世界中を駆け巡る、そして日本へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:11 UTC 版)
「C・W・ニコル」の記事における「世界中を駆け巡る、そして日本へ」の解説
その後、再びカナダで水産調査局や環境保護局での技官などを歴任した。1962年に空手道を学ぶために来日した。この頃、ラボ教育センターの前身のテックで英会話を教える。 空手初段を習得後カナダに戻り、モントリオールの漁業調査局の北極圏生物ステーションで水産哺乳類技師となり、バンクーバー島やノバスコシア州で調査捕鯨の仕事に従事。2年ほどで辞め、イヌイットと暮らしたり北極圏であざらし観察に出かけたりののち、エチオピアのシミエン国立公園の猟区管理人となり、野生動物保護省の狩猟区管理官を務め、密猟者との戦いも過酷を極めた。 その後エチオピアを去って再来日、日本大学で日本語および水産学を学ぶ。この来日期間中に日本人女性と最初の結婚をしている(2人の娘をもうけた後に離婚、長女はカナダ人男性と結婚し、カナダ在住)。この頃、ラボ教育センターのテキストのいくつかを執筆し、谷川雁と知り合う。 再来日から2年後、ウィニペグの淡水協会に雇われ、西方北極圏調査の仕事を得たのち、バンクーバーの環境保護局の緊急対応事務官に昇進する。カナダ国籍を取得した後、1975年、35歳で沖縄国際海洋博覧会のカナダ館副館長として再来日する。翌年母親が58歳で他界した訃報を弟から受けたが、事情があってなかなか帰国ができなかったと本人は語っている。1978年、カナダ政府の官職を辞任し再来日する。捕鯨の物語を書くため、和歌山の太地に1年余生活した。これは、太地の鯨取りの猟師が海での遭難からカナダに渡り、その子供たちにまで及ぶ海に生きる男たちを描いた『勇魚(いさな)』の参考となった。 1979年には「ニックとともだち」として出場して歌った「りんごの木にかくれんぼ」(C. W. Nicol作詩/大蔵真弥作曲、子供服のCM曲として使われた)が、第17回ヤマハポピュラーソングコンテストつま恋本選会で入賞している。この「りんごの木にかくれんぼ」は1991年にファンハウスからCDシングルとして発売され、EMIミュージック・ジャパンから発売されたアルバム『Sail Down the River』にも収録されている。 その後、現在の妻となるニコル麻莉子に出会い(後に末娘をもうける)、親友の谷川雁の紹介で1980年に、谷川が創設したラボ教育センターの拠点であるラボランドのある長野県黒姫山の麓に居所を定める。ラボ教育センターの分裂時は谷川と行動をともにし、谷川が創設した「十代の会」「ものがたり文化の会」に参加・協力している。1981年、第6回創作テレビドラマ大賞に「日時計」で佳作受賞した。以降、亡くなるまで作家活動を続けた。また、自然環境の保護活動でも知られ、1986年、長野県黒姫高原の荒れた里山の一部を購入し「アファンの森」と自ら名づけ、親友で専門家の松木信義と共に里山の再生運動を展開し、エコツーリズムを実践する。ナチュラリストとして高名である。 1995年に念願の日本への帰化を果たし、同時に英国籍とカナダ籍から除籍されたという。小説『風を見た少年』(講談社)は、2000年に大森一樹監督でアニメ映画化された。2002年、一般財団法人「C.W.ニコル・アファンの森財団」を設立。 2005年10月28日に英国政府から日英関係発展に寄与した功績で、名誉大英勲章5位(MBE)を贈られた。2007年2月には大分県内で開催された日本教職員組合の教育研究全国集会の全体集会で「森を育むもの」と題して講演を行った。 2011年の東日本大震災の年に、宮城県東松島市の住人をアファンの森に招待したことがきっかけで、東松島市立宮野森小学校の創設を支援した。 2016年6月6日に、公務でアファンの森を訪れた明仁天皇と美智子皇后の散策の案内役をつとめた。翌月に天皇が譲位の意向を示すと、ニコルは「天皇陛下にかけていただいた言葉は一言も忘れない。自然に包まれた両陛下はお幸せそうだった。退位されて体を休め、お好きなことができるのなら、私も日本人としてうれしい。愛し、尊敬していきたい」と述べている。同年末に直腸がんを患って、東京の病院で手術を受け、2ヶ月におよぶ入院生活を経て、2017年2月7日に退院した。 2020年4月3日に長野市の病院で直腸がんにより死去。79歳没。
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