛間勘一による農書『地方一様記』が元禄8年に刊行されている。
- ^ 白石はシドッティに「日本は極東の小さな国である」と述べたところ、シドッティから「領土が大きいか小さいか、ヨーロッパから遠いか近いかといったことで国の評価をするのはおかしい」と指摘されている。これは『西洋紀聞』に紹介されているエピソードであるが、合理主義者である白石の自省が吐露されたものとして注目される。市村・大石(1995)pp.72
- ^ 綱吉政権による2つの法令は、死んだ牛馬の片付けや町・堀の清掃など清めにかかわる仕事を社会にとって必要不可欠なものにした一方で、その仕事や仕事にたずさわる人を賤視したり、穢れを投影して忌み遠ざけたりするなどの誤った観念を産んだ。高埜(1992)p.150
- ^ 綱吉が将軍となって間もない貞享3年(1686年)には「初物禁止令」が出されている。大石(1995)p.31
- ^ 当時の民間記録(主として西日本)では、奈良鳴川(木辻)、大津馬場町、駿府弥勒町、播州室小野町、備後鞆蟻鼠町、越前敦賀六軒町、泉州堺の北高須町、兵庫磯町、石見温泉津稲町、佐渡相川山崎町、安芸宮島新町、長門赤間関稲荷町、筑前博多柳町、長崎丸山町などが遊里として知られていたことがわかる。原田 他(1981)p.233
出典
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元禄文化
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17世紀半ばから18世紀初めの幕藩体制安定期の元禄文化は社会の安定と経済の発展に伴い、町人に受け入れられる文学や芸能が生まれ、身分秩序の枠内で生きる人々の言葉をつかんだ。特色は武士と上方豪商が担い手で、現実主義・合理的・実証主義的傾向であった。儒学、自然科学、古典研究が発達し、自由な人間性の追求が行われた(町人文学)。華麗で洗練された美も特徴。文学では、俳諧(松尾芭蕉)、小説(井原西鶴)、脚本(近松門左衛門)。絵画では、琳派(尾形光琳)、土佐派(土佐光起)、住吉派(住吉具慶)、浮世絵(菱川師宣)、(鳥居清信)、風俗画(英一蝶)。歌舞伎では、江戸(市川団十郎)、上方(坂田藤十郎)、女形(芳沢あやめ)などがよく知られている。
※この「元禄文化」の解説は、「日本教育史」の解説の一部です。
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