人生と研究
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「ヨハン・ヤコブ・バルマー」の記事における「人生と研究」の解説
彼はスイスのラウゼン(英語版)で、裁判長のヨハン・ヤコブ・バルマーとエリザベス・ロール・バルマーの長子として生まれた。学生時代は数学に優れ、大学でも数学を専攻した。 彼はドイツのカールスルーエ大学とベルリン大学で学び、サイクロイドの研究で1849年にバーゼル大学より博士号を取得した。ヨハンはその後の人生のほとんどを、バーゼルで女子校の教師として過ごした。またバーゼル大学で授業を行うこともあった。1868年、彼は43歳の時にクリスティーン・ポーリン・リンクと結婚した。夫婦は6人の子供に恵まれた。 数学者としては大きな業績は残せなかったが、彼は1885年に発表した水素原子の線スペクトルを記述する実験式によって知られるようになった。アンデルス・オングストロームの測定法を用いて水素原子の線スペクトルを分析した結果、彼は線の波長は次の公式に従うことを発見した。 λ = h m 2 m 2 − n 2 {\displaystyle \lambda ={\frac {hm^{2}}{m^{2}-n^{2}}}} ここで、n = 2, h = 3.6456×10−7 m, m = 3, 4, 5, 6, ... である。1885年の発表時、彼は h を "fundamental number of hydrogen" と呼んだ。バルマーは次にこの公式を用いて m = 7 の場合を予測し、397 nm の波長の線は既にアンデルス・オングストロームが観察していたことを指摘された。バルマーの2人の同僚であるH. W. VogelとHugginsによって、バルマー系列の他の線の存在も確認された。 バルマーの公式は、後にヨハネス・リュードベリが発見したリュードベリの公式の特別な場合であることが明らかとなった。 1 λ = R H ( 1 n 1 2 − 1 n 2 2 ) {\displaystyle {\frac {1}{\lambda }}=R_{H}\left({\frac {1}{n_{1}^{2}}}-{\frac {1}{n_{2}^{2}}}\right)} ここで RH はリュードベリ定数であり、nの値は必ず n 2 > n 1 {\displaystyle n_{2}>n_{1}} という関係を満たすが、このうち n 1 = 2 {\displaystyle n_{1}=2} の場合がバルマーの公式である。 しかし、これらの式がなぜ成り立つのかは、ニールス・ボーアが1913年にボーアの原子模型を考え出すまで明らかにならなかった。 バルマーはそれを待つことはなく、バーゼルで死去した。
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人生と研究
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「ジョージ・ウェルズ・ビードル」の記事における「人生と研究」の解説
ビードルはネブラスカ州のワフーで生まれた。彼は1926年にネブラスカ大学で農学の学位を取得した。指導教官のフランクリン・ケイムの勧めでコーネル大学の大学院に進学し、初めは生態学を専攻した。しかしすぐに専攻を遺伝学と細胞学に変更し、ローリンズ・エマーソン、バーバラ・マクリントックの下でトウモロコシの遺伝学の研究を行った。彼は1931年にコーネル大学で博士号を取得した。 ポスドク時代には、彼はカリフォルニア工科大学のトーマス・ハント・モーガンの研究室でアルフレッド・スタートバントらとともにショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の遺伝子の研究を行った。そこで彼はボリス・ エフリュッシとともにハエの幼虫に外来細胞を移植して腹部に第三の目を作らせる技術の開発を行い、目の色を変える変異体は目の色素を作る代謝過程に関与する遺伝子が変異していることを明らかにした。この過程に関与する反応や物質を詳しく調べる実験を進めるうち、彼は生化学者のエドワード・タータムに共同実験を持ちかけられた。彼らはvermilionと呼ばれる変異体からの色素の前駆体の単離に成功したが、ドイツの別のグループにわずかに先を越された。ショウジョウバエを使った実験が認められ、彼はハーバード大学、スタンフォード大学の教授となった。 テータムとビードルは、生化学、遺伝学の実験により適したモデル生物としてアカパンカビを選んだ。アミノ酸やビタミンなどの栄養要求性変異株を作り、個々の遺伝子変異は代謝過程や物質生産過程の個々のステップに関わっていることを明らかにした。この実験結果より、1941年に、1つの遺伝子は複雑な表現系ではなく、1つの特異的な酵素のみを規定するという「一遺伝子一酵素説」が生まれた。彼らの研究は分子遺伝学に新たな道を開き、遺伝子の働きや物質の生合成の経路の解明に役だった。 1946年、ライナス・ポーリングの紹介で、ビードルはカリフォルニア工科大学に新設される生物学部門の責任者となった。冷戦の初期には、ビードルは共産主義を懐疑し、核兵器による放射能の危険性に警鐘を鳴らした。1958年、ビードルとテータムはノーベル生理学・医学賞を受賞した。1961年から68年まではシカゴ大学の総長を務め、トップクラスの大学との評価を再構築した。1966年には著書The Language of Lifeを出版した。総長を退任すると彼は研究の道に戻り、現在はトウモロコシとブタモロコシの進化学的な関係を研究している。しかし1970年代後半に、彼はアルツハイマー病に罹り、自分の手で実験を続けるのは困難となった。ジョージ・ビードルは1989年に、2番目の妻のミュリエル・バーネット・ビードルは5年後の1994年になくなった。彼には前妻のマリオン・ヒル・ビードルとの間に、1931年に生まれた一人息子のデイビッドがいる。
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