補説
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この第二次太田城の戦いは、「その実態については明確でない点も多い」と[誰が?]している。その理由として、堤防の工事期間の短さが挙げられている。大堤防は城の周囲300m、総延長6kmにも及ぶ巨大なものであったが、3月26日から工事が開始され4月1日に完成し、わずか5日間で築いた事になる。「現在の優れた工事技術でも数か月はかかるのに、平地にこれだけの堤防を短期間で仕上げたというのは疑問である」と記しており、完成できた理由として、紀ノ川はよく氾濫しておりもともとあった堤防を利用したという説を紹介している。「築造に投入した人数は、二十六万九千二百余『太田水責記』[要文献特定詳細情報]とも、四十六万九千二百余『紀伊属風土記』[要文献特定詳細情報]ともいうが、延べ人数であるにしても当時の人口を考えれば誇大にすぎるだろう」と工事に投入された人数の多さにも疑問が投げかけている。また「太田城水攻めは完新世段丘の崖と自然堤防(ポイントバーを含む)を利用して行われ、現存する出水提によって、宮井川(大門川)を切戸口付近で堰き止めただけの小規模なもので、太田城は出水提の南側(上流側)、宮井川対岸の太田の小字「小向」付近であったと推定する」と従来言われていた説よりも、小規模なものであり、しかも、太田城の場所は、来迎寺に太田氏の妻「砂の墓」があり、小字(こあざ)「城跡」の伝承から1921年(大正10年)に「太田城址碑」が建てられた場所は、太田集落があった場所としながらも、太田城は秀吉が築いた出水堤防の南側であったとしている。 またこの戦いの起因ついても、秀吉方の史料と太田方の史料では隔たりがある。秀吉方の史料『紀州御発向之事』[要文献特定詳細情報]では、最初太田衆より詫び言を申しており、許しておいたところ、よからぬ者が集まって来て、軍需物資を奪ったり、人足を殺したりしたので懲らしめのために水攻めしたとあり「秀吉朱印状」にも同様の記述がされている。また、秀吉の使者として中村一氏が太田城を訪れ、開城勧告をした時に「従わなければ攻め滅ぼす」とした態度が気に入らなかったのか、中村一氏配下の53名を討ち捕ってしまい、この53名という数字が恨みの数字となり、講和の条件も同数の53名の首を要求したという異説もある。また太田方の資料では、3月25日中村一氏が使者として降伏を勧告したが「その気はないから早く馬を向けられるがよかろう」としたため、先手の53名を討ち取ったとしている。秀吉方の史料と太田方の史料では大きな隔たりがある。 更に史料の中にも問題がある。播磨良紀によると[要文献特定詳細情報]、「太田家文章」は覚書の形を取りながら、文末に「恐々謹言」と書き止め文言となっていて形式がおかしいとし、また前野長康の花押がこの頃のものではない為、後世に作成されたとしている。すべての記述が史実と相違するかは不明だが、小和田哲男も「その可能性が高い」としている。 第二次太田城の戦いは不明確点が多いという他に、秀吉朱印状にある第三条は多くの研究者[誰?]から注目されており、「民衆の武装解除であり、秀吉が目標とする領主制の最終的な到達段階とは最も対極に位置する「地域的一揆体制」の否定そのものといってよい」とされている。また前田玄以に宛てた羽柴秀吉の書状によると「鉄砲・腰刀以下を取りて免じておくところもこれあること候」と記されている。これは太田城が落城後1カ月後の事で、籠城していた百姓のみならず雑賀衆・根来衆の地百姓全体に対してである。この刀狩は1588年(天正16年)におこる秀吉の刀狩の先駆で「一揆の武装解除といった戦後処理のにとどまらず、長期的な展望にたっての身分政策を指向していたと考えられ、全国的な兵農分離政策の先駆けとして、重要な意味を持っていたといわなければならない」としている。
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補説
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デンマーク語には竜を表す言葉が2種類がある。一つは「ワーム」に相当する「lindorm」(レンオアム)であり、もう一つは「ドラゴン」に相当する「Drage」(ドラーウェ)である。また、レンオアムはスカンディナヴィアに古くから伝えられている、蛇のような姿の生き物とされている。いっぽう、ドラーウェはギリシア語やラテン語にある概念から生まれた生き物だと考えられている。北欧の古い文献において翼の生えた竜という存在は、『巫女の予言』(古エッダ)に初めて登場するが、それ以前の、たとえばシグルズの竜退治を描いたルーン石碑では、竜は蛇のような姿で表現されている。 また、「orm」(オアム)はデンマークで蛇・虫という意味であり、同時にワームという意味にもなる。成長して「lindorm」(レンオアム)と原典では記載されている。[要出典]この『竜と娘』はレンオアムの登場する話である。
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補説
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「フォーティナイナーズ」の記事における「補説」の解説
土佐沖で遭難した中浜万次郎(ジョン万次郎)はアメリカの捕鯨船に助けられるがハワイ経由で東部へ行き、そこで教育を受ける機会を得た。ゴールドラッシュの報を聞いた万次郎は南米大陸南端を経由して半年以上かけてカリフォルニアに着き、そこで金の採掘をおこなって帰国のための旅費をかせいだ。 アメリカンフットボールのプロチーム「サンフランシスコ・フォーティナイナーズ 」や競走馬「フォーティナイナー」の名称はこれにちなむ。また、カリフォルニア州は公式の愛称をGolden States(黄金の州)としている。これに因んだチームがオークランドに本拠地を置くNBAのゴールデンステート・ウォリアーズである。 経済学者の野口悠紀雄は、日本経済の将来について、フォーティナイナーズの失敗とその周囲の成功例を教訓とすべきだとの論を展開したことがあった。
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補説
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「ジャック=ベニーニュ・ボシュエ」の記事における「補説」の解説
英語話者によく知られるボシュエの業績は、イングランド王妃ヘンリエッタ・マリア、オルレアン公爵夫人ヘンリエッタ・アン、そして大コンデらの葬儀での3つの追悼演説である。
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康長はその後河内南半分の守護に任じられた。これ以前、康長は阿波において、信長の敵の三好三人衆を補佐していた。これに対して「名門三好家および老練の康長という人物に利用価値を認めたからであろう」とか、「康長は、宗家の義継が死んだ後は、三好家を代表する存在だった。阿波・讃岐・淡路にまだ勢力をもっている三好一族への影響力も強い。そうした康長を、いずれは四国侵略に利用しようとしたのではないだろうか」とし、三好氏の影響力を四国征伐に役立てる為ではなかったかと指摘されている。 この戦いが始まる天正3年3月、信長が細川藤孝に対して与えた朱印状と同時期に、荒木村重に対しては摂津、藤孝には山城、塙直政には大和の守護をそれぞれ与えている。この時に信長は石山本願寺を攻城を決意したと考えられ、「対本願寺包囲体制が完成したわけである」と指摘されている。 高屋城、石山本願寺と並ぶ主戦場であった新堀城は文献によって推定地に違いがある。大阪府大阪市住吉区長居東周辺で「天正三年に織田信長に攻め落とされた。城跡付近の旧堀村は昭和初期まで環濠集落の形を残していた」とし、『大阪市史』も住吉区長居東周辺としている(長居東にある瀧光寺のHPによると堀村には新堀城の伝承は伝わっておらず、築城伝承は残るが「栴檀城」という地名が過去に有りそちらである可能性があるとしている)。一方『信長公記』には「堺の近所の新堀と言う砦」、『松井家譜』には「堺之近辺新堀之砦」、『有吉家代々覚書』には「泉州堺近辺新堀城」の記述が見られ『戦国合戦大事典』『石山本願寺の興亡』では大阪府堺市北区新堀町周辺としている。このように各文献によって違いがあり、新堀城がどこにあったのか定まっていない。 「白天目」茶碗は谷下一夢『顕如上人伝』によると、信長の礼状に「11月18日」とあることから元亀3年(1572年)ではないかとしているが、井上鋭夫によると当時の情勢や「賢会書状」などから、翌年の天正元年ではないかとしており、文献によって石山本願寺から信長に差し出された年代に違いがある。
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補説
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野村進によれば、日本で200年以上の歴史をもつ企業は3,000軒を数え、中国9軒、インド3軒、韓国0軒と比べ突出しており、ドイツ800軒、オランダ200軒とくらべても多く、日本は世界の中でもずば抜けた「老舗大国」と言って過言でないとしている。
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補説
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「三夷教」以外で西方に起源を有し、唐代に中国に伝播した宗教としては、イスラームがある。中国では「清真教」と呼ばれ、モスクは「清真寺」と表記され、また、当時勃興したイスラム帝国は「大食」とあらわされた。のちにウイグル(回鶻)の人びとが多数イスラームに改宗したことにより、イスラームを「回教」ないし「回々教」とする表記も広まった。 イスラームは中国全土に広く伝わり、言語・形質等の点で漢族と共通するイスラーム教徒、いわば漢族のムスリムは、「回族」として中華人民共和国の少数民族の一つとして認められている。現在、回族は中国全土に広く分布しており、その人口は2000年時点で約980万人とされ、中国領内のムスリム全体のおよそ半数を占めている。 また、開封には宋代から19世紀末にかけてユダヤ教徒のコミュニティが存在していた。詳細は開封のユダヤ人を参照。
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ニコライ2世の戴冠式には清国からは李鴻章も参列した。李鴻章とロバノフは密約を結び、日本に対する清国・ロシアの共同防衛とともに、シベリア鉄道の短絡線となる東清鉄道を清国領土内(西端の満洲里(マンチュリー)から東端の黒竜江省綏芬河(ポクラニチナヤ)まで)に敷設する権利も認めさせるなど、ロシアの満州における権益を大幅に認めさせた(露清密約)。
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補説
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この伝承は1880年にJ. Jasialaitisによって記録されたが、口述者は不明とされている。リトアニアの特に東部と南部に同様の民話が多数伝えられ、八十余りが記録されている。国民の多くに親しまれ、文学や音楽の素材として繰り返し取り上げられてきた。アールネ・トンプソンのタイプ・インデックスは425Mである。 この伝承は、リトアニアの詩人サロメーヤ・ネリスが1940年に「Eglė žalčių karalienė」として発表したものが有名である(最初に著作物として発表したのはM. Jasewiczで、1837年である)。またバレエではエドゥアルダス・バルスィース (Eduardas Balsys)が1960年に「Eglė žalčių karalienė」として発表している。いずれも題名は「蛇の女王エグレ」である。 伝承の中に出てくる主人公「エグレ」 (Eglė) とは、リトアニアでは女性の名として一般に用いられるほか、「トウヒ」 (eglė) を表す一般名詞としても用いられる。
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補説
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「ムーサー・カーズィム」の記事における「補説」の解説
1979年のイラン・イスラーム革命の最高指導者であったホメイニ(ルーホッラー・ホメイニー、1902年-1989年)は、みずからムーサー・カーズィムの子孫であると称していた。
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アララルはバスク語で「山脈」を意味する。アララルには魔物が棲んでいるとされている。 スペインの竜伝承では卵が武器になる説話が多い。卵なら何でもいいというわけではなくその卵は小さくて黄身も持たない、特別な卵であるのがふつうである。
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補説
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「ガザ侵攻 (2014年)」の記事における「補説」の解説
^ タイ人労働者1人含む ^ 死者数は特記なき限りパレスチナ側はガザ政府保健省、イスラエル側はイスラエル国防軍発表による ^ al-Khalil(アル=ハリール)はヘブロンのアラビア語名 ^ 核兵器開発の疑惑がある ^ オスロ合意では、ガザ地区沿岸から20海里(37.04km)の漁業権をパレスチナ側に認めていたが、イスラエル国防軍は2009年より一方的に3海里(5.556km)に規制強化し、3海里を超える海域に出ようとする漁船などを攻撃している。Israel shrinks Gaza fishing limit to three miles, down from six Date: 14 / 02 / 2009 Time: 18:05 - マアン通信(ウェブアーカイブによる保存)(英語)。|中東|ガザ漁民とイスラエル海軍との攻防 - IPSジャパン メル・フリクバーグ、訳:浅霧勝浩。2010年 1 月 イスラエル及び被占領パレスチナ地域 窒息させられている:イスラエルによる封鎖下のガザ地区 - アムネスティ・インターナショナル ^ イスラエル国防軍のいう「緩衝地帯」のこと ^ 「誘拐(kidnap)」と呼ぶのは、イスラエルがハマースに捕虜を取る資格を認めていないことを意味する
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「丸山城 (摂津国有馬郡)」の記事における「補説」の解説
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ヒトラーの主治医であるテオドール・モレルは牛の前立腺から抽出した男性ホルモンの一種テストステロンをヒトラーに処方しているが、これは男性ホルモンの投与が活力や精力の増強になるとモレルが信じていたためである。
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補説
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古来より集団の中には長(族長、長老など)が存在した。その長の、集団に対する決定権が発達したものが王権と見なされている。王の決定に集団が従う、という構造は生存のための条件が厳しかった古代においてはある程度受け入れられてきたと考えられる。ただ古代ギリシアのポリスにおける限定的な民主政治のような形態も存在したため、生存条件の比較的緩やかな地域においては、他国の制度の受け入れのような形で王権が発生した場合もある。実際に東南アジア地域では中世まで国家という枠組みそのものが存在していなかった地域もある。 各国の歴史が語るように本来地域集団に対して多大なる貢献があった人物が王になるのが一般的であるが、王の後継者にそのような業績が無い場合は血縁であるという以外に王になる理由は存在していない。そのことに不満を持つ者による後継者争いは歴史を動かす大きな原動力となっている。これは、王権は奪い取ることのできるものという認識が存在していた傍証でもある。それを避けるためにも地域・時代によってさまざまな、王権を奪われないように権威付けする努力が見られた。その一つがヨーロッパで発生した王権神授説である。また帝国君主である皇帝による“帝権”も、王権と意味はほぼ同様である。 また古代中国や中世ヨーロッパにおいては、王は皇帝または教皇の下の爵位であり、王権は与えられるものであった。
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長慶は晴元に反旗を翻し軍事行動を開始するが、晴元の仇敵であった氏綱と通じ、晴元の管領職を奪い取ることになる。 政長が三宅城を出て江口城に出陣したのは、六角氏の援軍を待ち長慶と相対するのではなく、政勝が榎並城に8ヶ月間も篭城しており救援に向かう予定で、食料もわずかしか持っていなかったという説もある。どちらにしてもこれを好機と見た長慶は、冬康と一存に三宅城と江口城の中間地点である別府河畔に布陣させたと思われる。政長軍は退路も絶たれ食料も底をつき(江口城に籠城したのは6月12日から23日の11日間だった為、携帯していた食料は3日間程度ではなかったと思われている)、『足利季世記』の和歌につながっている。 冬康の率いる淡路水軍は神崎川を利用し周辺の水運に通じていたのではと思われている。 『足利季世記』によると、長慶は主君の細川晴元を討つことを逡巡してなかなか軍勢を動かそうとしなかった。しかし、十河一存がこうした長慶の姿勢を見て、独断で軍勢を動かし突入したと伝える。
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旅ネタの一つで、船の中の人物のやり取りは「三十石」「兵庫船」「小倉船」と同じであるが、終わり近くの刀をめぐる争いでははめものが入り、芝居がかった演出である。 2代目桂三木助が得意としていた。三木助の死後、演者が途絶えていたのを3代目桂米朝が明治期の二世曾呂利新左衛門の速記本や三木助の高座を覚えていた桂右之助の記憶などを頼りに1962年(昭和37年)に復活した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:42 UTC 版)
この時代の後半、津軽半島・下北半島を含む東北地方北部は、渡島半島など北海道南部との交流を密にしており、「日本国」の国制のおよぶ社会とその外側の社会とをむすぶマージナルな空間としての意味と役割を強めた。13世紀以降、「海の道」を通じて昆布や鮭など北方の産物が本州以南にもたらされると同時に中国大陸の銭貨や陶磁器が東北・北海道の地域に大量に流れ込んだ。これを沙汰したのが、蝦夷管領と称された安東氏であった。北海道では、これに先だって女真族など北東アジアの諸民族の影響を受けた文化が道東部に流入し「オホーツク文化」が生まれたが、オホーツク文化は道東部以外の北海道全域を覆っていた擦文文化に吸収されてゆき、やがて、上述のような南方からの文物の流入とサハリンや沿海州との交流のなかでアイヌ文化が形成されていった(→ 詳細はアイヌ文化参照)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 01:31 UTC 版)
『平家物語』と『源平盛衰記』の先後関係の問題は、そう単純ではなく研究者間で大きく異なるので、主な主張を列挙する。 まず林羅山は葉室時長が『源平盛衰記』を作り、行長が12巻本『平家物語』を作ったとした。これはのちの冨倉徳次郎に先行して、読み本系・語り本系の二元論を『徒然草野槌』で説いたものである。ほかにも江戸期には土肥経平・近藤芳樹が二本の先後を論じている。 成立年代については諸説あり定まっていないが、概ね鎌倉時代中期から南北朝期にかけてだと考えられている。 近代に入り、まず山田孝雄は『源平盛衰記』が後(『平家物語考』1911年)、藤岡作太郎は『源平盛衰記』が先(『鎌倉室町時代文学史』1935年)であると、異なる研究成果を発表した。また1963年山下宏明は「原平家」から語り本系・読み本系が派生したものであり、旧延慶本・『源平盛衰記』・南都本・屋代本を同列に扱い、山下が考える「原平家」により近い『源平闘諍録』四部合戦状本の影響下に『源平盛衰記』を置いた(『源平闘諍録と研究』)。 また、冨倉徳次郎以来『盛衰記』を読み本系に分類するのが一般的であるが、渥美かをるは「冨倉徳次郎氏(の分類は)はっきりしていない」(『日本文学の争点』1969年)と述べている。渥美かをる自身も同書で「なんらかの抑揚を持った口語りの台本、特に中国の講史の影響を受けた口語りであろうと考える」と述べるように、少数ながらも語り本系の要素があるとする研究者もいる。 どちらが正しいというのではなく、どちらの説に賛成する研究者が現段階では多いかということにすぎない。
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中華人民共和国黒竜江省ハルビン市にある県級市の五常市は、儒教の徳目「五常」に由来する。 五常に忠・孝・悌を足したいわゆる八徳は、滝沢馬琴作の『南総里見八犬伝』にて、主要な登場人物、八犬士のモチーフとなる。彼等はそれぞれ数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、里見家の元に集う。 1988年に放送されたテレビアニメ鎧伝サムライトルーパーでは5つの鎧とその装着者に五常が一つずつ込められており、それぞれ烈火(真田遼:仁)、金剛(秀麗黄~シュウ・レイファン:義)、光輪(伊達征士:礼)、天空(羽柴当麻:智)、水滸(毛利伸:信)となっている。
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「比叡山焼き討ち (1571年)」の記事における「補説」の解説
右の書状は元亀2年9月2日付となっており、比叡山焼き討ち直前に地元の国人和田秀純に宛てた明智光秀の直筆書状で、織田軍に味方してくれた礼、恩賞は望み次第、雄琴城に弾薬、兵士を補給する事、またあらぬ疑いを避けるため人質を差し出すように細かく指示を出し、織田軍の湖東の進軍ルートが詳しく記載されている。 林屋辰三郎はこの時期に、信長が近江における宿所を比叡山とは創設以来の対立関係にあった園城寺(三井寺)光浄院にしていたことを指摘している。
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補説
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従来、江戸文化には元禄文化と化政文化の2つをピークとみなす考え方が有力であったが、実はそれ自体が近代主義的理解であるとし、むしろ18世紀に江戸文化のピークがあったとする見解がある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 16:43 UTC 版)
^ 加賀八家(加賀藩重臣)村井家家臣の関貫秀が「領内に80万石もの隠田があるが、私利を貪る十村らが邪魔をして年貢を取れない」と進言したことから、31人の十村役が豪奢な生活が不届きであるとして投獄され、うち19人が流罪となった事件。十村らの無実を知る寺島はこれを阻止しようと、藩内要路にある関係者に多くの書状を送ったが、かえって罰せられた。
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補説
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永禄10年4月24日の夕刻より行われた東大寺の南大門周辺で行われた銃撃戦は、1988年(昭和63年)から実施された国宝木造金剛力士立像の解体修理で、この戦いの物と思われる銃弾が発見された。 松永軍が由緒ある寺院を焼き払っている時、大和は日照りが続いていたようで、これに農家は困惑していた。当時の状況を『多聞院日記』によると、雨が降らないのは「悪業増盛」のためであると記載されている。また、筒井軍の中にも連日の暑さのためか気が緩んだ者がいたらしく、密かに松永軍と通じていた者がおり、順慶自身に断罪される者もいたようである。 また久秀が寺院を焼いたのは、陣地として使用されることがないように戦術的な目的で焼き払ったと思われているが、一部松永軍が乱暴した結果焼失した寺もあったようで、これら含め『多聞院日記』の「悪業増盛」との記載に繋がっているとする見方もある。東大寺大仏殿の戦いが続いている中、奈良の各寺社では雨を願う祈祷が行われていたようである。 この祈祷降雨の験(げん)があったのか、永禄10年10月8日の夜から9日の朝まで雨が降っていたようで、『多聞院日記』には、後に松永父子が自害する天正5年(1577年)の信貴山城の戦いでは同じ10月10日から翌11日かけて雨が降っていたと記載されているので、「東大寺大仏殿の戦い」も10月8日以後、断続的に雨が降っていたのではないかと思われている。しかし、大和は連日の日照り続き、乾燥していた寺院の火の勢いを弱める程の効果はなかったようである。 阿波公方側史料によると、足利義栄死後の足利義助の上洛行動を小笠原成助に阻止されたことは、三好三人衆にとっては、(成助の義兄弟(姉婿)である)松永久秀に対するこの上ない反発を煽り、その結果南都で戦乱になったとある。
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補説
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1970年(昭和45年)の東宝映画『激動の昭和史 軍閥』では加山雄三が新名をモデルとした役を演じている。
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補説
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男女平等 マハーヴィーラは、男性と女性が精神的に平等であること、そして、両性とも解脱し涅槃の境地に至ることが可能であると説いた。ミルチア・エリアーデも、裸形での修行が義務づけられたマハーヴィーラ在世時の初期教団にあって、女性は容易に裸になれないはずであるのに尼僧(sādhvī)や女性信者(Śrāvikā)の多さを驚愕の念をもって指摘している。 「数」に対する情熱 ミルチア・エリアーデは、シュブリヒの「数の体系」という語を引用しながら、マハーヴィーラの教義の特徴を「自然の構造に対する関心と分類や、数に対する情熱」であるとしている。3種類の意識、4つの世界、5種の正しい知識、魂の功罪を示す6つの色、7原理、8種の「業体」、精神性の14段階などである。
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補説
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^ 本文中でも触れている通り、事件の原因となった記事の筆者「八戸順叔」の読み方が不明なため、本項では記事名の読みを掲示していない。 ^ 礼部は中国の伝統的な行政機関「六部」の一つで、朝鮮や安南・琉球など朝貢国との外交を司る役所である。それに対し第二次アヘン戦争後に設立された総理各国事務衙門は、英・仏・米など近代的な条約を締結した「有約通商之国」との外交(=洋務)を扱った。総理衙門設立後も、朝鮮などの朝貢国への文書は従来通り、礼部から発せられる咨文という形式がとられた。朝貢国・有約通商之国のどちらにも属さない日本は、「無約通商之国」を目指して清と交渉中であった(詳細は広東システム#総理衙門創設と上海システムを参照)。 ^ 李鴻章が初めて出会った日本人は、1870年に日清修好条規の交渉のために渡清した外務大丞柳原前光らであったと思われる。佐々木2000、24頁。 ^ この新聞照録5件のうち、3件は丙寅洋擾(フランス)関連、2件が八戸記事関連であった。 ^ 八戸の記事が掲載されたのとほぼ同時期に将軍となった徳川慶喜は、就任以前から京都に長期滞在しており、在任中江戸へ戻ることはなかった。 ^ 原田1997、141頁は、八戸の記事が載った新聞を『中外新聞七日報』としている。 ^ 『国際人事典』は、八戸喜三郎の読みを「やと きさぶろう」としている。
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補説
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九州地方中部から南部にかけての縄文時代早期の土器群も円筒形を呈する特徴を有し、円筒土器と呼ばれることがある。
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補説
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1967年にザーキル・フセイン(英語版)が第3代大統領に就任して以来、ムスリムが大統領職に就くことはたびたびある。1982年にはシク教徒のジャイル・シン(英語版)が就任している。1997年、不可触民出身者として初めてコチェリル・ラーマン・ナラヤナンが大統領に就任した。2002年に大統領職に就いたアブドゥル・カラームは南インド出身のムスリムで核物理学者である。2007年には、初の女性大統領プラティバ・パティルが誕生した。
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補説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 06:58 UTC 版)
どのような経緯を経て8月28日に白井河原で両軍が対峙したかは、未だ解明されていない。しかし、茨木・和田連合軍が十分な戦力を整えないうちに戦端を開くことを強いられたのに対して、荒木・中川連合軍は伏兵まで準備していた点から、荒木・中川連合軍の側から仕掛けた戦いではなかったかと考えられている。 この戦いを境に、信長によって任命された摂津三守護(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失い、荒木村重、中川清秀、高山友照・右近父子など、以後摂津で活躍する武将が登場してくる。戦国時代から安土桃山時代初期への世代交代の戦いとも考えられている。 新屋坐天照御魂神社には、清秀が惟政の首を取ったと伝わる短刀が奉納されている。それには「長サ一尺五寸、幅一寸三分、太刀作名、奉謝、中川瀬兵衛、作平増盛」と記載されている。
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